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賀茂御祖神社境内社 (京都府京都市左京区下鴨泉川町)

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賀茂御祖神社の境内社

境内東側の様子

境内の東側を流れる御手洗川の上に架かるように「橋殿」があります。妻入入母屋造の建築。当社の例祭である御蔭祭で御神宝を奉安するところです。ここで舞楽等も行われ、実質的には舞殿の機能を持ち合わせています。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財

案内板「橋殿」

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重要文化財

橋殿

御蔭祭のとき、御神宝を奉安する御殿。

古くは御戸代会神事、奏楽、里神楽、倭舞が行われていた。また行幸、御幸のさい、公卿、殿上人の控え所と定められていた。現在は、名月管絃祭、正月神事等年中祭事のときに神事芸能が奉納される社殿。

式年遷宮寛永五年度(一六二八)造替後は、二十一年ごとに解体修理が行われる。入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間。

 

橋殿から御手洗川を渡ったところに「細殿御所」があります。平入入母屋造りで向拝の付いた建築。天皇の行幸、法皇・上皇の御幸の際の行在所として使用され、江戸時代以降は御所の火災の際に八咫鏡を安置したり、孝明天皇の攘夷祈願の際に将軍徳川家茂の侍所となるなど、歴史的な建築です。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財

案内板「細殿御所」

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重要文化財

細殿御所

平安時代の当神社の社殿の記録『神殿記』に細殿とある御所です。よって、今日でも細殿と呼んでいますが、歴代天皇の行幸、法皇、上皇、院の御幸の行在所です。

また関白賀茂詣のせつには、拝所とされたほか、文学史上にみる有名な「鴨社歌会」などが度々おこなわれた御所です。

近世の記録では、天明八年(一七八八)、洛中の大火があり皇居が回禄(類焼)したときは、内侍所(賢所)の奉安所となり、文久年度の回禄には、祐宮(のちの明治天皇)の行在所となりました。さらに文久三年(一八六三)三月三十一日、孝明天皇鴨社攘夷御祈願行幸のときには、第十四代徳川家茂将軍の侍所となるなど、歴史的な御所です。

内部の構造は、折上げ二重の天井、外部は、向拝のついた流造りとなっており、建築学的にも貴重な御所です。また向拝橋掛(階段のこと)への導入は、御手洗川に屋形橋と言う屋根のついた儲橋がかけられ、橋のたもとに水琴窟の手水が設けられています。御所の東側は「桔梗の庭」と呼ばれています。桔梗は、古名をおかときき、とか、きちこう、とも呼ばれ自然を畏敬し神仏に身をおく、と言う帰敬の意味をもって花が愛でられていました。

現在の御所は、江戸時代、寛永五年(一六二八)遷宮に造替されて以降は、御遷宮ごとに解体修理がおこなわれてきました。

 

境内東側を流れる「御手洗(みたらし)川」。当社には数多くの小川が流れていますが、その中でも最も神聖な川とされています。土用の丑の日にこの川に足を浸して疫病等を封じる「足つけ神事」など、諸々の神事がこの川で執り行われます。

御手洗川に架かる「輪橋(そりはし)」。注連縄が張られており、普段は渡ることが出来ません。

案内板「御手洗川、輪橋と光琳の梅」

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御手洗川

君がため御手洗川を若水に むすぶや千代の初めなるらむ(後撰和歌集)

土用の丑の日にこの御手洗川に足を浸し疫病や病い封じを祈願して賑わう「足つけ神事」や立秋の前夜の「矢取の神事」葵祭の「斎王代の禊の儀」をはじめ、祓の神事が執り行われるところである。また常は水が流れていないが、土用が近づくとこん〱と湧き出るところから、京の七不思議の一つとされ、その様をかたちどったと云われるみたらし団子の発祥のところでもある。

輪橋と光琳の梅

尾形光琳(一六五八-一七一六)がこのあたりを描いたのが「紅白梅図屏風(国宝)」である。以来、この梅を「光琳の梅」と呼ばれるようになった。

 

