社号 | 溝咋神社 |
読み | みぞくい |
通称 | |
旧呼称 | 牛頭天王社 等 |
鎮座地 | 大阪府茨木市五十鈴町 |
旧国郡 | 摂津国島下郡馬場村 |
御祭神 | 溝咋玉櫛媛命、媛蹈鞴五十鈴媛命、溝咋耳命、天日方奇日方命、素盞嗚命、天児屋根命 |
社格 | 式内社、旧府社 |
例祭 | 5月5日 |
溝咋神社の概要
大阪府茨木市五十鈴町に鎮座する式内社です。
社伝によれば崇神天皇の御代に創建されたと伝えられています。
当社に関して『古事記』に次のような記述があります。
『古事記』(大意)
イワレヒコ(神武天皇)が皇后を欲していたとき、大久米命が次のように言った。
「ここに神の御子という乙女がいます。三島湟咋(ミシマミゾクイ)の娘に勢夜多多良比売(セヤタタラヒメ)という美しい女がおり、美和の大物主神が見初めて、彼女が厠で用を足しているときに丹塗矢になって彼女の陰部を突いたのです。彼女は驚いて、その矢を床の辺に置いたらたちまち麗しい男になったそうです。この二人は夫婦となって子を生み、その名を富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)といい、またの名を比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)といいます。このために神の御子というのです。」
このように丹塗矢と化した神が女の元に顕れ子を生む話は各地にあり、類例では『山城国風土記』逸文に描かれているものが有名です。(詳細は「角宮神社」の記事を参照のこと)
『古事記』では上記のように「大神神社」の神である「大物主神」が丹塗矢となっていますが、『日本書紀』では一書に「事代主神」が八尋熊鰐と化して三島溝樴姫(ミシマミゾクイヒメ/別名:玉櫛姫)の元に通い姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメ)を生み神武天皇の后としたとあります。
事代主神は葛城系賀茂氏の祖神です。当社の近隣の高槻市三島江地区に「三島鴨神社」が、高槻市赤大路地区に「鴨神社」が鎮座しており、いずれかが式内社「三嶋鴨神社」だったと見られますが、いずれにせよ社名から賀茂氏が当地近隣に定住したことが伺えます。
一方、ミシマミゾクイ、及びその娘であるセヤタタラヒメ(タマクシヒメ)は古くから当地に居住し開拓した人々だったと思われ、ミゾクイとは溝杭の意で杭を打ち込んで用水路を整備したことを示すと推測されます。そして当社は彼らミシマミゾクイらの子孫が祖神を祀ったものと考えられます。
以上の概況から推して、ミシマミゾクイらが居住していた当地に葛城系賀茂氏が移住して通婚し、記紀に反映されたのが上記の神話だったことが一つの可能性として考えられます。
ただ、ミシマミゾクイは陶津耳命(八咫烏命、賀茂建角身命)と同一とする説もあり、山城系の賀茂氏の一派がミシマミゾクイの系譜として当地に居住した可能性もあります。『山城国風土記』逸文にある丹塗矢と同様の伝承がミシマミゾクイの娘にもあることはこれを示唆するものかもしれません。
また、セヤタタラヒメとその娘であるホトタタライススキヒメ・ヒメタタライスケヨリヒメ・ヒメタタライスズヒメはいずれも「タタラ」が付いています。これは当地で製鉄が行われていたことを示唆するものです。
当社の南西、「佐和良義神社」の近くに弥生時代の集落跡である「東奈良遺跡」があり、そこで大規模に銅鐸の生産が行われていたことが知られています。これらの青銅器の製造技術が時代を経て製鉄等も担うようになっていったのかもしれません。
現在、当社は「溝咋玉櫛媛命」「媛蹈鞴五十鈴媛命」を主祭神とし、「溝咋耳命」「天日方奇日方命」「素盞嗚命」「天児屋根命」を相殿として祀っています。この中で天日方奇日方命は溝咋玉櫛媛命の子、媛蹈鞴五十鈴媛命の兄にあたり、「鴨王」の名でも知られており、葛城系賀茂氏の祖となる人物です。
明治の神社合祀まで当社の北方に「上宮」があり、「下宮」と呼ばれた当社と併せて一体の信仰となっていたようです。かつて上宮には「媛蹈鞴五十鈴媛命」「溝咋耳命」「天日方奇日方命」が、下宮には「溝咋玉櫛媛命」「素盞嗚命」「天児屋根命」が祀られていました。明治四十二年(1909年)に上宮は下宮に合祀され現在に至っています。
2019年現在、当社は2018年の大阪北部地震及び台風21号の被害を受け大規模に損傷しています。見るも無残な状態であり、境内の一部は立入禁止となっています。歴史ある神社だけに一日も早い復旧を願うばかりです。
