社号 | 八尾神社 |
読み | やお |
通称 | |
旧呼称 | 天王社 等 |
鎮座地 | 大阪府八尾市本町 |
旧国郡 | 河内国若江郡西郷村 |
御祭神 | 可美麻治命、品陀和気命 |
社格 | 式内論社、旧村社 |
例祭 | 10月15日 |
式内社
八尾神社の概要
大阪府八尾市本町に鎮座する神社です。式内社「栗栖神社」は当社に比定されています。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、『新撰姓氏録』河内国神別に神饒速日命の子、于摩志摩治命の後裔であるという「栗栖連」が登載されており、この物部系の氏族が祖神を祀ったのが当社であると考えられます。
『新撰姓氏録』には他にも右京諸蕃の「栗栖首」、和泉国諸蕃の「栗栖直」といった渡来系の氏族が登載されていますが、当地が物部氏の拠点であることを鑑みて河内国神別の「栗栖連」の奉斎した神社と見てほぼ間違いないでしょう。
ただし、当社は近世以前は「牛頭天王」を祀っていた神社であり、式内社の「栗栖神社」が当社に比定された論拠は明らかでないようです。
中世には近隣に八尾城があり、当地も城の一画とされたようで、南北朝時代や室町時代には兵火に罹り神宝や伝承も失われていると思われます。
しかしその後も八尾における中心的な神社として厚く崇敬されてきたようです。
明治に至り社名を変更する際、一時的に「栗栖神社」と名乗ったもののすぐに「八尾神社」に変更したといい、これは八尾の鎮守たる地位の表れかもしれません。ただ、現在は商店街の裏側に鎮座しているためやや忘れかけられた神社ともなっています。
とはいえ当社は八尾という地の盛衰を見てきた神社だと言えます。物部氏の興亡、南北朝の争い、戦国時代の戦乱、大和川の付け替え、それに伴う綿花の栽培による繁栄など、八尾には紆余曲折の歴史がありました。
こうした変化の中に当社が存在し人々に様々な願いを託されたことでしょう。
境内の様子
境内入口。商店街の裏側にあり、人の往来の多い商店街とは全く別世界というような、雑居ビルや民家に囲まれた閑静な地となっています。
入口には鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。しばらく参道が伸び、その先に社殿の建つ広い空間となっています。
参道はコンクリートで舗装され社殿前まで続いています。社殿は参道の左側(西側)に寄っているためコンクリートの舗装も左方へ折れ曲がっています。
広い空間へ出ると左側(西側)に手水舎があります。
参道を進んでいくと正面に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺きの平入入母屋造に向拝が付いたもの。
拝殿前の狛犬。花崗岩製でやや古めかしさの感じられるものです。
拝殿後方、瑞垣に囲まれて建つ本殿は銅板葺の一間社春日造です。
境内の南西隅に聳える木の根元に境内社が東向きに鎮座し、「玉姫大神」「玉光大神」が祀られています。
社殿は妻入切妻造。
また、境内の東側に「菅原道眞公」「須佐之男命」「武甕槌命」を祀る境内社が南向きに、その左隣(西側)に「白龍大神」を祀る小さな祠が南東向きに鎮座しています。
前者は本瓦葺の妻入入母屋造の社殿(覆屋?)、後者は銅板葺の流見世棚造の社殿です。
白龍大神の隣に「八尾城趾」の石碑があります。
南北朝時代には当初南朝方に与したものの、北朝方に城を奪われ、攻め返した南朝方により焼失したと言われています。当社も恐らく被害に遭ったのでしょう。
由緒
石碑
八尾神社
『河内名所図会』
地図