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賀茂御祖神社境内社 (京都府京都市左京区下鴨泉川町)

賀茂御祖神社の境内社

境内東側の様子

境内の東側を流れる御手洗川の上に架かるように「橋殿」があります。妻入入母屋造の建築。当社の例祭である御蔭祭で御神宝を奉安するところです。ここで舞楽等も行われ、実質的には舞殿の機能を持ち合わせています。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財

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重要文化財

橋殿

 

橋殿から御手洗川を渡ったところに「細殿御所」があります。平入入母屋造りで向拝の付いた建築。天皇の行幸、法皇・上皇の御幸の際の行在所として使用され、江戸時代以降は御所の火災の際に八咫鏡を安置したり、孝明天皇の攘夷祈願の際に将軍徳川家茂の侍所となるなど、歴史的な建築です。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財

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重要文化財

細殿御所

 

境内東側を流れる「御手洗(みたらし)川」。当社には数多くの小川が流れていますが、その中でも最も神聖な川とされています。土用の丑の日にこの川に足を浸して疫病等を封じる「足つけ神事」など、諸々の神事がこの川で執り行われます。

御手洗川に架かる「輪橋(そりはし)」。注連縄が張られており、普段は渡ることが出来ません。

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御手洗川

 

御手洗川の最奥部にある御手洗池の奥に「井上社」が鎮座しています。御祭神は「瀬織津姫命」。「御手洗社」とも呼ばれています。

当社はかつて存在した解除(お祓)の神社である「唐崎社」を前身とすると伝えられる一方、式内社「出雲井於神社」を当社に比定する説もあります。

社伝によれば、元は高野川と鴨川の合流地の東岸に鎮座していたものの、文明の乱で焼失したため文禄年間に当地に再興したと伝えられています。また、井戸の井筒の上に鎮座することから井上社と呼ばれるようになったとも言われています。

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井上社 別名 御手洗社

 

境内西側の様子

舞殿の左側(西側)に「神服殿」があります。平入入母屋造の建築。夏冬の神服を奉製するところでしたが、近世以降は勅使殿、着到殿としても使用され、また御所が災害に遭った際は臨時の御座所ともされた歴史ある建築です。現在も玉座があり、普段の使用が禁じられていることから「開けずの間」とも呼ばれています。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財

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神服殿

 

神服殿の左側(南側)に「解除所(げじょのところ)」があります。天皇・法皇・上皇の行幸・御幸や官祭において解除(お祓)を行うところです。

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解除所(げじょのところ)

 

神服殿の左側(西側)に「供御所」があります。入母屋造の建築。内部は東、中、西の三間に分かれ、東の間は神饌の調理、中の間は魚介類・鳥類の調理、西の間は神官の参集・直会のための部屋となっています。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財

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重要文化財

供御所

 

出雲井於神社

供御所の南側に「出雲井於(いずもいのへの)神社」が鎮座しています。御祭神は「建速須佐乃男命」。「比良木社」とも呼ばれています。

先述の井上社とともに式内社「出雲井於神社」の論社となっています。

社伝によれば、「葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしべ)」の人々が祖神を祀ったとしています。葛野主殿県主部氏は本宮を奉斎した賀茂氏と同系であるとされますが、本来は賀茂氏が京都盆地へ進出する以前から当地に居住していた氏族とする説もあります。

『倭名類聚抄』山城国愛宕郡に「出雲郷」の記載があり、この郷内に鎮座していたことが社名から窺えます。賀茂御祖神社から賀茂川を挟んだ右岸側に「出雲路○○町」という地名があり、この郷の遺称となっています。

丹波国桑田郡(京都府亀岡市)には丹波国一宮の「出雲大神宮」が鎮座しており、亀岡盆地から京都盆地にかけて出雲系の氏族が居住していたことが伺えます。当社を奉斎した葛野主殿県主部氏も出雲系の人々と何らかの関わりがあったのかもしれません。

社殿は妻入入母屋造の舞殿風拝殿と中門、一間社流造の本殿で構成されています。本殿は天正九年(1561年)に建立された本宮の本殿を移築したもので、賀茂御祖神社境内で最も古い貴重な建築です。国指定重要文化財

また、境内社として本殿の北側に「岩本社」(御祭神「住吉神」)、南側に「橋本社」(御祭神「玉津島神」)が鎮座しています。

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重要文化財

出雲井於神社

 

三井神社

賀茂御祖神社本宮の中門・幣殿といった主要社殿の左側(西側)に「三井(みつい)神社」が鎮座しています。御祭神は「賀茂建角身命」「伊賀古夜媛命」「玉依媛命」。

河合神社境内社の三井社(三塚社)と共に式内社「三井神社」の論社となっています。

『山城国風土記』逸文に「可茂建角身命、丹波の伊可古夜日売、玉依日売、三柱の神は蓼倉の里の三井の社に坐す」とあり、この「三井の社」は当社であるとされています。「蓼倉の里」について、『倭名類聚抄』山城国愛宕郡に「蓼倉郷」が記載され、当社の北東に「下鴨蓼倉町」の地名が遺称として残っています。出雲郷との境界は不詳ながら、当地一帯は蓼倉郷だったようです。

『山城国風土記』逸文には当社のことが記載されている一方で賀茂御祖神社については一切記載されていないことから、賀茂御祖神社が創建される以前から当地付近に鎮座していたことが考えられます。ただ、賀茂御祖神社の御祭神二柱に伊賀古夜媛命を加えて当社の御祭神としており、『風土記』の時代には既に賀茂氏にとってゆかりの深い地だったことが伺われます。ただし、古くは当社の御祭神も諸説あったようです。