御手洗川の最奥部にある御手洗池の奥に「井上社」が鎮座しています。御祭神は「瀬織津姫命」。「御手洗社」とも呼ばれています。

当社はかつて存在した解除(お祓)の神社である「唐崎社」を前身とすると伝えられる一方、式内社「出雲井於神社」を当社に比定する説もあります。

社伝によれば、元は高野川と鴨川の合流地の東岸に鎮座していたものの、文明の乱で焼失したため文禄年間に当地に再興したと伝えられています。また、井戸の井筒の上に鎮座することから井上社と呼ばれるようになったとも言われています。

案内板「井上社 別名 御手洗社」

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井上社 別名 御手洗社

祭神

瀬織津姫命

例祭

土用の丑の日

この社の前進(※原文ママ)は、「三代實録」、元慶三年(八七九)九月二十五日の条をはじめ諸書に見える唐崎社である。

賀茂斎院の御禊や解斎 関白賀茂詣の解除に参拝になった社である。

元の社地は、高野川と鴨川の合流地東岸に鎮座のところ、文明の乱により、文明二年(一四七〇)六月十四日焼亡したため、文禄年間(一五九二~九六)に、この所に再興になり寛永度(一六二九)式年遷宮より官営神社となった。

また、井戸の井筒の上に祀られたところから井上社と呼ばれるようになった。

賀茂祭(葵祭)に先だつ斎王代の御禊の儀にこの社前の御手洗池で行われ、夏の風物詩土用の丑の日の足つけ神事、立秋の前夜の矢取りの神事はともに有名である。土用になれば、御手洗池から清水が湧き出ることで七不思議の一つにも上げられ、池底から自然に吹き上がる水泡をかたどったのがみたらし団子の発祥と伝えられている。

 

境内西側の様子

舞殿の左側(西側)に「神服殿」があります。平入入母屋造の建築。夏冬の神服を奉製するところでしたが、近世以降は勅使殿、着到殿としても使用され、また御所が災害に遭った際は臨時の御座所ともされた歴史ある建築です。現在も玉座があり、普段の使用が禁じられていることから「開けずの間」とも呼ばれています。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財

案内板「神服殿」

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重要文化財

神服殿

夏、冬の御神服を奉製する御殿であったため。その名がある。古代祭祀の神殿様式を伝える貴重な社殿である。

近世は、勅使殿又は着到殿となり古来殿内の一室が行幸のときは、玉座となった。

「開ずの間」として伝えられている。古くから御所が災害にあわれた時、臨時の御座所と定められている。

式年遷宮寛永五年度(一六二八)造替後は、二十一年目ごとに解体修理が行われる。

入母屋造、檜皮葺 桁行五間、梁間四間

 

神服殿の左側(南側)に「解除所(げじょのところ)」があります。天皇・法皇・上皇の行幸・御幸や官祭において解除(お祓)を行うところです。

案内板「解除所(げじょのところ)」

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解除所(げじょのところ)

当神社は古代から天皇ご親斎のお社である。行幸、御幸、官祭にさいして解除(お祓)をされるところ。

常設の解除場が設けられたのは、他に類を見ない。

 

神服殿の左側(西側)に「供御所」があります。入母屋造の建築。内部は東、中、西の三間に分かれ、東の間は神饌の調理、中の間は魚介類・鳥類の調理、西の間は神官の参集・直会のための部屋となっています。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財

案内板「供御所」

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重要文化財

供御所

御殿のなかは東、中、西の三間に分かれている。供御所は(東の間)は神饌を調理するところ。贄殿(中の間)は魚介鳥類を調理する間。侍所(西の間)は神官など参集し、直会、勧盃の儀などを行う。

式年遷宮寛永五年度(一六二八)造替後は、二十一年ごとに解体修理が行われる。

入母屋造、檜皮葺、桁行九間、梁間三間

 

