社号 | 高積神社 |
読み | たかつみ |
通称 | |
旧呼称 | 上の宮:高社、高宮、高三所明神、高御前 等 / 下の宮:気鎮社 等 |
鎮座地 | 和歌山県和歌山市祢宜 |
旧国郡 | 紀伊国名草郡禰宜村 |
御祭神 | 都麻都比売命、五十猛命、大屋津比売命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 上の宮:4月15日 / 下の宮:10月10日 |
高積神社の概要
和歌山県和歌山市祢宜に鎮座する神社で、式内社「高積比古神社」および「高積比賣神社」は当社とされています。また式内社「都麻都比賣神社」を当社とする説もあります。
当地の地名「祢宜(ネギ)」とは神官の意で、当社の祭祀を務めた神官をこの地の者が務めたことに因むものと考えられます。
当社は高積山の西麓に「下の宮」が、山頂に「上の宮」が所在しており、現在はこの二社で一つの信仰を成しています。
この内、山頂に鎮座する「上の宮」は江戸時代以前は「高社」「高宮」「高三所明神」「高御前」などと称し、古くから当地周辺の村々の鎮守として祀られてきたようです。かつては疱瘡の平癒に験があるとして多くの人々の信仰を集めてきました。
対する「下の宮」は江戸時代以前は「気鎮(キヅメ)社」と称し、紀伊国内の神名帳である『紀伊国神名帳』の名草郡地祇に載る「従四位上 氣津別神」はこれであるとされています。
同帳は「氣津別神」とは別に「従四位上 高積比賣神」「従四位上 高積比古神」が記載されていることから、「上の宮」と「下の宮」は本来は別々の神社で、前者のみが式内社だったようにも思われます。
しかし江戸時代には混同されることもあったようで、後述のように両社互いにそれぞれの神を祀るとも同体であるともする説があり、既に両社は「奥宮」「里宮」のような様相もあったようです。
高社(現・上の宮)
山上に鎮座する旧「高社」(現・上の宮)の由緒について、江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』は、元は「伊太祁曽神」「大屋津比売神」と共に「日前神宮・國懸神宮」(秋月地区に鎮座)の地に鎮座していたものの、後に伊太祈曽の地に遷り、大宝二年(702年)に三神を分けて「都麻都比売神」はこの山に遷座したと記しています。
これは吉礼地区の「都麻津姫神社」及び平尾地区の「都麻津姫神社」と全く同じ由緒(最後の遷座先のみが異なる)であり、『紀伊続風土記』は式内社「都麻都比賣神社」は吉礼でも平尾でもなく当社こそがそうであるとしています。(そして式内社「高積比古神社」「高積比賣神社」を当社とする説を否定する)
なお、『続日本紀』大宝二年(702年)二月二十二日条には「伊太祈曽、大屋都比売、都麻都比売の三神社を分け遷す」とあり、上の由緒はこれを受けたものとなっています。
この由緒に関連し、永享四年(1432年)から五年(1433年)にかけて、「日前神宮・國懸神宮」の神領と、当地を含む荘園である「和佐荘」との間に水利権をめぐる相論があり、これに関連する記録が現在も豊富に残っています。
この相論の中で和佐荘側は、「日前神宮・國懸神宮」に対抗する権威として和佐荘内に鎮座する「高大明神」即ち当社を持ち出し、「日前神宮・國懸神宮」の地は元々は「高大明神」の地であり、それを譲ったものであるとの由緒を示しています。
このことからこの頃には当社が「日前神宮・國懸神宮」の地から遷座したとする伝承が既にあったことは確実です。
それと共に、紀伊国一宮であり紀伊国造が代々社家を務める「日前神宮・國懸神宮」に対し、当社もそれに十分対抗できるだけの権威を持っていることをも示しています。
また、この相論で和佐荘側は、「日前神宮・國懸神宮」の神官が「高大明神」の神事を行うのに対し、和佐荘側から「日前神宮・國懸神宮」に何らかの神事に出ることは無いとして、「高大明神」の方が格上であるとまで主張しています。
これに対して「日前神宮・國懸神宮」側は「高大明神」を単なる末社であると反論しています。
