社号 | 佐和良義神社 |
読み | さわらぎ |
通称 | 大宮さん 等 |
旧呼称 | |
鎮座地 | 大阪府茨木市美沢町 |
旧国郡 | 摂津国島下郡沢良宜西村 |
御祭神 | 迦具土神 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月17日 |
佐和良義神社の概要
大阪府茨木市美沢町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。当社の奉斎氏族も明らかでありませんが、『新撰姓氏録』河内国皇別に武内宿祢の子、平群都久宿祢の後裔であるという「早良臣」が記載されており、この氏族に関係するとする説もあります。ただし憶測の域を出るものではありません。
当社の北方に弥生時代の環濠集落跡である「東奈良遺跡」があり、多数の銅鐸と共に鋳型が発見されています。この鋳型で製造した銅鐸が近畿一円、さらには四国にまで出土しており、東奈良遺跡は全国有数の一大銅鐸製造工場でした。
当社の信仰はこの東奈良遺跡と関係があるとする説があり、御祭神の「迦具土神」は一般に火の神ですが、カグとは銅の古語であり、また社名のサワラも銅器を指すとする説もあります。
一方で境内には「天児屋根命」と刻まれた灯籠があるようで(未見)、天児屋根命を祀っていた時期があったようです。当地周辺は「阿為神社」や「太田神社」など中臣氏関係の神社が多く、また藤原鎌足の墓であるとする説のある「阿武山古墳」もあり、古くから中臣・藤原氏と関係の深い地でした。また中世以降も興福寺・春日大社の荘園となり、変わらず藤原氏と関係のある地であり続けたようです。
このため創建当初からなのか時代が下ってからなのかは不明ながら、天児屋根命を祀っていたのも然るべきだったことでしょう。
現在は小さな神社ですが、その信仰の歴史は極めて古いものがあるのかもしれません。
境内の様子
境内入口。鳥居は社殿から170mほど南方に建っています。
かつて境内・参道の東方に沿って茨木川が流れており、現在もその堤防が残っています。旧茨木川は昭和十年(1935年)の水害により付け替えられ、上流側で安威川に合流するようになりました
鳥居をくぐった様子。旧茨木河の堤防に沿って長い参道が続いています。
参道を進んでいくと、右側からの遊歩道と合流して開けた空間に出ます。この中央やや右側(東側)に樹木と手水舎があり、その奥に社殿が並んでいます。
手水舎。一般的に手水舎は境内の隅に配置されることが多いですが、当社では境内の中央にドンと置かれています。神社に用が無くて遊歩道を通行するだけの人を後方へ流すための配置と言えそうです。
正面やや左側(西側)に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は瓦葺・平入入母屋造に向拝の付いたもの。
拝殿前の狛犬。花崗岩製の新しいものです。よく見ると左側の阿形(狭義の狛犬)は角があり鬣が直毛なのに対し右側の吽形(獅子)は巻き毛となっており、きちんと区別されています。
後方には塀に囲まれて本殿が建っています。一間社隅木入春日造で軒唐破風の付いたもの。
境内の東側には境内社の「八幡宮」が鎮座しています。かつて当社の西方にあった沢良宜城の鎮守だったと言われています。
社殿の脇に建つ石碑には「ヤワタの八幡宮はこの方角に当ります」とあり、石清水八幡宮への遥拝所を兼ねているようです。
八幡宮の南方に遊歩道からの境内への入口があり鳥居も建っていますが、扁額には「八幡神社」とあります。
当社が八幡神社だった記録は無いため、本社でなく境内社に過ぎない八幡宮のための鳥居ということになり、破格の待遇となっています。
由緒
案内板
式内佐和良義神社
『摂津名所図会』
佐和良義神社
西沢良木村にあり。延喜式出。この所三村の生土神とす。
地図