社号 | 栗原神社 |
読み | くりはら |
通称 | |
旧呼称 | 梶原宮 |
鎮座地 | 大阪府東大阪市吉原 |
旧国郡 | 河内国河内郡吉原村 |
御祭神 | 中臣雷大臣命、水分神、天児屋根命、品陀別命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月第三日曜日 |
栗原神社の概要
大阪府東大阪市吉原に鎮座する式内社です。
当社に関する創建・由緒は詳らかでありません。江戸時代には「梶原宮」と呼ばれていた当社が式内社「栗原神社」とされた理由もはっきりしないようです。
『新撰姓氏録』の右京未定雑姓に天児屋根命の十一世孫、雷大臣の後裔である「中臣栗原連」が記載されており、式内社「栗原神社」はこの氏族が祖神を祀ったものであるとも考えられます。
現在の当社の御祭神に「中臣雷大臣命」と「天児屋根命」を含むのは、当社をこの「中臣栗原氏」が奉斎したものとしてその祖神を充てたものでしょう。
この氏族について『続日本紀』天応元年(781年)七月十特日条に、右京の人「栗原勝子公」なる人物が次のようなことを述べています。
- 我らの祖は中臣氏の遠祖でアメノミナカヌシの子孫である。
- 伊賀都臣(イカツオミ=雷大臣)が神功皇后の御代に百済への使者となったときその地の女を娶って男児を生んだ。
- 彼らはその後帰国して美濃国不破郡栗原の地を賜ったので「栗原勝」の姓を賜った。
- そこで「中臣栗原連」の姓を賜りたい。
この奏上は認められて子公ら18人は「中臣栗原連」の姓を賜ったと記しています。
しかしこのように賜姓の記事があるにも関わらず上述のように『新撰姓氏録』には未定雑姓として登載されており、この出自は疑いが持たれていたようです。或いは百済系の渡来系集団が中臣氏と関係を持ち同氏に組み込まれたのかもしれません。
この氏族が美濃国不破郡栗原、つまり現在の岐阜県垂井町栗原を本貫としたこと、そして右京に居住していたことは確かめられるものの、当地に居住していたとする根拠はありません。
ただ同じ旧・河内郡内には出雲井地区に中臣氏の氏神を祀る「枚岡神社」が鎮座しており、中臣氏に関係する氏族が当地に居住していたとしても不思議ではないでしょう。
また、当地の周囲には「新開」など新たに開発されたことを示す地名も見られるものの、かつては旧大和川洲の新開池の西南隅岸に位置にあったようで、低湿ながらも古くから陸地となっていたところのようです。
当社の御祭神に「水分神」が含まれており、古くは水神として当地における水流の安定を司る神格もあったのかもしれません。
境内の様子
住宅と倉庫ばかりの地に唐突に鬱蒼とした森が現れ、これが当社の境内です。
境内は玉垣で囲われ、入口には注連柱が配されています。
注連柱からまっすぐ石畳が敷かれ、途中に二基の鳥居が南向きに建っています。
二の鳥居の手前右側(東側)に手水舎があります。
二の鳥居をくぐって正面に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に向拝の付いたもの。
拝殿前の狛犬は花崗岩製の新しいもの。目と口が彩色され迫力があります。
後方に銅板葺の平入入母屋造の覆屋があり、この中に本殿が納められてると思われます。
本社社殿の右側(東側)に「白菊稲荷大明神」が南向きに鎮座。
二基の朱鳥居が建ち、その奥に銅板葺の流見世棚造の社殿が建っています。
本社拝殿手前の左側(西側)に「粟玉大神」の石碑が建っています。
当社のクスノキに白い蛇が現れて、神のお告げによって祀られたと伝えられています。
当サイトでは大阪市内ではクスノキに龍蛇がおられるという信仰が根強い旨を指摘してきており、こちらはその延長にあると言えるかもしれません。
案内板
栗原神社境内 栗玉神社略記
栗玉大神の前に配置されている狛犬は砂岩製で古式が感じられます。本社拝殿前の前代の狛犬だったのでしょうか。
本社社殿の左側(西側)に「栗玉大神 元鎮座地」と刻まれた石碑と積み石のある一画があります。
石碑を素直に解釈すれば栗玉大神はここにあったことになりますが、それならば何故移動したのでしょう。
白蛇が出てきそうなクスノキも見当たらず、或いは枯れてしまったのかもしれません。
当社は素朴な神社ながら、宅地と倉庫で埋め尽くされた当地においてこれからも憩い場として重要な役割を担い続けていくことでしょう。
由緒
案内板
式内 栗原神社略記
『河内名所図会』
地図