境内の様子
境内の南方約200mほどのところに一の鳥居が南向きに建っています。安威川のほど近くの地で、周りはすっかり宅地化しています。
一の鳥居をくぐった様子。参道は桜や松などの並ぶ並木道となっています。当地の旧地名を「馬場」と言い、恐らくこの参道が馬場となっていたことに因むものと思われます。
なお、現在の地名「五十鈴町」は当社御祭神の「媛蹈鞴五十鈴媛命」に因んだものと言われています。
さらに進んでいくと道路を挟んで二の鳥居が南向きに建っています。二の鳥居は朱塗りが施されています。
二の鳥居をくぐると瓦葺の平入切妻造の薬医門の神門が建っています。
この神門が変わっているのは、薬医門でありながら左右に部屋が設けられており、随身像が安置されていることです。つまり、随身門としての機能も兼ねています。
随身像はかなり古い貴重なもののように思います。
神門前には何故か古そうな牛の石像が置かれていました。当社がかつて「牛頭天王社」と呼ばれたことに因むものでしょうか。
神門をくぐった様子。広々としており、社殿まで一直線に石畳が伸びています。
神門をくぐって左側(西側)に手水舎があります。
正面に南向きの社殿が並んでいます。現在の社殿は寛保二年(1742年)に造営されたものと伝えられています。
拝殿は瓦葺で、平入入母屋造に千鳥破風と銅板葺の唐破風の付いたもの。
拝殿前の狛犬。花崗岩製の比較的新しいものです。
拝殿に置かれている木製の灯籠。延享二年(1745年)に奉納されたもの。
石造の灯籠なら珍しくありませんが、近世の木製の灯籠はやや珍しいものです。
拝殿後方に建つ本殿。銅板葺の妻入切妻造です。
境内社等
当社は2018年の大阪北部地震及び台風21号の被害が甚大で、境内社等の倒壊の恐れがあるため、2019年現在は境内後方にロープが張られ、本社社殿より後ろへは立入禁止となっています。ただ、参拝時は特別に許可を得て入らせていただけました。対応してくださった方に感謝申し上げます。
本社社殿の左側(西側)の手前側(南側)には「手力雄神社」が東向きに鎮座しています。御祭神は「手力雄神」。
手力雄神社の右側(北側)には「事代主神社」が東向きに鎮座しています。扁額には何故か「方除社」とありました。
写真ではわかりにくいですが、社殿の覆屋は左側に大きく傾いており、つっかえ棒で何とか支えている状態です。
続いて本社社殿の右側(東側)へ。朱の鳥居が建っていますが、その奥はやはりロープが張られて立入禁止となっています。
こちらに二社の境内社が南向きに建っています。
本社社殿のすぐ右側(東側)に「天照皇大神社」が鎮座。御祭神は「天照皇大神」。
覆屋が右側に大きく傾いており、今にも倒れそうな状態です。
天照皇大神社の右側(東側)に「保食神社」が鎮座。御祭神は「保食神」。
こちらの覆屋もやはり右側に大きく傾いています。早急な修理が望まれるところです。
聞くところによると、宮司の逝去と地震・台風の被害が重なったようで当社の運営は困難を極めているようです。
社地を売却して凌いでるようで、境内の隅にはかつて鎮守の杜を構成していた樹木の残骸が積み上げられており、胸にこみあげるものがあります。
境内東側に建つ社務所。木造の古い建物で、こちらも解体する予定のようです。
社務所の北側に聳えるイチョウの木。立派な木ですが、こちらも伐採予定との由。
せっかく地震と台風を乗り越えたのに伐採してしまうのは非常に勿体ないように思います。神社再建のためには仕方のないことなのでしょうか。
社殿前にはタブノキがあります。樹勢が良好とは言えませんが、こちらは幸いにして伐採の予定は無さそうです。
タブノキは太平洋側の雨の多い地に分布しますが、大阪府のような瀬戸内海式気候の地では極めて珍しく、聞くところによればこの個体は海外から持ってきたものだそうです。
道を戻ります。神門前の左側(西側)に池があり、そこに浮かぶ島に「木花開耶姫命神社」と「厳島神社」の相殿となった境内社が東向きに鎮座しています。
上宮跡
当社から北北東約500m、安威川を渡った学園町地区に「上宮跡」の石碑があります。
現在はマンションの建ち並ぶ現代的な光景ですが、かつてはここに「上宮」が鎮座しており、「下宮」(現在の溝咋神社)と一体の信仰となっていました。明治四十二年(1909年)の神社合祀により「下宮」に合祀され、現代に至っています。


由緒
『摂津名所図会』
地図
上宮跡
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