社号 | 鳴神社 |
読み | なる |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 和歌山県和歌山市鳴神 |
旧国郡 | 紀伊国名草郡鳴神村 |
御祭神 | 速秋津彦命、速秋津姫命、天太玉命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月12日 |
鳴神社の概要
和歌山県和歌山市鳴神に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、古くは非常に有力な神社だったようです。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、当社の神格については概ね次の四説があります。
- 当社を水門の神とし「速秋津彦命」「速秋津姫命」を祀るとする説
- 当社を忌部氏の神とし「天太玉命」を祀るとする説
- 当社を雷神とする説
- 当社を大伴氏の神とし「天雷命」を祀るとする説
1.について、江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』によれば、当社の社名「鳴(ナル)」とは鳴水・鳴滝という谷から流れる水の意であり、川の流れに関連するものとしています。
同記は当社の社前に鎮座する「鳴武神社」の傍らにある流れを「鳴武流」と呼んだこと、また紀ノ川が古くこの地付近を流れていたらしいことを指摘しています。
一方、紀ノ川の右岸側(北側)に「鳴滝(ナルタキ)川」と称する川があり、その上流を鳴滝と称することからこれと関連する可能性も考えられます。
ただ、当地は紀ノ川の左岸側(南側)であり、地形的に当地が鳴滝川と結びつくとは考え難い点に注意が必要です。
また当社の北方200mほどの地には縄文時代の遺跡である「鳴神貝塚」があり、この遺跡と当社との間に直接の関連性は無いにしても、当地が古く海(或いは汽水域)が近くに迫っていた地だったことが窺えます。
このような地勢からか当社を水門(=湊)の神を祀ったものとして御祭神に「速秋津彦命」「速秋津姫命」が充てられるようになりました。
しかしこれはそう古いことではなく後述のように享保四年(1719年)以降のことで、それ以前は祭神不詳とされていました。
2.について、『紀伊続風土記』は当社を「忌部氏」に関わるものとして本来の御祭神は「天太玉命」であろうとしています。
忌部系の史書『古語拾遺』には名草郡の「御木郷」(上三毛地区・下三毛地区付近か)「麁香郷」(黒井地区を中心とするJR和歌山駅東側一帯に比定)に忌部氏の末裔がいるとし、また『倭名類聚抄』には紀伊国名草郡に「忌部郷」(井辺地区に比定 / 鳴神地区の南に隣接)が記されており、当社付近に忌部氏が居住していたことがわかります。
さらに『倭名類聚抄』紀伊名草郡の忌部郷の次に記される「誰戸郷」は「神戸郷」の誤記であり、これは忌部神戸と推定され、当社の神戸(神社経営のための封戸)であったと見られています。
このような当地の状況から推して忌部氏が当社を奉斎していた蓋然性は高く、その祖を祀ったのが当社だったとする説はまた説得力のあるものとなっています。
なお、これら紀伊国名草郡を本貫とする忌部氏は紀伊忌部と称し、『日本書紀』神代記の第九段の一書①によれば紀伊忌部の祖は笠を作る「手置帆負(タオキホオイ)神」と盾を作る「彦狭知(ヒコサシリ)神」であるとしています。
しかし『延喜式』神名帳には当社は二座とは記されていないことから、もし当社が忌部氏の神を祀っていたとすれば、紀伊忌部の祖の二柱でなく、『紀伊続風土記』の説くように忌部氏全体の祖たる「天太玉命」だったことでしょう。
3.について、江戸時代中期に度会延経が著した『神名帳考証』は当社の神を『延喜式』神名帳に記載される宮中神の主水司坐神の「鳴雷神社」と同神であろうとしています。
紀ノ川の上流側にあたる奈良県五條市には「火雷神社」(五條市御山町に鎮座)や「宮前霹靂神社」(五條市西久留野町に鎮座)など雷に関する式内社が複数所在しており、この点では確かに注目すべきかもしれません。