出雲井於神社

供御所の南側に「出雲井於(いずもいのへの)神社」が鎮座しています。御祭神は「建速須佐乃男命」。「比良木社」とも呼ばれています。

先述の井上社とともに式内社「出雲井於神社」の論社となっています。

社伝によれば、「葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしべ)」の人々が祖神を祀ったとしています。葛野主殿県主部氏は本宮を奉斎した賀茂氏と同系であるとされますが、本来は賀茂氏が京都盆地へ進出する以前から当地に居住していた氏族とする説もあります。

『倭名類聚抄』山城国愛宕郡に「出雲郷」の記載があり、この郷内に鎮座していたことが社名から窺えます。賀茂御祖神社から賀茂川を挟んだ右岸側に「出雲路○○町」という地名があり、この郷の遺称となっています。

丹波国桑田郡(京都府亀岡市)には丹波国一宮の「出雲大神宮」が鎮座しており、亀岡盆地から京都盆地にかけて出雲系の氏族が居住していたことが伺えます。当社を奉斎した葛野主殿県主部氏も出雲系の人々と何らかの関わりがあったのかもしれません。

社殿は妻入入母屋造の舞殿風拝殿と中門、一間社流造の本殿で構成されています。本殿は天正九年(1561年)に建立された本宮の本殿を移築したもので、賀茂御祖神社境内で最も古い貴重な建築です。国指定重要文化財

また、境内社として本殿の北側に「岩本社」(御祭神「住吉神」)、南側に「橋本社」(御祭神「玉津島神」)が鎮座しています。

案内板「出雲井於神社」

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重要文化財

出雲井於神社

祭神

建速須佐乃男命

例祭日

十月十四日

『延喜式』に「出雲井於神社」とある神社で「日本書紀」神武天皇二年の条に葛野主殿県主部とある人々が祖神としてお祭りした神社です。

古代山城北部に住んでいたこの県主部たちは、鴨氏と同じ祖先に属し「神亀三年(七二六)山背国愛宕郡出雲郷雲上、雲下里計帳」(『正倉院文書』)で知られる人たちです。

大宝令(七〇〇)以降、山代国葛野郡は四つに分割され、鴨川と高野川の合流点より東山、北山までの地域が愛宕郡となり鴨川の東岸が蓼倉郷、西岸が出雲郷となりました。「井於(いのへ)」とは、鴨川のほとりのことで、出雲郷の鴨川のほとりの神社という意味です。

承和二年(八四四)二月二十日、太政官符によって定められた鴨社領出雲郷の総社でありました。

その地域の氏神社、地主社として信仰が厚く、通称を比良木神社と呼ばれています。

また、厄年の御祈願としてこの神社の周りに御献木すると、ことごとく柊になってお願い事が叶う「何んでも柊」と呼ばれ、京の七不思議になっています。特に古来より、お祭りに「お茶」を薬草としてお供えされるところから、お茶の神様としても信仰されています。さらに「ヒラキの牛王宝札」という特別御祈願符がいただけます。

現在の社殿は寛永六年度(一六二九)式年遷宮の時、先の式年遷宮(天正九年[一五六一])に造営された御本宮本殿が移築され、当神社の中では最も古い貴重な社殿です。

重要文化財 末社(北社)岩本社 住吉神

重要文化財 末社(南社)橋本社 玉津島神

 

三井神社

賀茂御祖神社本宮の中門・幣殿といった主要社殿の左側(西側)に「三井(みつい)神社」が鎮座しています。御祭神は「賀茂建角身命」「伊賀古夜媛命」「玉依媛命」。

河合神社境内社の三井社(三塚社)と共に式内社「三井神社」の論社となっています。

『山城国風土記』逸文に「可茂建角身命、丹波の伊可古夜日売、玉依日売、三柱の神は蓼倉の里の三井の社に坐す」とあり、この「三井の社」は当社であるとされています。「蓼倉の里」について、『倭名類聚抄』山城国愛宕郡に「蓼倉郷」が記載され、当社の北東に「下鴨蓼倉町」の地名が遺称として残っています。出雲郷との境界は不詳ながら、当地一帯は蓼倉郷だったようです。

