社号 | 矢代寸神社 |
読み | やしろぎ |
通称 | |
旧呼称 | 一ノ宮、牛頭天王 等 |
鎮座地 | 大阪府岸和田市八田町 |
旧国郡 | 和泉國南郡八田村 |
御祭神 | 武内宿祢、波多八代宿祢 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月10日 |
矢代寸神社の概要
大阪府岸和田市八田町に鎮座する式内社です。
社伝によれば継体天皇元年(503年)の創建で、当地に居住した「波多氏」が祖神を祀ったとされています。
関係する氏族として『新撰姓氏録』には次の氏族が登載されています。
- 右京皇別「八多朝臣」(武内宿禰命の後)
- 河内国皇別「道守朝臣」(波多朝臣同祖 / 武内宿禰の子、八多八代宿禰の後)
- 和泉国皇別「道守朝臣」(波多朝臣同祖 / 八多八代宿禰の後)
和泉国には波多氏と同系統の「道守朝臣」が登載されており、この氏族の祖である「八多八代宿禰」は当社の社名とも関係するものと考えられます。
恐らくはこの氏族か、もしくは『新撰姓氏録』に漏れた和泉国の「波多氏」が当社を奉斎したのかもしれません。
当社の北西約2km弱の畑町には同じく波多氏が祖を祀ったとされる式内社の「波多神社」があり、当地一帯は「波多氏」の領地だったと推測されます。
『延喜式』神名帳には当社は二座とありますが、その内の一座が当社で、もう一座は当社の北西500mほどの神須屋町に鎮座していた「諏訪神社」だったとされ、「矢代寸下社」とも呼ばれたようです。
「諏訪神社」は明治四十年(1907年)に当社に合祀され「矢代寸神社」は一本化されました。
当社は「一ノ宮」とも称されますが、これは和泉国の一ノ宮でなく、岸和田藩の領内において最も格式が高いとされたことによるものです。
岡部氏が高槻藩より岸和田藩に入封して以降当社が一ノ宮とされ、藩主代替えの際は領内全ての神社に参詣していたのが後に当社のみとなり、また参勤交代の際にも当社に参拝するのが習わしだったと伝えられています。
当社は江戸時代には「牛頭天王」を祀っていましたが、現在は波多氏や道守氏の祖である「武内宿祢」「波多八代宿祢」を御祭神としています。
他に配祀神の一柱として「素盞鳴命」を祀っているものの、これは当社で祀られていた牛頭天王の後身でなく、明治年間に別の神社から合祀されたもののようです。
境内の様子
境内入口。宅地と田圃の入り混じる中にこんもりとした森があり、そこが当社の境内です。
境内は玉垣で囲われており、一の鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐると、境内は外観と裏腹に開放的で、社殿前まで一直線に石畳の参道が延びています。
鳥居をくぐって右側(東側)に手水舎があります。
参道途中に配置されている狛犬。真新しいものです。
参道の正面奥に二の鳥居と社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は真っ白のRC造で、桟瓦葺の平入入母屋造に妻入入母屋造の向拝が付いたもの。
拝殿後方、塀に囲われて建つ本殿は木造で銅板葺の流造。
本社拝殿の左側(西側)に「光吉大明神」「白高大明神」が東向きに鎮座。
朱鳥居二基の奥に銅板葺の一間社流造の社殿が建っており、見ての通り稲荷系の神社です。
さらにその左側(西側)に「弁財天」が東向きに祀られています。
朱鳥居の奥に銅板葺の宝形造の社殿で祀られており、仏教らしさの感じられるものです。
弁財天の脇のよくわからないところに石造鳥居が建っていました。
鳥居の先には鬱蒼とした森が広がっているだけで、何故こんなところに鳥居を建てる必要があるのか謎です。
当社の参道脇には御神木の大きなクスノキがあり、かなり立派なものです。当社の神域としての歴史が感じられます。
境内の東側には古い狛犬一対と鳥居の笠木が置かれていました。
全体的に新しい建築等の多い当社ですが、この一画に古いものを保存しているようです。
当社の東側にも入口があります。
裏参道にあたるものの、主要な道路に面していることもありこちらも立派な鳥居や石造物などが整備されています。
現在はこちらから参拝する人の方が多いかもしれません。
東側の入口の脇に「道祖神社」が南向きに鎮座。塀に囲われた区画に小さな寄棟造の石祠で祀られています。
「足神様」とも呼ばれ、足の悪い人が撫でると治ると伝えられています。
由緒
石碑
式内郷社 矢代寸神社由緒碑
地図
関係する寺社等
波多神社 (大阪府岸和田市畑町)
社号 波多神社 読み はた 通称 旧呼称 鎮座地 大阪府岸和田市畑町 旧国郡 和泉国南郡畑村 御祭神 波多八代宿祢 社格 式内社、旧村社 例祭 10月9日 式内社 和泉國和泉郡 波多神社 ...
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