社号 | 一岡神社 |
読み | いちおか |
通称 | 祇園さん 等 |
旧呼称 | 海会宮 等 |
鎮座地 | 大阪府泉南市信達大苗代 |
旧国郡 | 和泉国日根郡大苗代村 |
御祭神 | 須佐之男命 |
社格 | 旧村社 |
例祭 | 7月14日 |
一岡神社の概要
大阪府泉南市信達大苗代に鎮座する神社です。
案内板によれば、欽明天皇の御代(539年)に悪疫が流行した際に当社に平癒祈願をしたところ平穏になったといい、山城国に分霊を勧請して疫病除け祈願の神とした旨が記されています。
ここにいう当社から山城国に勧請した分霊とは恐らく「八坂神社」(京都市東山区祇園町に鎮座)を指すと思われるものの、同社の創建については諸説あるとはいえ、当社から勧請したとする説は一般に認められていません。(詳細は「八坂神社」の記事を参照)
ただ「八坂神社」との関係は実際に深かったようで、昭和初期刊行の地誌『大阪府史蹟名勝天然記念物』によれば、かつては旧暦六月七日に僧が神輿を奉じて「八坂神社」へ至り、十四日に還ったと記しています。
また案内板によれば推古天皇の御代(592年)に聖徳太子がこの地に「海営寺」を創建し当社はその鎮守神となったとしています。
海営寺は後に「海会(カイエ)寺」と呼ばれ、現在も当社境内にその遺構が残り「海会寺跡」として国の史跡に指定されています。
ただし海会寺は発掘調査の結果から七世紀後半の創建と推定されており、聖徳太子が創建したとは到底考えられません。
海会寺は、西に塔、東に金堂を配置し、廻廊がこれを囲んで北に講堂が接続する典型的な「法隆寺式伽藍配置」の寺院です。現在その遺構は整備されており、伽藍配置の様子をよく観察することができます。
海会寺は室町時代まで存続していたものの、天正五年(1577年)の織田信長の紀州攻めにより兵火に遭い、それ以降廃絶したと伝えられています。
一方、和泉国の国内神名帳『和泉国神名帳』の日根郡に見える「正一位 一岡社」は当社とされています。
当社は式内社でありませんが、『和泉国神名帳』は式内の諸社を差し置いて当社の神階を段違いに高い正一位であると記しています。
このように高い神階を得た理由ははっきりしないものの、或いは海会寺を氏寺とした人々の働きがあったのかもしれません。
海会寺跡の東方には大規模な豪族の居館跡が検出されており、これは海会寺を氏寺とした氏族の居館だったと思われます。如何なる氏族だったかははっきりしないものの、その遺構の規模から相当な勢力を持っていたことが窺えます。
当社の創建についても恐らく海会寺(海営寺)が創建された後にその鎮守として「八坂神社(祇園感神院)」から勧請されたものと考えるのが妥当でしょう。
当社の現在の御祭神は「須佐之男命」。江戸時代以前は牛頭天王を祀っていたと思われ、明治年間に同格の神道の神であるスサノオに変えたものでしょう。
現在も「祇園さん」と呼ばれているといい、古くからの祇園信仰の神社として崇敬を集めています。
境内の様子
当社は新家川の左岸側に鎮座しています。
境内の南西隅に入口があり、鳥居が南西向きに建っています。
鳥居の傍らに配置されている狛犬。花崗岩製です。
鳥居をくぐって参道を進むと左側(北西側)に手水舎が建っています。
手水鉢は天保二年(1831年)のもので、自然石の造形をそのまま活かした野趣溢れるものとなっています。
さらに参道を進むとかなり広い空間に至り、その先に社殿が建っているのが見えます。
社殿は参道とは向きを変えて南向きに並んでいます。
拝殿はRC造で、檜皮葺の平入入母屋造に唐破風の向拝の付いたもの。高欄が朱塗りになっているのがアクセントとなっています。
拝殿後方、塀に囲まれて建つ本殿は銅板葺の三間社流造。
本社社殿の左側(西側)に「菅原道真」が祀られています。
木製の鳥居が建ち、その奥に玉垣で囲われて平入寄棟造に唐破風の付いた石祠が建っています。
菅原道真を祀る境内社の鳥居傍らに配置されている狛犬。年季の感じられるもので、本社に配置されていたか、合祀された神社にあったものを転用したのかもしれません。
一旦道を戻り、鳥居近くにある社務所の左側(西側)、境内の西端の空間に鎮座する境内社を見ていきます。
社務所の左側(西側)に隣接して「稲荷大明神(ぎおん稲荷)」が南向きに鎮座。御祭神は「宇迦之御魂命」「猿田彦命」。
多数の朱鳥居が並び、その奥の覆屋の中に銅板葺の一間社流造の社殿が納められています。これらは悉く朱塗りが施されています。
稲荷大明神の手前左側(南西側)に「牛神神社」が南向きに鎮座。御祭神は「大己貴命」。
木造の鳥居が建ち、奥の覆屋内の左側(西側)に平入寄棟造に唐破風の付いた古い石祠が、右側(東側)に牛の像が配置されています。
西日本では牛を農耕に使役して家畜として大事にしていたところが多く、こうした牛の守護神を祀る例も多く見られます。
この神社もその一例と思われ、泉州地域ではよく見かけるものです。
牛神神社の奥側(北側)、稲荷大明神の左側(西側)に「市杵島神社」が南向きに鎮座。御祭神は「市杵島姫命」。
鳥居が建ち、その奥の玉垣内に平入寄棟造に唐破風の付いた石祠が建っています。その傍らには古くなって破損したものと思われる屋根の部材も置かれています。
この市杵島神社はかつて熊野古道沿いにあった熊野九十九王子の一つ「厩戸王子」を明治四十年(1907年)に遷座したもの。
旧地は北西250mほど、ウイングゴルフの南東端にあり、現在は石碑と案内板が建っています。
一方、本社社殿前の右側(南東側)には「知恵之神」なる神が北西向きに祀られています。
朱鳥居が建ち、その奥の覆屋内におにぎり形の岩石が安置され注連縄が掛けられています。詳細不明。
海会寺跡
当社境内は七世紀後半に創建されたと推定される古代寺院「海会寺」の遺構が検出されており、国の史跡に指定されています。
この遺構は整備されており、観察することが可能となっています。
本社本殿の左後方(北西側)に講堂の遺構があります。経典の講義や説法等を行った建築です。
本社社殿の左側(西側)には塔跡の遺構があります。高く基壇が築かれその上に塔が建っていたようです。
対して、本尊を安置する金堂の遺構はその大半が現在は本社社殿域となっており、西側のごく一部のみ築地が残っています。
これら塔と金堂を囲んで廻廊の遺構が検出されています。
このように西側に塔を、東側に金堂を配し、北側の講堂から伸びた廻廊がこれを囲む配置を「法隆寺式伽藍配置」と呼びます。
一方、当社境内の東方は豪族の居館跡が検出されており、現在は広場となって整備されています。
ここに居住していた人々が海会寺を氏寺とし、当社を奉斎していたのでしょう。
海会寺と居館跡の模型図が設置されており、往時の伽藍配置などがよくわかります。
塔と金堂が廻廊で囲われ、現在の「法隆寺」(奈良県斑鳩町)と共通する配置であることが一目瞭然です。
プレート
海会寺をつくった豪族の屋敷
プレート
寺と集落を区画する大溝
由緒
案内板
一岡神社之由緒沿革
地図
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