『山城国風土記』逸文には当社のことが記載されている一方で賀茂御祖神社については一切記載されていないことから、賀茂御祖神社が創建される以前から当地付近に鎮座していたことが考えられます。ただ、賀茂御祖神社の御祭神二柱に伊賀古夜媛命を加えて当社の御祭神としており、『風土記』の時代には既に賀茂氏にとってゆかりの深い地だったことが伺われます。ただし、古くは当社の御祭神も諸説あったようです。

三井神社は棟門の後方に妻入入母屋造の舞殿風の拝殿が建てられており、その後方に三棟の一間社流造の本殿が配されています。

三棟の本殿は左側(西社)に「玉依媛命」、中央(中社)に「賀茂建角身命」、右側(東社)に「伊賀古夜媛命」を祀っています。

また、拝殿の左側(西側)にも三棟の境内社が南北に配されています。

北側から「諏訪社」(御祭神「建御名方神」)、「小杜社」(御祭神「水分神」)、「白髭社」(御祭神「大伊乃伎命」別名「猿田彦神」)。

諏訪社は式内社「須波神社」の論社の一つとなっています。

三井神社の棟門および左右の廻廊、拝殿、本殿は寛永六年(1629年)に建立の国指定重要文化財

案内板「三井神社」

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重要文化財

三井神社

江戸時代寛永六年造替

『風土記』山城國賀茂社の条に「蓼倉里三身社」、『延喜式』に「三井ノ神社」とある神社です

奈良時代から平安時代にかけて、このあたり一帯は蓼倉郷と呼ばれていました

三身社とは、ご本宮の賀茂建角身命とその妻、伊可古夜日売、その子玉依媛命のことであり、三神がまつられています

〈西側の末社〉

平安時代の当神社社頭絵図「鴨社古図」に描かれている神社です

各社の位置などは現在なおかわりません

これらの神社は糺の森を禁足地とし、ご社殿前の斎庭が葵草と苔庭など自然の中にまつられる、古代神社の姿を伝える貴重な神社です

また、拝殿をはじめ棟門などすべてが重要文化財です

 

大炊殿

本宮の西側には「大炊殿」があり、拝観することができます。その入り口となる本宮幣殿前の左側(西側)には「唐門」があります。この唐門の欄間にはブドウの彫刻があることから「ブドウ門」とも呼ばれています。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財

案内板「唐門、御料屋、預屋」

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重要文化財

唐門

江戸時代寛永五年造替

屋根の唐破風の形式からその名があります。また欄間にブドウの文様が彫刻されているところから、ブドウ門ともよばれています。

「古事記」や日本書紀に伊弉諾尊が黄泉国から逃げ帰られたとき、追いかけて来た鬼に髪飾りを投げつけられるとエビカズラの実に変わった、との神話があります。エビカズラは、野生のブドウのことで「源氏物語」などに、えび色(ぶどう色)と記しています。

また平安時代は、薬草の一種とされていました。

ブドウ棚の文様は、我が国独自の意匠であり、神話が伝えているように門をくぐると人々を御祓する意味を表しています。

重要文化財

御料屋

右(北側)の社殿

神饌(お供え)の準備や盛り付けがおこなわれる社殿。

重要文化財

預屋

左(南側)の社殿

古くは神官が神前奉仕のため控えている社殿。現在は、儀式殿いずれも、江戸時代、寛永五年、式年遷宮のとき造替になった社殿。

 

唐門をくぐり三井神社の拝殿前を通り抜けます。なお、上の三井神社の拝殿および本殿の写真はこの際に撮ったものです。

三井神社を過ぎるとちょっとした森の中に入っていきます。この森には当社の象徴である葵が繁茂しています。

 

