社号 | 神明神社 |
読み | しんめい |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 京都府京都市左京区大原草生町 |
旧国郡 | 山城国愛宕郡草生村 |
御祭神 | 天照皇大神、豊受大神 |
社格 | 式内論社 |
例祭 | 5月5日 |
式内社
神明神社の概要
京都府京都市左京区大原草生町に鎮座する神社です。式内社「大柴神社」を当社に比定する説があります。
当社についての資料は乏しく、当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当社への入口に建礼門院ゆかりの天台宗の寺院「清香山寂光院」が所在することから同院との関係も考えられるものの、はっきりしたことは不明。
江戸時代中期の地誌『山城志』は式内社「大柴神社」を当社としていますがその根拠は全く不明です。
式内社「大柴神社」が如何なる神を祀り如何なる氏族が奉斎していたかも検討が難しく、明らかにするのは極めて困難であると言わざるを得ません。
ただ当社に関しては山の斜面上に立地しており伊勢系の神を祀るにはやや珍しい地と言え、元は山岳系の別の神が祀られていたところに後に伊勢系の神が祀られた可能性が考えられるかもしれません。
境内の様子
当社は草生地区の集落の北西、天台宗の寺院「寂光院」の北西の山腹に鎮座しています。
「寂光院」の境内西側の道を北へ進むと神明鳥居が南東向きに建っており、これが境内入口となっています。
鳥居をくぐった様子。杉などの生い茂る社叢の中を石畳の参道が緩やかに左へ曲がりながら山の斜面上へと伸びています。
参道は途中で右側(北側)へと曲がり石段になります。この石段は途中で左右に分かれますが、すぐに合流するためどちらを昇っても差し支えありません。
石段を上った様子。右側(東側)に開けた平らな空間で、右奥(北東側)に社殿が並んでいます。
石段を上って正面にある建物。銅板葺の平入切妻造のもので、動線上真っ先に目につくものの、何のための建物かは不明。
当社の手水舎はわかりにくく、先の謎建物の左奥(北西側)にあります。天然の沢の水を引いており、清冽な水が手水鉢に注がれています。
手水舎から石段が伸びていますが、この上には特に境内社等はなさそうだったため引き返しました。どこまで続いているのかは不明。
先述の通り、この空間の右奥(北東側)に当社の社殿が並んでいます。
社殿は二棟の本殿が横に並び、それぞれ南向きに建っています。いずれも本殿前に拝所が設けられ、さらにその手前側にそれぞれ神明鳥居が独立して建っています。
この二基の神明鳥居の手前左右に狛犬が配置されています。砂岩製のもの。
これら二社の社殿の内、左側(西側)鎮座しているのは「内宮」。「天照皇大神」を祀っています。
本殿は銅板葺の神明造で、何故か千木は外削ぎ、鰹木は奇数の五本と外宮式となっています。
右側(東側)には「外宮」が鎮座。「豊受大神」を祀っています。
本殿は銅板葺の神明造で千木は外削ぎ、鰹木は五本と「内宮」と全く同じ形式になっています。
二棟の本殿が並んでいる様子。それぞれの拝所の間に岩石があるのが気になるところ。何らかの曰くがあるのでしょうか。
本殿に相対するように南側に銅板葺・平入入母屋造の拝殿が建っています。
拝殿の背後は崖となっており、拝殿から参拝することはできません。このように崖に沿って拝殿が建ち参拝者の動線に何ら寄与しない例は奈良県でよく見かけるものの、京都府では珍しいものです。
拝殿は床が張られ、壁の無い拭き放ちの構造となっています。
そして特徴的なのは、この拝殿に「升と斗掻き棒」の額が掲げられていること。
これは米寿(八十八歳)の記念に奉納されるもので、主に旧・山城国綴喜郡(現在の京田辺市付近 /「棚倉孫神社」「咋岡神社(草内)」「咋岡神社(飯岡)」などの記事を参照)でよく見られる風習。
京都中心部(洛中)では見ることはありませんが、京都北郊の当地・大原地域でもこのように見られ、京都の南北で飛び地的に分布していることになります。
大原地域の西にある静原地区ではこれもまた旧・山城国南部で見られる「座小屋」がある(「静原神社」の記事を参照)ことから、邪推するならば共に洛中から南北に伝わったものが後に当の洛中では消失したのかもしれません。
柳田国男の「方言周圏論」と同様、風習においても京都を中心に同心円状に分布することがある一例と言えそうです。
本社本殿の右側(東側)の斜面上に小さな境内社が南向きに鎮座しています。社名・祭神は不明。
社殿はトタン葺の流見世棚造。
帰り際に参道から入口方面を見た様子。
緑に囲まれた美しい神社であることがわかります。
地図