社号 | 石田神社 |
読み | いわた |
通称 | |
旧呼称 | 岩田八幡宮 |
鎮座地 | 大阪府東大阪市岩田町 |
旧国郡 | 河内国若江郡岩田村 |
御祭神 | 仲哀天皇、応神天皇、神功皇后 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 7月15日、10月15日 |
石田神社の概要
大阪府東大阪市岩田町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当社は中世以降は「八幡宮」となっており、現在の御祭神もそれに準じています。しかし八幡信仰が広まったのは『延喜式』編纂の時期よりも後のことであり、『延喜式』神名帳に記載されている当社の「三座」は別の神だったはずです。
一方、『日本書紀』垂仁天皇三十四年三月条に、天皇が山背苅幡戸辺を妃として生んだ三人の子の次男「五十日足彦命」は「石田君」の始祖である旨が記載されており、一説にこの「石田君」が祖である「五十日足彦命」を祀ったのが当社であるとする説があります。
ただし『新撰姓氏録』にこの氏族は見えません。当社が「三座」とされていることにも留意すべきで、ただ一氏族が祖神を祀っていたものでないと見た方が良いかもしれません。
また伝承によれば、かつて当社の北方にあった田の中に「幸神塚」「無名塚」と呼ばれる円錐形の二つの塚があり、その塚の地中には「岩船」という大きな岩あって、そこに三神が顕れたと伝えられています。
この「幸神塚」は賽ノ神を祀った跡である、或いは岩船は昔航海したものが難破して沈んだものであるとも伝えられてるようです。
残念ながら今は田も塚も消失してしまっていますが、当社の信仰を考える上で重要な伝承です。
当地周辺を支配した物部氏の祖であるニギハヤヒは天磐船に乗って降臨したとされており、彼らの神話が組み込まれたのかもしれません。
そうでなくとも、「イハタ(石田 / 岩田)」の地名の由来として十分考えられる伝承で、そこが古くからの祭祀場だった可能性もあります。
現代に残っているものは決して多くないですが、古くは重要な神事が行われたのではと思わせられる神社です。
境内の様子
境内入口。鳥居は東向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。境内は巨樹で鬱蒼としていながらも広々としており、周囲が住宅地であることを忘れさせる空間となっています。
鳥居をくぐって左側(南側)に手水舎があります。
参道の正面奥に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造で千鳥破風と向拝が付いたもの。向かって左側の妻側に小さな部屋も設けられています。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製です。
拝殿後方、ブロック塀に囲まれて建つ本殿は銅板葺の一間社流造。こちらは朱に塗られており華やかな印象です。
参道の右側(北側)に境内社が南向きに鎮座。御祭神は「宇迦之御魂神」「天照皇大神」「天兒屋根命」。
手前に鳥居が建ち、玉垣に囲われた区画に大型の銅板葺・流見世棚造の社殿が建っています。
境内は緑豊かで古社の趣も感じます。
一方で境内の外は宅地化されており、かつて北方にあったという田圃の中の塚も住宅地となり消失してしまっています。
境内だけは変わらない空間であってほしいところです。
当社の東側の街道沿いにひときわ古い民家、石田家住宅が残っています。
茅葺の大和棟の家屋で、棟の上に猿の像が建っているのが特徴。村同士の争いの終結を記念して、悪魔が「去る」ようにとの意味を込めて設置されたものと言われています。
案内板
猿棟
由緒
案内板
御由緒略記
『河内名所図会』
地図