森の奥に「大炊殿(おおいどの)」があります。ここは米や餅などの神饌を調理していたところで、内部を見学することができます。竈や台所をはじめ祭祀や葵祭等に用いられる神具のレプリカ等が展示されており、資料館のようにもなっています。

妻入切妻造の建築で、寛永五年(1628年)のもの。国指定重要文化財

案内板「大炊殿」

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重要文化財

大炊殿

神饌(お供え)の御料を煮炊きし、調理をする社殿で大炊所とも呼ばれている。入り口の土間に竈(おくどさん)があり、中の間は、お供えの材料や用具を洗ったり、調理する台所奥の間は、盛り付けをし、神前へお供えする順に並べておく配膳棚が設けてある。

古くは、この社殿ではご飯、餅、ぶと、まがり(お菓子)など穀物類が調理された。お酒は酒殿。魚貝鳥類に贄殿で料理されていたが、文明二年(一四七〇)六月十日、乱の兵火によって焼失した。

その後、大炊殿は、現在の場所に再興された。酒殿は退転。贄殿は、供御所の一間に充てられた。神社建築のなかでこの種の社殿が現存するのは非常に希で貴重である。

 

大炊殿の前に「水ごしらへ場」と呼ばれる平たい石があります。若水神事などの祭事が行われるところです。

また、式内社「末刀神社」の神がここに降臨する磐座でもあると伝えられ、「橋」とも呼ばれています。

案内板「水ごしらへ場」

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水ごしらへ場

若水神事をはじめ御水の祭事が行われる所。

また、この岩は式内末刀社(水の神)の御祭神が御降臨になる磐座との伝承があり橋とよばれている。

 

その他

中門前から左側(西側)へ進むと、大炊殿の南方にあたる位置に「祓社」が鎮座しています。御祭神は「玉依姫命」「賀茂建角身命」「祓戸大神」。交通安全、災難除け、病難除けの神として信仰されている他、自動車のお祓い所ともなっています。

案内板「末社 祓社」

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末社 祓社

御祭神

玉依姫命
賀茂建角身命
祓戸大神

当神社は、古代から鴨神道と称する独自の思想信仰を伝えている。旅行、交通安全等の導きの守護神でもある。

また、災難除け、病難除けのお祓の神である。

 

祓社から西へ進むと「印納社」が鎮座しています。御祭神は「印璽大神」「倉稲魂命」。詳細は不明ですが古い印を納め祀ってるようです。

この一帯は斎院の御所があった地でもあると伝えられています。

案内板「末社 印納社」

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末社 印納社

御祭神

印璽大神
倉稲魂命

御本宮の御垣内に古くから祀られてある印璽社の御祭神を祀り、ここに古印を納め御守護を仰ぐお社である。またこの一帯は平安時代初期より室町時代まで賀茂斎院御所(文明の乱により焼失)のあった由緒地である。

 

印納社の西側に「愛宕社」(東側/古名「贄殿神」「酒殿神」「奈良殿神」/御祭神「火産霊神」)と「稲荷社」(西側/古名「専女社」/御祭神「宇迦之御魂神」)の相殿が鎮座しています。かつて愛宕社は斎院御所の守護神として、稲荷社は斎院御所内の忌子女庁屋の守護神として祀られていました。

式内社「末刀神社」をこの愛宕社に比定する説があります。先述のように大炊殿の前に末刀社の神が降臨する磐座と伝えられる「水ごしらへ場」があり、また一説に境内の北西に末刀社の祠があったと言われ、その神社を継承するのが愛神社であるとも言われています。その妥当性は定かではありませんが、「贄殿神」「酒殿神」「奈良殿神」の古名は単に愛宕神を祀る神社と思えず、古い神社であることは考えられそうです。

案内板「末社 愛宕社、稲荷社」

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末社 愛宕社(東社)

古名

贄殿神 酒殿神 奈良殿神

御祭神

火産霊神

稲荷社(西社)

