社号 | 由義神社 |
読み | ゆぎ |
通称 | |
旧呼称 | 牛頭天王 等 |
鎮座地 | 大阪府八尾市八尾木北5丁目 |
旧国郡 | 河内国若江郡八尾木村 |
御祭神 | 素盞鳴命、少彦名命 |
社格 | |
例祭 | 夏祭:7月20日 / 秋祭:10月20日 |
由義神社の概要
大阪府八尾市八尾木北5丁目に鎮座する神社です。
昭和初期の地誌『大阪府史蹟名勝天然記念物』によれば、当社の創建・由緒は不明であるものの、或いは由義宮の時に勧請し、当地は由義宮の旧跡とも言われるとする旨を記しています。
この「由義宮(ゆげのみや)」とは称徳天皇の御代の神護景雲三年~四年(769年~770年)に営まれた離宮で、当地出身の僧である道鏡を寵愛した称徳天皇が行幸して歌垣を行ったこと等が記録に見えています。
しかし由義宮が営まれてすぐ、神護景雲四年の八月に称徳天皇は崩御し、道鏡も下野国へ左遷され、その後由義宮も忘却されたものと見られます。
『大阪府史蹟名勝天然記念物』の言うように当地がその由義宮の旧地であるとの伝承があったらしいものの、近年の発掘調査では当地から南東へ離れた東弓削遺跡が由義宮および弓削寺の遺構である可能性が高いと考えられています。
一方、当社境内にある石碑によれば、「由義宮」の跡地に神社を造営したのが当社の創建であり、後に兵火により焼失する等があったものの、貞享三年(1678年)に天災や水害が多発したため霊験あらたかな「素盞鳴命」「少彦名命」の二柱を勧請して神社を再建したとする旨を記しています。
ただ、当社について「式内河内五社の一社」だったなどと不可解な文言(※)もある点に疑問もあります。
(※「河内国で有力な五社の式内社の一つ」の意か?当然ながら当社を式内社とする説は無い)
とはいえ江戸時代に当社が再建(或いは創建?)されたことはほぼ史実だったのでしょう。しかしやはり当社再建前の当地の祭祀がどのようなものだったかを明らかにすることは難しそうです。
1970年代までは当社は集落から離れたところにあり、境内周辺は一面の田圃でした。その後は高度経済成長期の開発で急速に宅地化し、現在は完全に住宅に囲まれています。
その意味では現在では人々にとってより身近な神社になったと言えるのかもしれません。
境内の様子
当社は八尾木5丁目の宅地の中にあります。ただし当社は1970年代までは集落から離れたところにあり、周りは一面田圃だったようです。
玉垣で道路と境内を仕切り、入口には鳥居が西向きに建っています。
鳥居をくぐって右側(南側)に手水舎が建っています。
鳥居からまっすぐ石畳の参道が伸び、その正面奥に社殿が西向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造に向拝の付いたもの。
拝殿前の左右に配置されている狛犬。花崗岩製の比較的新しいものです。
拝殿後方、塀に囲まれて建つ本殿は銅板葺の一間社流造に千鳥破風と軒唐破風の付いたもの。
本社拝殿の左右それぞれに、拝殿前のものとは別に狛犬があり、覆屋に納められています。
この狛犬は寛政八年(1796年)に江戸に居住していた氏子が奉納したもので、関東様式の特徴を備えたものです。
案内板
狛犬
上記の狛犬の内、左側(北側)にあるものの左側(西側)に隣接して「皇大神社」が南向きに鎮座。
桟瓦葺の流造風の社殿。或いはこれは覆屋で中に社殿が納められているのかもしれません。
皇大神社の左側(西側)に建つ銅板葺の平入入母屋造の建物。
石碑の内容から推してここが絵馬所なのでしょう。扉の上に白馬の絵馬が掲げられています。
境内入口にある鳥居の左側(北側)の傍らに「由義宮舊址」と刻まれた石碑が建っています。
称徳天皇の御代に営まれた離宮である「由義宮」が当地にあったとする伝承があったようで、当社の社名もこれに因んでいるのでしょう。
ただし現在の発掘調査では当地でなく当社の南東にある東弓削遺跡が由義宮および弓削寺の遺構ではないかとされています。
由緒
石碑
由義神社由来
地図