社号 | 大津神社 |
読み | おおつ |
通称 | |
旧呼称 | 大宮、牛頭天王 等 |
鎮座地 | 大阪府羽曳野市高鷲 |
旧国郡 | 河内国丹南郡丹下村 |
御祭神 | 素盞嗚尊、奇稲田姫命、天日鷲命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月7日 |
大津神社の概要
大阪府羽曳野市高鷲に鎮座する式内社です。当地の旧地名「丹下」は今では消滅したものの古い地名で、『倭名類聚抄』河内国丹比郡にある「丹下郷」の遺称と考えられます。
当社の創建は詳らかでありませんが、この地は百済の王「貴須王」の子孫である「葛井氏(白猪氏)」「船氏」「津氏」の三氏族が居住していたと考えられ、この中の「津氏」が当地を「大宮山」と称して祖神を祀ったと伝えられています。
関連する氏族として『新撰姓氏録』には次の氏族が登載されています。
- 右京諸蕃 百済「葛井宿禰」(菅野朝臣同祖 / 塩君の子、味散君の後)
- 右京諸蕃 百済「津宿禰」(菅野朝臣同祖 / 塩君の子、麻侶君の後)
- 右京諸蕃 百済「船連」(菅野朝臣同祖 / 大阿郎王の三世孫、智仁君の後)
- 摂津国諸蕃 百済「船連」(菅野朝臣同祖 / 大阿良王の後)
河内国には見えませんが、本居を河内国から右京へ移したようで、『三代実録』貞観五年(863年)の複数の記事にその様子が記されています。
また、『日本後紀』延暦十八年(799年)三月十三日条に「葛井氏」「船氏」「津氏」の三氏の墓地が河内国丹比郡の「野中寺」(現在の野々上地区にある寺院)の南にあって「寺山」と名付けられている旨が記載されており、丹比郡がこれら氏族の根拠地だったことが示されています。
なお、葛井氏の前身である白猪氏は当社の東方に「葛井寺」を創建しています。(「辛国神社」の記事も参照)
当地付近にはかつて「古市大溝」と呼ばれる巨大な水路が通っており、古代においてこの水路を通して物資を運搬していたとも考えられています。
或いは津氏らがその運搬に関わり、当地はその中継地点としての「大津」だったのかもしれません。
これら氏族が都へ移った後、中世以降は当地の九ヶ村の氏神となり、いつの頃か「大宮」と称して「牛頭天王」を祀る神社として崇敬を集めたようです。
明治の神仏分離により牛頭天王は神道における同格の神である「素盞嗚尊」に替えて祀られることとなり現在に至ります。
なお、現在の祭神の一柱に忌部氏の祖神である「天日鷲命」が祀られていますが、特に当地に忌部氏に関する伝承はなく、雄略天皇陵である「丹比高鷲原陵」から連想して祀られたものと考えられています。
境内の様子
境内入口。鳥居が東向きに建ち、左右に塀を構えた重厚な出で立ちです。
鳥居をくぐった様子。鳥居から社殿まで真っすぐに石畳の参道が伸びています。
参道途中の左側(南側)に手水舎があります。
参道の正面奥に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造に千鳥破風が付いたもの。
拝殿後方に建つ本殿は周りが樹木に覆われていて殆ど見えません。
本殿は美作地方(岡山県北部)で見られる中山造だという情報もありますが不明。航空写真からも残念ながら判別できません。
拝殿前に配置されている狛犬。なかなか古さを感じさせるものです。
本社社殿の左奥(南西側)に「大宮戎社」が東向きに鎮座。
RC造で銅板葺の平入入母屋造に唐破風の向拝の付いた社殿となっています。
本社社殿の右側(北側)には「大宮稲荷社」が東向きに鎮座。
奥まった森の中にありますが、多くの朱鳥居が並び、社殿も朱塗りが施されていることからよく目立ちます。
社殿は拝殿と本殿で構成された本格的なもので、拝殿銅板葺の平入入母屋造、本殿は銅板葺の流造(覆屋?)です。
参道の右側(北側)に八角堂のような変わった建物があります。
こちらは「弁天宮」で、古くは宮池の小さな浮島に祀られていたと伝えられています。
南向きに建ち、銅板葺で正面には軒唐破風が付いています。手前に朱鳥居が建つとはいえ屋根上には鳳凰像も飾られ、紛れもなく仏教建築です。
弁天宮の右側(東側)に隣接して「平和之社」が南向きに鎮座。「平和之神」を祭神とし、戦没者を慰霊しています。
鳥居が建ち、奥に銅板葺の平入入母屋造の拝殿が建っています。奥に本殿もあるようですが確認できず。
当社の花々。参拝した時期は桜の時期が終わりかけで、もう少し早ければ満開の桜を楽しめたことでしょう。
由緒
案内板
歴史街道 大津神社
『河内名所図会』
地図