古名

専女社(とうめのやしろ)(本宮)

御祭神

宇迦之御魂神

愛宕社は、古く賀茂斎院御所の守護神として御所内に祀られ、稲荷社は賀茂斎院御所内(文明の乱により消失)の忌子女庁屋の池庭の中島に祀られていた。文明の乱以降両社を相殿として旧地に祀った。

 

参道付近の様子

楼門前の参道左側(西側)に「相生社」が鎮座しています。御祭神は「皇産霊神」。縁結びの神として信仰されています。

相生社に隣接して連理のサカキがあり、御神木となっています。枯れてもまた連理の木が神域に生えてくるため京の七不思議の一つとされています。この御神木は四代目で、連理が和合を象徴することから相生社はこの御神木に関連したものとなっています。

案内板「相生社」

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相生社

縁結びの神

御祭神は産霊神で古代から縁結びの神として知られている。

めでたいことを「相生」というのは、ここから始まったといわれている。縁結びのお守り、心願絵馬、縁結びの御祈祷のお申し込みは、授与所へお申し出下さい。

案内板「京の七不思議」

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京の七不思議

連理の賢木 縁結びの御神木

この御神木は、右側のお社「相生社」、縁結びの神の御神威によって二本の木が一本にむすばれたものと云い伝えられている。このことは、縁結び、安産子育、家内安全の御神徳の現れであり謡曲などに相生とうたわれ京の七不思議として古くから有名である。又この御神木は四代目であり代を次いで境内糺の森の神域に生まれるのが不思議である。

 

糺の森の参道の一つ西側にある馬場に「雑太(さわた)社」が鎮座しています。御祭神は「神魂命」「賀茂建角身命」。

元はかつて賀茂御祖神社にあった神舘御所の雑太というところに御所の鎮守社として祀られていました。『続日本紀』に佐渡国雑太郡を分割して賀茂郡を設置したことが見られるなど、「雑太」と「賀茂」の関係の深いことが示唆されています。

明治十年(1877年)に糺の森で日本で初めてラグビーの練習が行われ、御祭神の神「魂」命は「球」に通じることから現在はラグビーの聖地としても信仰されています。このため当社の鈴や絵馬はラグビーボールの形になっています。

末社 雑太社

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末社 雑太社

御祭神

神魂命
賀茂建角身命

例祭

四月一日

元は、鴨社神舘御所内の雑太という字地に御所の鎮祭社として祀られていました。

奈良、平安時代は、この社から各地へ分霊されていたことが記録にみえます。その一所に『倭名類聚抄』養老五年(七二一)四月に、佐渡國雑太郡加茂の加茂神社とあり、他にも多々みられます。

応仁・文明の乱の兵火により、文明二年六月十四日(一四七〇・『親長卿記』)鴨社神舘御所とともに焼亡したのでこの地に御動座になりました。

明治十年(一八七七)三月二十一日、官幣大社賀茂御祖神社の末社と制定され、社殿は、明治四十三年(一九一〇)四月八日、旧法により、特別保護建造物に指定されました。

同じ年の九月十日、社前の馬場にて、御祭神の神「魂」命は、「球」に通じるとして、糺の森で初のラグビの練習が第三高等学校と慶應義塾大学生とのあいだでおこなわれました。それが契機となり日本ラグビ界の歴史が始まり、今日まで数々の名勝負が展開されてきました。昭和四十四年(一九六九)十月五日、その歴史を後世に伝えるため「第一蹴の地」の聖地として記念碑が建立されました。

 

雑太社の北側に「賀茂斎院御歴代斎王神霊社」が鎮座しています。御祭神は「有智子内親王ほか三十五代斎王御神霊」。賀茂社で斎王を務めた三十五代の斎王の神霊が祀られています。

