社号 | 渋川神社 |
読み | しぶかわ |
通称 | |
旧呼称 | 天神社 等 |
鎮座地 | 大阪府八尾市植松町 |
旧国郡 | 河内国渋川郡植松村 |
御祭神 | 天忍穂耳尊、饒速日命 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 7月26日、10月16日 |
渋川神社の概要
大阪府八尾市植松町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。当地周辺は「物部氏」の本拠地であり、当社も物部氏が祖神を祀ったものであるとする説があります。
現在の当社の御祭神は「天忍穂耳尊」「饒速日命」の二柱で、ニギハヤヒは一般に物部氏の祖とされる神、そしてアメノオシホミミは物部系の史書『先代旧事本紀』においてニギハヤヒの父とされる神と記され、まさしく物部氏ゆかりの神を祀っています。
また『日本書紀』用明天皇二年(587年)七月条に、蘇我馬子が物部守屋を謀り滅ぼそうとしたとき、軍兵を率いて志紀郡より「渋河家」に至ったと書かれています。
この守屋がいたと思われる「渋河家」は一説に当社付近とも考えられ、やはり物部氏にゆかりのある地であると言えます。
ただし、当社と物部氏が直接関係する伝承等は特に無いようです。
社名に「渋川」とあるものの、『延喜式』神名帳には渋川郡でなく若江郡に記載されています。一方で江戸時代には当地は渋川郡でした。
旧大和川の右岸が若江郡、左岸が渋川郡となるのですが、社伝によればかつては大和川の右岸であり若江郡に属していた「川向」なる字に鎮座していたものの、天文二年(1533年)の水害で社殿が流失し、元亀年間(1570~1573年)に渋川郡となる大和川左岸の現在地に遷座したと伝えられています。
遷座前の地は称徳天皇が行幸したという古代寺院「龍華寺」が側にあったとされ、中世には龍華寺の僧が祭祀を行ったとも言われています。しかし天文年間の水害で龍華寺は廃寺となったようです。
前述の通り当地での祭祀の歴史は500年弱と思われるものの、境内には樹齢千年とも言われる巨大なクスノキなどいくつかの巨樹があり、より古くからの神域だったのではと思わせられる神社となっています。
境内の様子
境内入口。若干の石段の上に鳥居が南向きに建っています。
JR八尾駅のすぐ近く、歴史の感じられる一帯に鎮座しています。
鳥居をくぐった様子。境内は広々としており、鳥居から社殿まで一直線に石畳が敷かれています。
参道途中の右側(東側)に手水舎があります。
正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造。拝殿前の注連柱が威厳を醸し出しています。
拝殿前の狛犬。花崗岩製で、ややスラッとした印象があります。
拝殿後方、透塀に囲まれて建つ本殿は銅板葺の一間社流造に千鳥破風の付いたもの。朱塗りも施されています。
境内の奥は木々の生い茂る鬱蒼とした空間になっています。
本社社殿の左奥(北西)に「稲荷大神」が南向きに鎮座。
多くの朱鳥居が並び、奥に桟瓦葺・流造の社殿が建っています。
社殿の右奥(北東)に大きなクスノキがあり、その根元に「竜王社」が南向きに鎮座。
石造鳥居と三基の木像鳥居が並び、クスノキの根元となる奥に桟瓦葺・妻入切妻造の社殿が建っています。
境内の東側にも大きなクスノキがあり、根元の傍らに「楠社」が南向きに鎮座。社殿は銅板葺の流見世棚造。
こちらのクスノキは大阪府指定天然記念物となっています。樹齢千年とも言われ、当社が当地に遷座する以前からあったことになります。
大阪市内ではクスノキに龍蛇の類がおられるとして祀る信仰があり、このように隣接する八尾でも同様の信仰が根強くあるようです。
道を戻り、参道途中の左側(西側)にも五社の境内社が並んで鎮座しています。
向かって左から「嚴島社」「琴平社」「浮島社」「春日社」「皇大神宮」です。
社殿はいずれも同規格で、鉄板葺の流見世棚造。
当社周辺は古い町並みがよく残っています。
特に下の二枚の写真は「旧植田家住宅」で、大和川の付け替えで開発された安中新田の会所の屋敷でもありました。八尾市指定文化財で、中を見学することも可能です。
由緒
案内板
澁川神社
石碑
渋川神社
『河内名所図会』
地図