しかし名神大社に列せられるほどの神であるか等の点に疑問があり、この説は上の二説に比べて弱いものとなっています。
4.について、これは『古屋家家譜』によるもので新しい説です。
『古屋家家譜』とは山梨県笛吹市一宮町一宮に鎮座する「浅間神社」の社家を務める古屋家(大伴氏の後裔であるという)の系図であり、1979年に初めて公開されたものです。
『古屋家家譜』は改変の痕跡もあるものの古い系譜を伝えるものとして研究者の間では高く評価されており、記紀などの記録に載っていない情報も多く記載されています。
『古屋家家譜』は高皇産霊尊から始まる大伴氏の系図を記しており、尊属側のいくつかの神もしくは人物には祀られている神社等が尻付として記されています。
この中で高皇産霊尊の三代孫に「天雷命」が記されており、尻付には「紀伊国名草郡鳴神社是也」とあります。つまり、当社の御祭神は大伴氏の祖の一柱「天雷命」であるとはっきり記されているのです。
もしこれが正しければ当社は大伴氏が奉斎し祖を祀った神社だったことになります。
『古屋家家譜』には当社の他にも「刺田比古神社」(片岡町に鎮座)、「朝椋神社」(鷺ノ森明神丁に鎮座)、そして後述の「香都知神社」と名草郡内の四社の式内社で大伴氏の祖を祀るとしており、もしそうであるならば名草郡に居住していたであろう大伴氏がいかに影響力を持っていたかを物語るものとなりましょう。
さて当社は天正十三年(1585年)の豊臣秀吉の紀州攻めにより大きく被害を受けて衰微し、それ以来神仏混淆で祭祀されていたようです。
その後、享保四年(1719年)に日前・國懸神宮(秋月地区に鎮座)や伊太祁曽神社(伊太祈曽地区に鎮座)と並ぶ神社にすべく、仏教要素を排除すると共に社殿の大改修を行うなど大規模な整備が行われました。
御祭神を「速秋津彦命」「速秋津姫命」の二柱としたのもこの頃で、これ以来この二柱を祀る体制が長く続きました。
時を経て平成八年(1996年)、奈良県橿原市忌部町に鎮座する「天太玉命神社」から「天太玉命」を改めて勧請し、現在はこの三柱を主祭神としています。
つまり現在の御祭神は1.説と2.説の両方を取り入れたものとなっています。
少なくとも当地付近に紀伊忌部が居住していたのは確実であり、当地に忌部氏の神が祀られるのは然るべきと言えることでしょう。
一方で近年公開された『古屋家家譜』により当社が大伴氏に関わるものだった可能性が高まっており、当社の神格について見直すべき時期が来ているのかもしれません。
香都知(カツチ)神社
鳴神社境内に鎮座する式内社です。御祭神は「軻遇突知命」。
旧地は鳴神社の東方200mほどの地で、現在は「逆松社」と称する小祠が鎮座しています。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、『延喜式』の写本によって「鳴神末社」との註があるものがあり、古くから鳴神社と関係の深かったことが窺えます。
上記の『古屋家家譜』によれば、高皇産霊尊の孫に「香都知命」が記されており、尻付に「紀伊国名草郡香都知神社也」とあります。
もしこれが正しければ当社もまた大伴氏が奉斎し祖を祀ったことになりましょう。
なお「香都知命」は上記の鳴神社の祭神であるという「天雷命」の父にあたり、父子が当地で一体的に祀られていたことも考えられそうです。
当社は江戸時代にはかなり荒廃していたようで、江戸時代後期には社殿が無く石碑が建つのみだったようです。
明治四十年(1907年)に神社合祀政策により鳴神社に遷座されました。
なお、後述の「堅真音神社」と相殿として祀られています。
式内社
堅真音(カタマオト)神社
鳴神社境内に鎮座する式内社です。御祭神は「神吾田鹿葦津姫命」。
旧地は鳴神社の北方300mほどの地のようですが、現在は何も残っていないようです。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
