社号 | 伊邪那岐神社 |
読み | いざなぎ |
通称 | |
旧呼称 | 五社明神 等 |
鎮座地 | 奈良県北葛城郡上牧町下牧5丁目 |
旧国郡 | 大和国葛下郡下牧村 |
御祭神 | 伊邪那岐命 / 配祀:天児屋根命、応神天皇、住吉神、倉稲魂命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 7月16日、10月16日 |
伊邪那岐神社の概要
奈良県北葛城郡上牧町下牧5丁目に鎮座する神社です。式内社「伊射奈岐神社」は当社に比定されています。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
かつて東田口(ひがいだぐち)の忍山(しのんやま)と呼ばれる丘陵地に鎮座していましたが、いつの頃か疫病が流行したため現在地に遷座したと言われています。
旧地は東方の滝川を越えて向かい側の片岡台3丁目あたりと言われ、現在は完全に宅地化されています。
江戸時代以前は「五社明神」と呼ばれ、現在も「伊邪那岐命」を主祭神として「天児屋根命」「応神天皇」「住吉神」「倉稲魂命」を配祀しており、五神を祀っています。
当社の鎮座する丘陵地には中世には片岡国春が「片岡城」を築き、その際に春日、八幡の両神を祀ったとも伝えられています。
『延喜式』神名帳を見ると、「イザナギ」と名乗る式内社は大和国に三社、摂津国に一社、伊勢国に一社、若狭国に一社、淡路国に一社、阿波国に一社の計八社があり、畿内とその周辺にまとまって鎮座しています。
イザナギ・イザナミの二神は記紀神話において「国産み」という極めて重大な役目を負っており、さらにイザナギはアマテラス、ツキヨミ、スサノオの「三貴子」の誕生に関わるなど、指折りの重要な神として描かれています。
しかしイザナギ・イザナミの二神は元は淡路島を中心とする海人の信仰したローカルな神で、これが神話に取り入れられたとする説があります。
元はそうした海人が海を離れ、大和国における陸の拠点の一つとして祀ったのが式内社「伊射奈岐神社」だったのかもしれません。
境内の様子
当社は葛下川右岸側(東側)の丘の上に鎮座しています。葛下川の畔から見るとちょっとした丘が南北に続いてる様子がわかります。
JR畠田駅の東方、鼻下橋を渡って丘の上へ続く道を登っていくと、右側(南側)に分岐した道に一対の灯籠が建っています。
これが当社への目印です。
灯籠から南へ道を進んでいくと右側(西側)に当社の境内が見えてきます。
境内周辺はひらすら木々が生えているのみで民家などは無く、全く集落から離れた地です。
境内入口には鳥居が東向きに建っています。
鳥居の手前側には円形に積まれた謎のレンガがあります。配置からして鳥居の基礎のようにも思えますが、レンガを鳥居の基礎とした例は聞いたことが無く、詳細不明。
鳥居をくぐった様子。左右に多数の灯籠が並び、奥の基壇上に社殿が東向きに建つ極めて簡素な境内です。
拝殿前の右側(北側)に手水舎があります。
拝殿は本瓦葺の平入切妻造。
拝殿後方に塀に囲われて銅板葺・一間社流造の本殿が建っています。
本殿は塀の内側でさらに瑞垣で囲われており、手前側に朱鳥居が建っています。朱鳥居と拝殿との間には幣殿らしき屋根も見えます。
当社付近から西方の葛下川沿いの谷を見た様子。決して標高は高くありませんが急激な崖となっています。
当社の北方には十六世紀初頭に片岡氏が築いた「片岡城跡」があります。当地が軍事的な拠点としても重要だったことを示すものです。
後に松永久秀の攻撃を受け信貴山城の支城となりましたが、天正五年(1577年)に松永久秀は謀反を起こし、信長の家臣らによる攻撃を受けて落城したと言われています。
案内板
片岡城跡
由緒
案内板
伊邪那岐神社御由緒略記
地図