社号 | 意賀美神社 |
読み | おかみ |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 大阪府枚方市枚方上之町 |
旧国郡 | 河内国茨田郡枚方村(旧地は伊加賀村) |
御祭神 | 高龗神、素盞嗚命、大山咋神、大国主神 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月14日 |
式内社
意賀美神社の概要
大阪府枚方市枚方上之町に鎮座する式内社です。
元は現在地の南方、伊加賀宮山(現在の伊加賀北町地区)に鎮座していました。当地は元々須賀神社(牛頭天王社)が鎮座していましたが、明治の神社合祀政策により明治四十二年に意賀美神社が須賀神社を合祀の上、当地に遷座しました。須賀神社にとっては主客が転倒した形になってしまっています。なお、旧地の伊加賀は『倭名類聚抄』河内国茨田郡に「伊香郷」とあり、古い地名です。
社伝によれば、当社は開化天皇の御代に伊香色男命、伊香色女命の邸内に高龗神(たかおかみのかみ)を祀ったのが創建であるとされています。旧地の伊加賀の地名を物部氏の祖である伊香色男命に関するとし、また伊香色謎命が開化天皇の皇后だったことから生じた伝承と思われます。
当社は恐らく淀川における水害の除災と水運の安全を祈願して祀られた水神が国家的に祭祀されたものではないかと推測します。河内国における河川の安全を司る神として、南は大祁於賀美神社、北は当社が祀られたという形になったと言えるかもしれません。
元々は須賀神社が鎮座していた当地には万年寺という真言宗の寺院があり、明治の廃仏毀釈により廃寺になったものの石像九重塔が現在も残っています。この寺院跡に万年寺山古墳という四世紀前半頃の古墳が発見されており、墳形は不明なものの八面の三角縁神獣鏡等の鏡が確認され、淀川の水運を掌握した豪族が淀川を見渡せるこの丘に葬られたと考えられています。
このように見てみると、元は須賀神社の地とはいえ、当地は淀川の水神を祀るに相応しいと言えそうです。
境内の様子
当社は京阪枚方公園駅の東方、淀川に突き出た丘の上に鎮座しています。写真の背後の丘がそう。
境内入口。西向きの鳥居から丘の上へ伸びる石段が続いています。
石段を上っていくと二の鳥居が建っています。社殿のある空間はさらに上です。
石段を上りきると右側(南側)に手水舎があります。手水鉢は花柄や流水の紋が刻まれたオシャレなもの。
正面に西向きの社殿が建っています。拝殿は平入の入母屋造に向拝が付いています。
拝殿前の狛犬。比較的新しいもののようです。
本殿は壁で覆われた流造。
参道の右側(南側)に「稲荷神社」が鎮座しています。
稲荷神社と向かい合うように「琴平神社」が鎮座。
琴平神社の狛犬は鼻の位置が異様に高い非常にユーモラスな顔つきでした。
本社社殿の後方には明治神宮と伊勢神宮の遥拝所がそれぞれあります。
境内を囲う金網の外に古い狛犬が置かれてありました。当地に元々鎮座していた須賀神社にあったものでしょうか。
境内の北側に仏殿のような入母屋造の建物があります。これは何のための建物なのでしょう。
先の建物の前で河津桜が綺麗に咲いていました。
社殿の建つ空間の一つ下の空間は梅林となっており、かつてはここに万年寺という真言宗の寺院がありました。現在も南北朝~室町期のものと考えられる石造九重塔があり、往時の面影を僅かに残しています。
淀川に臨んだ丘である当地は淀川やその向こうの北摂山地までも見渡すことができます。この好立地にある万年寺山古墳の被葬者は淀川の水運を掌握していたとも考えられています。丘のすぐ側に京阪本線が走っているのも確認できます。
当地のすぐ近くにある枚方宿。江戸時代に京と大坂を結んだ京街道の宿場町であり、また三十石船をはじめとする淀川の舟運の中継港としても発展し、水陸ともに交通の要衝として大いに栄えました。現在もその様子を偲ぶことのできる古い家屋が残っています。


御朱印
由緒
案内板「万年山古墳と意賀美神社」
『河内名所図会』
地図