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咋岡神社 (京都府京田辺市草内宮ノ後)

社号咋岡神社
読みくいおか
通称
旧呼称天神社、天満宮 等
鎮座地京都府京田辺市草内宮ノ後
旧国郡山城国綴喜郡草内村
御祭神倉稲魂神、菅原道真
社格式内論社
例祭10月15日

 

咋岡神社の概要

京都府京田辺市草内宮ノ後に鎮座する神社です。

社伝によれば、建治年間(1275~1278年)に創建され、応仁年間(1467~1469年)および永正年間(1504~1521年)に兵火で焼失、天文三年(1534年)に再建されたと伝えられています。

江戸時代には「菅原道真」を祀る「天神社」と呼ばれていたものの、明治二十六年に社名を「咋岡神社」と改め、「倉稲魂神」を主祭神としました。

並河誠所の著した『五畿内志』など江戸時代の多くの地誌では式内社「咋岡神社」を当社に比定しています。しかしその根拠ははっきりしません。

社伝のように『延喜式』の編纂された年代よりもかなり下った時代に創建されたと伝えられているため、論社としては飯岡地区に鎮座する「咋岡神社」の方が有力です。

ただ、飯岡地区の咋岡神社は元は普賢寺川と木津川の合流部、草内宮ケ森に鎮座していたと伝えられ、草内村と飯岡村の二ヶ村の氏神だったようです。

同社は永禄八年(1695年)(十五世紀前半の永享年間との説も)に洪水により飯岡の台地の東麓に遷座したと伝えられ、少なくともこの頃までには当社が草内の氏神となっていたと思われます。

飯岡の咋岡神社もかつては当社と同様に菅原道真を祀る天神社であり、もしかしたら草内宮ケ森に鎮座していた頃にそこから当社が勧請されたのかもしれません。

 

境内の様子

境内入口。一の鳥居は北向きに建っています。

 

一の鳥居をくぐった様子。参道は石畳が敷かれ、真新しい灯籠が左右に並びます。

 

途中には古い灯籠(年代不明)もあり、かつての呼称である「天満宮」の銘が刻まれています。

 

参道の途中、左側(東側)に手水舎があります。手水鉢は天保九年(1838年)に奉納されたもの。

 

参道の突き当りで左に折れ、二の鳥居が西向きに建っています。二の鳥居は朱塗りの両部鳥居。

 

咋岡神社

正面に社殿が西向きに並んでいます。

拝殿は瓦葺・平入入母屋造の割拝殿。山城国の北部では舞殿風拝殿が多いですが、南部ではこのように割拝殿が多くなってきます。

 

割拝殿の内部には「升と斗掻き棒」の絵馬が夥しく掲げられています。米寿(八十八歳)を記念して奉納されるもので、手形絵馬と並んで南山城の神社ではよく見られるものです。

 

割拝殿の通路を通り抜けた先にもう一つ拝殿が建っています。銅板葺・妻入入母屋造で向拝の付いたもの。

 

後方には檜皮葺で軒唐破風の付いた一間社春日造の本殿が建っています。江戸時代中期ごろの建立と考えられており、朱などで彩色が施されています。

 

本殿の左側(北側)に二棟の境内社が鎮座しています。

 

本殿のすぐ左側(北側)に西向きに鎮座するのは「若宮八幡宮」。

 

若宮八幡宮の左側(北側)に南向きにある境内社は五社が相殿になっています。

左から「祈雨神社」「八幡神社」「天照皇大神宮」「春日神社」「住吉神社」が祀られています。

 

拝殿前には新旧の牛の石像が配置されています。当社が天満宮だったためのものでしょうが、新しい方は明らかに当社が咋岡神社と改称して以降に奉納されたもの。今でも天満宮として認識されていそうです。

 

道を戻ります。二の鳥居の向かい側に、本社と向かい合うように「稲荷社」が鎮座しています。

 

境内の周囲は水路で囲まれています。

当社の敷地はかつて「草路城」の敷地だったと言われ、この水路は恐らく堀の名残なのでしょう。土塁の跡も残っているようです。

 

タマ姫
咋岡神社って二つあるんだね。どっちが式内社だったんだろう?
こちらは『延喜式』が編纂された後の創建と伝えられてるのが気がかりね。
トヨ姫

 

由緒

案内板

咋岡神社

 

地図

京都府京田辺市草内宮ノ後

 

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