紀伊国の国内神名帳である『紀伊国神名帳』には紀伊国名草郡の天神に「正一位 有眞音大神」の名で記載されています。
「有眞(アリマ)」とは地名であり、『倭名類聚抄』紀伊国名草郡に「有真郷」が記載されており、これもまた当地付近と推定されています。
『延喜式』神名帳と異なる社名である理由は不明。江戸時代後期の地誌『紀伊国名所図会』は「有」を「肩」と誤ったのを「堅」としたのではと推測しています。
また社名の「音」について、当社の旧地付近を「音浦」と称することからこれと関係あるものと考えられます。或いは「音が鳴る」として鳴神社の社名にも関連するものだった可能性も考えられるかもしれません。
こちらも江戸時代にはかなり荒廃していたようで、江戸時代後期には社殿が無く石碑が建つのみだったようです。
明治四十年(1907年)に神社合祀政策により鳴神社に遷座されました。
なお、前述の「香都知神社」と相殿として祀られています。
また、近年神前地区に「堅真音神社」が独立した神社として復興しています。
式内社
境内の様子
当社は鳴神地区の集落内に鎮座しています。
境内入口には木製の鳥居が南向きに建っており、その奥は社殿前までまっすぐ舗装された参道が伸びています。
鳥居をくぐって左側(西側)に手水舎が建っています。
参道の正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造の割拝殿。
拝殿前に配置されている狛犬。スラっと伸びた体躯が印象的です。
割拝殿の通路をくぐると正面奥に二ヶ所の拝所が左右に並んでいます。
拝所はいずれも銅板葺の妻入切妻造で、塀を囲んでそれぞれの後方に一棟ずつ、計二棟の本殿が並んでいます。
この内、左側(西側)の本殿には「天太玉命」が祀られています。
本殿の形式は銅板葺の一間社流造で、千木は内削ぎ、鰹木は四本となっています。
右側(東側)の本殿には「速秋津彦命」「速秋津姫命」の二柱が祀られています。
こちらの本殿の形式は同じく銅板葺の流造ですが、千木は外削ぎ、鰹木は五本となっています。
千木の形状および鰹木の本数から、平成八年(1996年)に天太玉命を勧請するまでは左側に速秋津姫命を、右側に速秋津彦命を祀っていたのかもしれません。
本社本殿の右側(東側)の空間に境内社がまとまって鎮座しています。
これらの境内社群の内、最も左側(西側)に「天照大神宮」が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の簡略化された春日見世棚造。
天照大神宮の右側(東側)に隣接して「春日大神」が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の簡略化された春日見世棚造。
春日大神の右側(東側)に「夢明神社」が南向きに鎮座。
社殿は赤い銅板葺の流見世棚造。左右の境内社よりも規模の大きな社殿となっています。
夢明神社の右側(東側)に「稻荷社」が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の簡略化された春日見世棚造。
稻荷社の右側(東側)に「香都知神社」と「堅真音神社」の相殿が南向きに鎮座。
いずれも式内社で、御祭神はそれぞれ「軻遇突知命」「神吾田鹿葦津姫命」。詳細は上記概要を参照。
縦長の鳥居、妻入切妻造の簡素な拝殿、銅板葺の二間社流造の本殿で構成されています。
当社境内から道を挟んで南西側の区画に「鳴武(ナルタケ)神社」が南向きに鎮座。「壺の御前」とも呼ばれています。
石垣上で玉垣に囲まれて銅板葺の流造状の覆屋が建っており、この中に紀州徳川家によって建てられた石祠が納められているようです。
百済から渡来して酒造の技術を伝えたという耆閣大王の第四王女を祀るとする伝承もありますが、現在の御祭神は「武甕槌命」となっています。
案内板
鳴武神社 別名 壺の御前
由緒
石碑
由緒
地図
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