式内社
玉列神社の概要
奈良県桜井市慈恩寺に鎮座する式内社で、三輪地区に鎮座する「大神神社」の境外摂社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当社の御祭神「玉列王子(たまつらみこ)神」は記紀などの史料に登場しませんが、「大神神社」の御祭神である大物主大神の御子神とされています。
また『延喜式』内蔵寮の大神祭の夏祭料に「緋帛一丈五尺 玉列王子幣料盛筥一合」とあり、「大神神社」の例祭において当社が幣帛を受けていたことがわかり、古くから大神神社と関係の深かったことが窺えます。
当社は三輪山の南麓に鎮座することから、「大神神社」と同様に三輪山を神体山とし、これを遥拝する為に祭祀したものだったのかもしれません。
六国史には神階昇叙の記録は無く、中世以降の当社の来歴も不詳。江戸時代には「玉椿大明神」と称し、椿の名所だったとも伝えられています。
元々は独立した神社で旧・慈恩寺村の氏神でしたが、明治十年(1877年)には「大神神社」の摂社となっています。その経緯は不詳ながら、恐らく当社の神が大物主神の御子神とされること、および上記の『延喜式』内蔵寮の内容から大神神社との関係が認められて摂社となったのでしょう。
かつて椿の名所だったとされることに因んで現在は境内に多くの椿が植えられており、春先には綺麗な花を咲かせ境内を彩ります。花が見頃となる毎年3月第4日曜日には「椿まつり」が行われ、境内は大いに賑わいます。
境内の様子
当社は三輪山の南麓に鎮座しています。
境内入口には鳥居が南向きに建っています。入口の辺りにはイチョウやカエデなどが聳え、秋には紅葉も楽しめます。
鳥居をくぐった様子。境内は深い森に包まれている一方、石畳の参道の両脇にはまだまだ苗が若いものの椿の木が並んでいます。
鳥居をくぐってすぐ左側(西側)に手水舎が建っています。
参道を進んだ様子。三輪山の麓だけあって高低差のある境内となっており、社殿までは二ヶ所の石段が設けられています。
最初の石段を上って左側(西側)に玉垣に囲まれて「祓戸神社」が東向きに鎮座。社殿は銅板葺の春日見世棚造。
奈良県の大規模な神社では本社参拝前に祓戸神社に参拝して穢れを祓い身を清める風習があり、当社でもそうなのでしょう。
最初の石段の先はやや広い空間となっており、石畳の先、二つ目の石段の上に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造。石段上の狭い空間に窮屈そうに建っています。
内部は土間となっており、参拝者は拝殿の中へ入って参拝することになります。
拝殿の背後には再び石段が伸び、その上に鳥居が建ち、後方に銅板葺・一間社春日造の本殿が建っています。
本殿石段下の右側(東側)、石垣の上に三社の境内社が南向きに建っています。左側から順に次の通り。
- 「愛宕神社」
- 「猿田彦神社」
- 「金山彦神社」
道を戻ります。二つ目の石段下の右傍らに「誕生石」なる岩石があり、注連縄で囲まれています。
案内板には「御祭神玉列王子命に因んで…」とあるものの、どのように因むものかは不明。大物主命の御子神であることに関係しているのでしょうか?
子宝石として信仰を集めるとともに、この石を回りながら「ヘイチョウ カイチョウ…」と三度唱えれば子供が健やかに育つと伝えられています。
案内板
誕生石
また二つ目の石段下の空間の右側(東側)にはこの地域には珍しく舞台が建っています。神事などの際には各種の芸能がここで演じられるのでしょう。
慈恩寺
当社鳥居の右側(東側)に隣接して融通念仏宗の寺院「慈恩寺」があります。
当地の地名の由来であると共に、江戸時代以前は当社の神宮寺ともされてきました。
南北朝の戦乱により荒廃し、現在は本瓦葺・平入寄棟造の阿弥陀堂が一宇残っているのみとなっています。
当寺の本尊である「阿弥陀如来坐像」は十二世紀前半のもので、桜井市指定文化財となっています。
案内板
阿弥陀如来坐像(市指定)
当寺の境内にある巨大なケヤキは外へ大きくせり出した迫力あるもの。樹齢800年ともいわれ、「阿弥陀寺のケヤキ」「雷の落ちた木」とも言われているようです。
由緒
貼紙
大神神社摂社
玉椿大明神
玉列神社のご由緒と椿について
地図
関係する寺社等
大神神社 (奈良県桜井市三輪)
社号 大神神社 読み おおみわ 通称 旧呼称 三輪明神 等 鎮座地 奈良県桜井市三輪 旧国郡 大和国式上郡三輪村 御祭神 大物主大神 社格 式内社、二十二社、大和国一宮、旧官幣大社 例祭 4月9日 式 ...
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