このことからは「日前神宮・國懸神宮」が当社の祭祀に深く関わっていたことが示されています。同様に「日前神宮・國懸神宮」の地から遷座したと伝える「伊太祁曽神社」(伊太祈曽地区に鎮座)では特に祭祀に関わっているとの伝承が無いこととはこの点では対照的です。
なお、この相論に対してどのような裁定がなされたのかは記録に残っていないため残念ながら不明となっています。しかしながらこの相論の記録は当社の中世における多くの情報を含むものとなっています。
上記の式内社「都麻都比賣神社」を当社とする説に対し、江戸時代後期の地誌『紀伊国名所図会』は式内社「高積比古神社」「高積比賣神社」を当社としています。
同図会によれば、当社の御祭神は「高津比古命」「高津比売命」「気鎮社」の三神とし、また「社伝に云う」として「大直日神」を祀るとも、「或説」として「天照大神」の荒魂を祀るともしています。
そして当社の神像は「魔神降服」の姿で、甲冑を装備して矛を持つとも記しており、軍神の姿として表現されているようです。(ただし『紀伊続風土記』はこれを当社でなく「気鎮社」(現・下の宮)であるとする)
同図会はこうした「魔神降服」の姿はまさに禍を直す「大直日神」として相応しいと論じ、“気”(いぶき)によって“鎮”める故に「気鎮(キヅメ)」と称するようになり、また「積」と「鎮」の音韻が通じ、美称「高」を付けて「高積」となり、また「ミ」を省略して「高津比古命」「高津比売命」となったとしています。
また「高津比古命」を山上に、「高津比売命」を山下に祀り、これらを総称して「気鎮社」としていたのを後に誤って三柱の神として祀ったのであろうと推測しています。
気鎮社(現・下の宮)
旧「気鎮社」(現・下の宮)について、『紀伊国名所図会』によれば、社伝では「大直日神」と同体であるとしています。
さらに山上に祀ったのを「高津比古命」、当社に祀ったのを「高津比売命」ともしており、この点については上述の通りです。
これに対して『紀伊続風土記』は祭神不詳としつつ、「気鎮」は本来は「弦鎮」であり、上述の軍神の姿から弓の弦音によって悪魔を降伏させることを示したのではないかとしています。
高積神社
このように「高社」「気鎮社」について主に『紀伊続風土記』『紀伊国名所図会』を参照して見てきたものの、それぞれ全く異なる説を示しつつも、いずれも今一つ煮え切らないのが正直なところでしょう。
現状では式内社「高積比古神社」「高積比賣神社」を当社とするのが一般的ではあるものの、この「高積比古」「高積比賣」なる神が如何なる神であるかは全く不明と言わざるを得ません。
『紀伊国名所図会』の「高津比古命」「高津比売命」についての説明も要領を得ず無理の感じられるものです。
一方、現在の御祭神は「都麻都比売命」「五十猛命」「大屋津比売命」の三柱となっており、『紀伊続風土記』に従ったものとなっています。
社名こそ「高積神社」を名乗っているものの、案内板には「都麻都比売神」云々のことしか書かれておらず、式内社「高積比古神社」「高積比賣神社」については一言も触れられていません。
恐らく氏子の間ではこの伝承が根強いと見え、加えて過去に「日前神宮・國懸神宮」と対等に争った矜持も組み入れられていることでしょう。
式内社「高積比古神社」「高積比賣神社」としての信仰が如何なるものであったかは気になるものですが、それはそれとして地元の伝承を伝えていくこともまた重要なことであり、こうした氏子の意向もまた尊重されるべきものでしょう。
境内の様子
当社は紀ノ川南岸に聳える高積山の山頂に「上の宮」が、西麓に「下の宮」が鎮座しています。
上の写真は高積山を西方から見たもので、左側と中央の二ヶ所に頂がありますが、この内の左側のやや低い頂が高積山です。(中央の高い頂は城ヶ峰で、和佐山城跡がある)
下の宮
祢宜地区の集落を越えて高積山の西麓に当社の「下の宮」が鎮座。まずはこちらから紹介していきます。
入口は石段となっており、その途中に両部鳥居が西向きに建っています。
入口の石段を上った様子。境内は広くはないもののよく開けた空間となっています。
