社号 | 梶無神社 |
読み | かじなし |
通称 | |
旧呼称 | 船山大明神、桜井の社 等 |
鎮座地 | 大阪府東大阪市六万寺町 |
旧国郡 | 河内国河内郡六万寺村 |
御祭神 | 瓊瓊杵尊、木花開耶姫命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 8月15日、10月23日 |
梶無神社の概要
大阪府東大阪市六万寺町に鎮座する式内社です。
社伝によれば当社の創建は神武天皇の東征に基づくものとなっており、次のように伝えています。
- 神武天皇は東征の際、白肩津から船で入江深く遡ったが、生駒颪により波が高く、船の梶が折れて海上を漂う危機に直面した。
- そこで天皇は祖神に加護を求め祈祷したところ強風は静まり波も穏やかになって、船をつけて上陸することが出来た。
- 感謝のためにその地に祠を建てて祖神である「瓊瓊杵尊」と「木花開耶姫命」を祀ったのが当社である。
このように神武天皇が神社の由緒に組み込まれるのは比較的珍しく、この伝説が古くから語られてたのかは定かではありません。
ただ神武天皇が筑紫から東征して上陸したという河内国草香村の「青雲の白肩津」とは、具体的な地は不明ながらも、日下(クサカ)地区などに地名の名残が見られ、概ね生駒山の西麓にあった草香江(古代河内湖)の港だったと見られています。
こうしたことから生駒山の西麓にあたる当地で神武天皇に関する伝承があったとしてもおかしくはないでしょう。
ただ、船の梶が折れたことから梶無の社名が生まれたことを示唆していますが、この点について式内社「梶無神社」は長らく所在不明となっていたので付会が含まれると思われます。
とはいえ当社が江戸時代には「船山大明神」と呼ばれていたことから船に関する何らかの伝承は古くからあったのかもしれません。
また当社の別名「桜井の社」は『倭名類聚抄』河内国河内郡の「桜井郷」の遺称と見られます。
先述の通り式内社「梶無神社」の所在は不明でしたが、当社の付近(北側?)に「梶無」なる小字があるといい、これを根拠として当社に比定されました。
ただ具体的にどの辺りが小字「梶無」なのかははっきりしません。一方、当社の西方からは五世紀頃の祭祀遺跡が出土しており、当社との関係が注目されます。
また当社で特筆すべき点に、毎年境内にアオバズクが飛来して営巣することが挙げられます。
周りはすっかり開発され尽くした住宅地ですが、僅かに残った当社の森に毎年アオバズクがやってくるのです。
話によれば100年以上も前から続いてるとのことで、都会の間近でこのような珍しいものが見られるのかと驚くばかりです。
境内の様子
境内入口。鳥居が西向きに堂々と建ち、その後方に注連柱が建っています。
周囲は宅地化されているものの境内にだけ森が残っており、これらの木々は貴重なものとして東大阪市の保存樹林に指定されています。
鳥居をくぐって右側(南側)に手水舎があります。
鳥居からまっすぐに石畳が敷かれ、その先に社殿が西向きに並んでいます。
平成六年(1994年)に悪戯による出火で旧社殿が焼失したといい、現在の社殿はその翌年に再建されたもの。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に大きな千鳥破風と唐破風の向拝が付いています。
拝殿前に配置されている狛犬は花崗岩製で古式を感じられるもの。
拝殿背後に瑞垣に囲まれて建つ本殿は銅板葺の一間社春日造。
本殿の右側(南側)に隣接して小さな流造の社殿も見えます。境内社の「春日神社」と思われます。
社殿の右側(南側)に四社が相殿となった境内社が西向きに鎮座。祀られているのはそれぞれ次の通り。
- 「櫻井神社」(祭神「大己貴命」)
- 「八幡神社」(祭神「譽田別尊」)
- 「白峯神社」(祭神「崇徳天皇」)
- 「十二社権現社」
本瓦葺の妻入入母屋造(背後は切妻造)の覆屋となっており、中に社殿が納められているようです。
境内には大きなクスノキもあり御神木とされています。
当社にはアオバズクが毎年飛来してきて境内の木に営巣します。
少なくとも100年以上も飛来が続いてるそうで、宅地化された現在においてもこのような野生動物の習性が息づいているのは極めて貴重と言えるでしょう。
由緒
案内板
梶無神社略記
『河内名所図会』
地図