かつて本社境内にあった斎院御所の庭の中島で歴代の斎王を供養したのが始まりだと考えられています。

明治年間には河崎社が合祀されて神宮寺跡に祀られており、昭和三十三年(1958年)の式年遷宮で三井神社末社へ仮に合祀されていましたが、平成二十七年(2015年)の式年遷宮で再興しました。2019年現在、河崎社も再興中です。

案内板「末社 賀茂斎院御歴代斎王神霊社」

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末社 賀茂斎院御歴代斎王神霊社

御祭神

有智子内親王ほか三十五代斎王御神霊

例祭

七月四日

葵祭の斎王さまの御神霊のお社です。「賀茂斎院御歴代斎王神霊社」と呼んでいます。

明治二十七年(一八九四)、賀茂御祖神社の御事歴を調査し編修した『賀茂御祖神社御時歴調記』には、「河崎社・斎院鎮守御社合社、御祭神、大伊伎命(ひろく猿田彦大神として信仰されています。)と賀茂斎院御代々神霊社の二社が合わせ祀られた神社」と説明しています。また同書には「勧進・嵯峨天皇御代。在所、本社西南二町半」とあります。鴨社神舘御所の旧跡に祀られていたお社と河崎社が合祀され鴨社神宮寺跡に祀られていたことを記録しています。

勧進されたのは、「嵯峨天皇御代」となっています。賀茂斎院の制が設けられたのは、弘仁元年(八一〇)四月、(『一代要記』)とあり、初代の斎王さまは、嵯峨天皇の第八皇女・有智子内親王が弘仁元年、四才のときに卜定され、天長八年(八三一)十二月、二十一才で退下になり、承和十四年(八四七)十月二十六日、四十一才にて薨去されました。以来、鎌倉時代の後鳥羽天皇の皇女・禮子内親王が建暦二年(一二一二)九月四日、退下されるまで三十五代、約四百年にわたって代々皇女が斎王宮として御在位になりました。

『百練抄』の仁平元年(一一五一)七月四日のくだりに「一院供養河東御所内中嶋御塔」とあります。「河東」とは、その当時の宮中からみて、鴨川の東の御所、すなわち「鴨社頭賀茂斎院御所」のことです。当時、糺の森に所在した御所の池庭に祀られていた歴代斎王の神霊社の「ご供養(お祭)」を鳥羽法皇が祭祀された、ことを記しています。

その後、応仁・文明の乱の兵火によって、鴨社頭賀茂斎院御所は焼亡(文明二年(一四七〇)六月十四日『親長卿記』)しました。のちにこの旧跡に鴨氏の祖先・河崎社と相殿となり御再興になりました。

長い歴史の間には、紆余曲折がありましたが、今日まで変わらずにお祀りされています。ただ昭和三十三年・第三十二回・式年遷宮が予定され、造替の計画が勧められたので御祭神は、摂社・三井社末社へ仮遷御され社殿を撤去されましたが、戦後社会の混乱状況により、御遷宮が遅延し、今回、第三十四回・平成二十七年式年遷宮事業により御再興いたしました。

 

境内周辺の様子

当社境内のすぐ北西にある「加茂みたらし茶屋」さんではとても美味しいみたらし団子をいただくことができます。

当社とみたらし団子の関係は非常に深く、当社の御手洗池では土用の丑の日が近づくと水が湧き出ると言われ、そこに浮かぶ水泡をかたどったものがみたらし団子の発祥だと言われています。団子は古くから神前に供える神饌でもあり、それを頂くことは神霊の力を分けていただくことでもあります。みたらし団子を味わうこともまた当社への参詣の一環だと言えましょう。

 

関係する寺社等

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賀茂波尓神社 (京都府京都市左京区高野上竹屋町)

社号 賀茂波爾神社 読み かもはに 通称 赤の宮 等 旧呼称 赤宮稲荷大明神 等 鎮座地 京都府京都市左京区高野上竹屋町 旧国郡 山城国愛宕郡高野河原村 御祭神 波爾安日子神、波爾安日女神 社格 式内 ...

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