石段を上ってすぐ右側(北側)に手水舎が建っています。
石段から参道を進むと正面奥に石垣・石段があり、石段の上に銅板葺の平入切妻造の中門(拝所)が西向きに建っています。
中門の左右は玉垣が設けられ、奥の本殿等の建つ区画を仕切っています。
中門の背後に銅板葺の三間社流造の本殿が西向きに建っています。
三間社とはいえ扉は中央のみとなっており、この扉は外されていました。どうやら内部は外陣と内陣に分かれているようです。
本社本殿の左側(南側)の空間に三社の境内社が鎮座しています。
これらの内、一社だけ西側(写真左側)に離れて立地し、北向きに建っている境内社(①)があり、これは「金山彦神」「五十猛神」を祀っています。社殿は銅板葺の一間社流造。
対して東側(写真右側)に二社並び、これらの内、手前の右側(北側)に西向きに建つ境内社(②)は「水波能売神」「宇迦之御魂神」を祀っています。社殿は銅板葺の一間社流造。
その左側(南側)に西向きに建つ境内社(③)は「金比羅社」となっています。社殿は銅板葺の流見世棚造。
中門の手前右側(北側)には桟瓦葺の宝形造の建物がありました。恐らく神庫でしょうか。
上の宮
続いて「上の宮」へ。「下の宮」の鳥居前から北側へ少し進むと山の上へ伸びる道があり、ここから「上の宮」へ行くことができます。
この入口には「高積神社 自御本殿 是迠八町」と刻まれた道標が建っています。
高積山は標高237mでそこまで高い山ではないものの、「上の宮」までの道はそこそこ本格的な登山道となっています。それなりに然るべき装備をしておいた方が安全でしょう。
基本的には道なりに進んで行けば良いですが、一ヶ所だけ非常に紛らわしい箇所があります。
山頂の少し手前、道なりにまっすぐ進むと森の中へ迷い込んでしまうところがあります。
この少し手前に鋭角に曲がる道があり、こちらを進むのが正規の経路になります。しかし正規の道へと進入するところは段状になっており、そこに道があるとは気づきにくいものとなっているので注意が必要です。
この正規の道を進んでいくと梵字を刻んだ板碑の残骸が寄せ集められています。神仏混淆の場だったのでしょう。
板碑から少し進んだところの左側に結晶片岩を積んだ長い石段が見えます。
こちらからでも「上の宮」へ行くことができますが、鳥居をくぐって正面から参拝したい場合はこれをスルーし、引き続き道を進むことになります。
先の石段をスルーし、左に結晶片岩を積み上げた石垣を見つつ回り込むように道を進むと奥に「上の宮」の鳥居が見えてきます。
鳥居は東向きに建ち、その奥にこれまた結晶片岩を積んだ石段が伸びています。
鳥居をくぐって石段を上ると社殿が東向きに並んでいます。
石段上すぐに建つ拝殿は銅板葺の平入切妻造の割拝殿。
そう古い建築ではなさそうですが、桁行八間の大規模な建築で、左右の部屋には床が設けられ、修験道の長床のような趣も感じられます。
拝殿の手前右側(北側)に手水舎が建っています。
割拝殿の通路をくぐると正面奥に結晶片岩の石垣・石段があり、石段上には中門(拝所)が建っています。
石垣上の中門左右には瑞垣が廻らされ、本殿等の建つ空間を仕切っています。
中門奥に建つ本殿は三間社流造で、「下の宮」と同様に中央のみに扉のあるものとなっています。
本社本殿の左右には銅板葺の一間社流造の境内社がそれぞれ東向きに建っています。
いずれも社名・祭神は不明ですが、或いは「五十猛命」「大屋津比売命」がこちらに祀られているのかもしれません。
なお、先程スルーした石段を上っていくと、この本社拝殿と中門の間の空間へと至ることになります。
本社拝殿の右側(北側)にちょっとした空間があり、ここにも境内社が南向きに建っています。社名・祭神は不明。
朱鳥居が建ち、結晶片岩の基壇上に銅板葺の平入切妻造の社殿(覆屋?)が建っています。
こちらの空間にも梵字を刻んだ板碑が配置されていました。


由緒
案内板
高積神社御由緒
地図
下の宮
上の宮
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