社号 | 天神社 |
読み | てん |
通称 | |
旧呼称 | 御厨神社 等 |
鎮座地 | 大阪府東大阪市御厨 |
旧国郡 | 河内国若江郡御厨村 |
御祭神 | 大国主命、少名彦命 |
社格 | 式内論社 |
例祭 | 10月18日 |
式内社
天神社の概要
大阪府東大阪市御厨に鎮座する神社です。長田地区の「長田神社」と共に式内社「意支部神社」の論社となっています。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当社の地名の「御厨」とは神前に供える神饌を調達する場所のことを指します。中世に河内平野を流れていた大和川の流域に「大江御厨」があり、当地付近を含んだと考えられています。
『延喜式』内膳司に記載されている「河内国江厨」も当地だと言われ、魚類を調進したことが記録されています。
『新撰姓氏録』河内国皇別に彦八井耳命の七世孫、来目津彦命の後裔であるという「江首」が登載されており、一説にこの氏族がここを拠点にしたとも言われています。
当地に御厨が設定されたのは延喜五年(905年)とされていますが、それ以前からも魚類を獲るのに適した拠点だったと思われ、江氏もまた漁業を営んでいたか船舶の管理を行った等の職掌に携わっていたかもしれません。
一方、当社が式内社「意支部神社」とされたのは、当地の小字を「奥方」と呼び、これが「オキベ」に通じるからとする説に因るようです。比定の根拠としてはかなり弱いものと言わざるを得ません。
しかしながら見てきたように当地は古くから御厨が設定されてきた地であり、早くから漁業基地として栄えたことと思われます。
古い街道である暗越大和街道に面した地でもあり、町中にありながらも歴史の感じられる神社となっています。
境内の様子
境内入口。摂津~河内~大和を結ぶ古くからの街道である暗越奈良街道に面しており、鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐって左側(西側)に手水舎があります。
鳥居からやや折れ曲がった石畳の参道を経て、奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に唐破風の向拝が付いたもの。拝殿前に注連柱や提灯台が設けられてるのが特徴的。
拝殿前に狛犬が二対配されています。手前側は比較的新しい花崗岩製、奥側はやや古そうな砂岩製のもの。
拝殿後方、透き塀に囲まれて建つ本殿は銅板葺の流造に千鳥破風と唐破風が付いたもの。
本殿には壁が設けられすっぽり覆われています。
本社社殿の左奥(北西側)に「旧本殿」と書かれた札のある本瓦葺の一間社春日造の建物があります。
文字通りこちらがかつての本殿だったのでしょうか。それにしては小さすぎるようにも感じられます。
本社社殿の右側(東側)に境内社が四社まとまって鎮座しています。
いずれも南向きで、同じ規格の桟瓦葺の妻入切妻造。
この内、最も左側(西側)に「愛宕社」が鎮座。「迦具土神」を祀っています。
愛宕社の右隣(東側)に「須賀社」が鎮座。「素盞嗚命」を祀っています。
須賀社の右隣(東側)に「水神社」が鎮座。「高龗」を祀っています。
水神社の右隣(東側)、最も右側に「稲荷社」が鎮座。「宇賀御霊神」を祀っています。
境内の右側(東側)には非常に大きなクスノキが聳えています。樹齢は伝承で900年、実際はそれより若いと見られますが見事なクスノキで、東大阪市指定天然記念物となっています。
根元には石祠が祀られてあります。大阪市内ではクスノキに龍蛇がおられるという信仰がよく見られ、こちらでも同様なのかもしれません。
案内板
天神社のくすの木
クスノキのすぐそばに「智葉神社」が南向きに鎮座。灯籠に「稲荷社」と刻まれていますが、こちらも稲荷系の神社でしょうか。
鳥居が建ち、奥に拝殿および本殿を備えた本格的な神社となっています。
拝殿は銅板葺の平入切妻造に千鳥破風と向拝を付けたもの、本殿は銅板葺の妻入切妻造で住吉造のように反りの無い屋根です。
天神社の前を東西に延びる道路は暗越奈良街道で、古くからある街道です。
この道沿いには古い町並みも残り、特に一枚目の写真の家屋は大名の本陣にもなった「植田家住宅」で、東大阪市指定文化財となっています。
案内板
市指定文化財 植田家住宅 一棟
また、街道沿いの西側にこれまた古いお屋敷があり、「御厨巴屋」さんという団子屋となっています。蜜のかかったきなこの団子が串に五つささっており、やわらかく大変美味な団子です。
かつて奈良街道をゆく人々がここで一服したことでしょう。
由緒
案内板
天神社
地図
関係する寺社等
長田神社 (大阪府東大阪市長田)
社号 長田神社 読み ながた 通称 旧呼称 八幡宮 等 鎮座地 大阪府東大阪市長田 旧国郡 河内国若江郡長田村 御祭神 品陀別命、息長足姫命、多紀理毘売命 社格 式内論社 例祭 10月21日 式内社 ...
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