三井神社は棟門の後方に妻入入母屋造の舞殿風の拝殿が建てられており、その後方に三棟の一間社流造の本殿が配されています。

三棟の本殿は左側(西社)に「玉依媛命」、中央(中社)に「賀茂建角身命」、右側(東社)に「伊賀古夜媛命」を祀っています。

また、拝殿の左側(西側)にも三棟の境内社が南北に配されています。

北側から「諏訪社」(御祭神「建御名方神」)、「小杜社」(御祭神「水分神」)、「白髭社」(御祭神「大伊乃伎命」別名「猿田彦神」)。

諏訪社は式内社「須波神社」の論社の一つとなっています。

三井神社の棟門および左右の廻廊、拝殿、本殿は寛永六年(1629年)に建立の国指定重要文化財

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重要文化財

三井神社

 

大炊殿

本宮の西側には「大炊殿」があり、拝観することができます。その入り口となる本宮幣殿前の左側(西側)には「唐門」があります。この唐門の欄間にはブドウの彫刻があることから「ブドウ門」とも呼ばれています。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財

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唐門をくぐり三井神社の拝殿前を通り抜けます。なお、上の三井神社の拝殿および本殿の写真はこの際に撮ったものです。

三井神社を過ぎるとちょっとした森の中に入っていきます。この森には当社の象徴である葵が繁茂しています。

 

森の奥に「大炊殿(おおいどの)」があります。ここは米や餅などの神饌を調理していたところで、内部を見学することができます。竈や台所をはじめ祭祀や葵祭等に用いられる神具のレプリカ等が展示されており、資料館のようにもなっています。

妻入切妻造の建築で、寛永五年(1628年)のもの。国指定重要文化財

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大炊殿

 

大炊殿の前に「水ごしらへ場」と呼ばれる平たい石があります。若水神事などの祭事が行われるところです。

また、式内社「末刀神社」の神がここに降臨する磐座でもあると伝えられ、「橋」とも呼ばれています。

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水ごしらへ場

 

その他

中門前から左側(西側)へ進むと、大炊殿の南方にあたる位置に「祓社」が鎮座しています。御祭神は「玉依姫命」「賀茂建角身命」「祓戸大神」。交通安全、災難除け、病難除けの神として信仰されている他、自動車のお祓い所ともなっています。

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末社 祓社

 

祓社から西へ進むと「印納社」が鎮座しています。御祭神は「印璽大神」「倉稲魂命」。詳細は不明ですが古い印を納め祀ってるようです。

この一帯は斎院の御所があった地でもあると伝えられています。

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末社 印納社

 

印納社の西側に「愛宕社」(東側/古名「贄殿神」「酒殿神」「奈良殿神」/御祭神「火産霊神」)と「稲荷社」(西側/古名「専女社」/御祭神「宇迦之御魂神」)の相殿が鎮座しています。かつて愛宕社は斎院御所の守護神として、稲荷社は斎院御所内の忌子女庁屋の守護神として祀られていました。

式内社「末刀神社」をこの愛宕社に比定する説があります。先述のように大炊殿の前に末刀社の神が降臨する磐座と伝えられる「水ごしらへ場」があり、また一説に境内の北西に末刀社の祠があったと言われ、その神社を継承するのが愛神社であるとも言われています。その妥当性は定かではありませんが、「贄殿神」「酒殿神」「奈良殿神」の古名は単に愛宕神を祀る神社と思えず、古い神社であることは考えられそうです。

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参道付近の様子

楼門前の参道左側(西側)に「相生社」が鎮座しています。御祭神は「皇産霊神」。縁結びの神として信仰されています。

相生社に隣接して連理のサカキがあり、御神木となっています。枯れてもまた連理の木が神域に生えてくるため京の七不思議の一つとされています。この御神木は四代目で、連理が和合を象徴することから相生社はこの御神木に関連したものとなっています。

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相生社

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京の七不思議

 

糺の森の参道の一つ西側にある馬場に「雑太(さわた)社」が鎮座しています。御祭神は「神魂命」「賀茂建角身命」。

元はかつて賀茂御祖神社にあった神舘御所の雑太というところに御所の鎮守社として祀られていました。『続日本紀』に佐渡国雑太郡を分割して賀茂郡を設置したことが見られるなど、「雑太」と「賀茂」の関係の深いことが示唆されています。

明治十年(1877年)に糺の森で日本で初めてラグビーの練習が行われ、御祭神の神「魂」命は「球」に通じることから現在はラグビーの聖地としても信仰されています。このため当社の鈴や絵馬はラグビーボールの形になっています。

末社 雑太社

末社 雑太社

 

雑太社の北側に「賀茂斎院御歴代斎王神霊社」が鎮座しています。御祭神は「有智子内親王ほか三十五代斎王御神霊」。賀茂社で斎王を務めた三十五代の斎王の神霊が祀られています。

かつて本社境内にあった斎院御所の庭の中島で歴代の斎王を供養したのが始まりだと考えられています。

明治年間には河崎社が合祀されて神宮寺跡に祀られており、昭和三十三年(1958年)の式年遷宮で三井神社末社へ仮に合祀されていましたが、平成二十七年(2015年)の式年遷宮で再興しました。2019年現在、河崎社も再興中です。

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末社 賀茂斎院御歴代斎王神霊社

 

境内周辺の様子

当社境内のすぐ北西にある「加茂みたらし茶屋」さんではとても美味しいみたらし団子をいただくことができます。

当社とみたらし団子の関係は非常に深く、当社の御手洗池では土用の丑の日が近づくと水が湧き出ると言われ、そこに浮かぶ水泡をかたどったものがみたらし団子の発祥だと言われています。団子は古くから神前に供える神饌でもあり、それを頂くことは神霊の力を分けていただくことでもあります。みたらし団子を味わうこともまた当社への参詣の一環だと言えましょう。

 

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