社号 | 杜本神社 |
読み | もりもと |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 大阪府柏原市国分東条町 |
旧国郡 | 河内国安宿部郡国分村 |
御祭神 | 経津主命 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 10月16日 |
杜本神社の概要
大阪府柏原市国分東条町に鎮座する式内社です。羽曳野市駒ケ谷の「杜本神社」と共に式内社「杜本神社」の論社となっています。
当社は非常に小さな神社ですが、境内のすぐ側に「河内国分寺跡」があり、古代においては極めて重要な地でした。
式内論社としては駒ケ谷の「杜本神社」が有力なものの、往昔のことを想えばこちらも引けを取りません。
ただ、当社の創建・由緒については詳らかではありません。
明治四十年(1907年)に国分市場に鎮座の「國分神社」に合祀されましたが、昭和四十七年(1972年)に旧地に復興されました。
また最近(2009年)になって河内国分寺も復興。一時忘れかけられたこの地は、現代に至り古代の繁栄を再現するかのように一大宗教空間として蘇ろうとしています。
境内の様子
境内入口は非常にわかりにくい場所にあります。
国分東小学校から東側へ歩いていくと南側に斜面上へ続く道があり、この道を進んでいくと左側(東側)に石段が見えます。
この石段が当社への入口となります。
石段を上っていくと西向きの小さな社殿が建っています。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造で妻入入母屋造の向拝が伸びています。
社殿全体の構造が把握できないものの、本殿は恐らく後方の建物の中に納められてるのではと思われます。
社殿手前右側(北側)にひっそり佇む流造の小さな石祠。社名や御祭神は不明。
境内は鳥居も灯籠もなく寂しい空間ですが、一度は合祀された神社がこうして復活されただけでも地元の熱意が伝わります。
河内ではこのように合祀された神社が旧地に再建される例が多く、「やはり我が地に神社は必要」という土地柄が表れているように感じます。
境内からやや下ったところに「河内国分寺塔跡」があります。
古くから瓦が出土しており古代寺院のあったことは知られていましたが、昭和四十五年(1970年)の発掘調査で河内国分寺跡と認定されました。
なお、現在見られるのは基壇の復元です。
河内国の国府は遥か西方の平地にあったと推定されていますが、国分寺は大和との境に近い大和川沿いの急斜面上に築かれており、立地的に他の国分寺に無い特色を備えています。
元々あった寺院を改築して国分寺としたようですが、平地の多い河内国において、何故わざわざこのような狭隘な場所が選ばれたのか一見不可解です。
或いは大和国への災厄や悪霊等の侵入を防ぐ意味も込められていたのかもしれません。
案内板
河内国分寺塔跡
案内板
河内国分寺塔跡
「河内国分寺」はいつしか廃絶し、長らく所在もわからなくなっていたのですが、この地に河内国分寺があったと判明した現代、2009年に河内国分寺が復興しました。
高野山真言宗の寺院としてお堂が整備され、宗教空間として再び蘇ろうとしています。
新生・河内国分寺からは大和川の流れる谷と生駒山地を見渡すことができます。
このようなところに本当に国分寺があったのかと思ってしまうような、狭隘かつ急峻な地形となっていることがわかります。
当社の周囲はブドウ畑となっています。柏原市をはじめ中河内・南河内地方はブドウ畑が多く、中でもデラウェアという品種は全国有数の産地となっています。
年間を通して雨が少なく日照時間の長い当地はブドウの栽培に適しているようです。
谷底を流れる大和川。奈良盆地に集められた雨水がこの狭い谷を通り抜けます。
大和川の作った斜面の上に当社や河内国分寺が立地していることになります。


地図
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