| 社号 | 玉列神社 |
| 読み | たまつら |
| 通称 | |
| 旧呼称 | 玉椿大明神 |
| 鎮座地 | 奈良県桜井市慈恩寺 |
| 旧国郡 | 大和国式上郡慈恩寺村 |
| 御祭神 | 玉列王子神 |
| 社格 | 式内社、大神神社境外摂社 |
| 例祭 | 10月12日 |
玉列神社の概要
奈良県桜井市慈恩寺に鎮座する式内社で、三輪地区に鎮座する「大神神社」の境外摂社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当社の御祭神「玉列王子(たまつらみこ)神」は記紀などの史料に登場しませんが、「大神神社」の御祭神である大物主大神の御子神とされています。
また『延喜式』内蔵寮の大神祭の夏祭料に「緋帛一丈五尺 玉列王子幣料盛筥一合」とあり、「大神神社」の例祭において当社が幣帛を受けていたことがわかり、古くから大神神社と関係の深かったことが窺えます。
当社は三輪山の南麓に鎮座することから、「大神神社」と同様に三輪山を神体山とし、これを遥拝する為に祭祀したものだったのかもしれません。
六国史には神階昇叙の記録は無く、中世以降の当社の来歴も不詳。江戸時代には「玉椿大明神」と称し、椿の名所だったとも伝えられています。
元々は独立した神社で旧・慈恩寺村の氏神でしたが、明治十年(1877年)には「大神神社」の摂社となっています。その経緯は不詳ながら、恐らく当社の神が大物主神の御子神とされること、および上記の『延喜式』内蔵寮の内容から大神神社との関係が認められて摂社となったのでしょう。
かつて椿の名所だったとされることに因んで現在は境内に多くの椿が植えられており、春先には綺麗な花を咲かせ境内を彩ります。花が見頃となる毎年3月第4日曜日には「椿まつり」が行われ、境内は大いに賑わいます。
境内の様子


当社は三輪山の南麓に鎮座しています。
境内入口には鳥居が南向きに建っています。入口の辺りにはイチョウやカエデなどが聳え、秋には紅葉も楽しめます。

鳥居をくぐった様子。境内は深い森に包まれている一方、石畳の参道の両脇にはまだまだ苗が若いものの椿の木が並んでいます。
鳥居をくぐってすぐ左側(西側)に手水舎が建っています。

参道を進んだ様子。三輪山の麓だけあって高低差のある境内となっており、社殿までは二ヶ所の石段が設けられています。

最初の石段を上って左側(西側)に玉垣に囲まれて「祓戸神社」が東向きに鎮座。社殿は銅板葺の春日見世棚造。
奈良県の大規模な神社では本社参拝前に祓戸神社に参拝して穢れを祓い身を清める風習があり、当社でもそうなのでしょう。

最初の石段の先はやや広い空間となっており、石畳の先、二つ目の石段の上に社殿が南向きに並んでいます。

拝殿は桟瓦葺の平入切妻造。石段上の狭い空間に窮屈そうに建っています。
内部は土間となっており、参拝者は拝殿の中へ入って参拝することになります。


拝殿の背後には再び石段が伸び、その上に鳥居が建ち、後方に銅板葺・一間社春日造の本殿が建っています。

本殿石段下の右側(東側)、石垣の上に三社の境内社が南向きに建っています。左側から順に次の通り。
道を戻ります。二つ目の石段下の右傍らに「誕生石」なる岩石があり、注連縄で囲まれています。
案内板には「御祭神玉列王子命に因んで…」とあるものの、どのように因むものかは不明。大物主命の御子神であることに関係しているのでしょうか?
子宝石として信仰を集めるとともに、この石を回りながら「ヘイチョウ カイチョウ…」と三度唱えれば子供が健やかに育つと伝えられています。
案内板
誕生石
+ 開く
古くから「誕生」さんと親しみをもって呼ばれ ご祭神玉列王子命に因んで子宝石として古くから信仰を集めています
また初宮詣の折には この石の周囲を周りながら「ヘイチョウ カイチョウ…」と三度唱えれば元気で健やかな子に育つと云われています
また二つ目の石段下の空間の右側(東側)にはこの地域には珍しく舞台が建っています。神事などの際には各種の芸能がここで演じられるのでしょう。
慈恩寺
当社鳥居の右側(東側)に隣接して融通念仏宗の寺院「慈恩寺」があります。
当地の地名の由来であると共に、江戸時代以前は当社の神宮寺ともされてきました。
南北朝の戦乱により荒廃し、現在は本瓦葺・平入寄棟造の阿弥陀堂が一宇残っているのみとなっています。
当寺の本尊である「阿弥陀如来坐像」は十二世紀前半のもので、桜井市指定文化財となっています。
案内板
阿弥陀如来坐像(市指定)
+ 開く
像高八七cm。檜材の寄木造。漆箔仕上げの像は来迎印をあらわし結跏趺坐する。均整のとれたプロポーション、適度に肉づけを盛る優美温雅な作風は、平安時代後期各地に広まった定朝様の作例のなかでも、正統を継承する遺品である。像本体の製作は十二世紀前半とみられるが、台座・光背及び現在の両脇侍像は後補である。
桜井市教育委員会
当寺の境内にある巨大なケヤキは外へ大きくせり出した迫力あるもの。樹齢800年ともいわれ、「阿弥陀寺のケヤキ」「雷の落ちた木」とも言われているようです。

タマ姫
大神神社の摂社となったのは明治以降だけど、『延喜式』などから古くから関係が深かったことが窺えるわね。

トヨ姫
由緒
貼紙
大神神社摂社
玉椿大明神
玉列神社のご由緒と椿について
+ 開く
当社は万葉人が歌垣をなし、我が国文化発祥の地と名高い海石榴市(つばいち)に程近い桜井市慈恩寺に鎮座する初瀬谷・伊勢街道沿いにおける最古の神社であります。
御祭神は主神を玉列王子神と申し上げ御本社の三輪の大物主大神様の御子神様で、相殿に天照大御神 春日大神をお祀り申し上げております。ご由緒は詳らかではありませんが、大和の国一の宮 三輪明神 大神神社の御神体三輪山麓に鎮まりますことから、朝倉郷(現 慈恩寺)より三輪山を拝する為の南麓拝所として創始されたとも伝えられており、万葉集発耀の地とされる第二十一代 雄略天皇 泊瀬朝倉宮(伝 黒崎・塚本)や仏教公伝の地である第二十九代 欽明天皇 磯城島金刺宮(伝 金屋・外山)等の政事の枢要地が近隣に所在していることからも、当社が往古より当地における重要な祭祀の場であったことが頷けます。記録としては延長五年(九二七年)に成立した延喜式神名帳にその名が記されているものが最古で、御本社の祭祀に併せて「大神祭夏祭料緋帛一丈五尺玉列王子幣帛料盛筥一合」と当社も畏き辺りよりの幣帛を預かっていたことが記されております。このことからもご祭神が国造りの祖神と仰がれる父神 大物主大神のご神徳を受け継がれていたことが覗われ、既にこの頃には当地(朝倉村慈恩寺)における氏神としての崇敬も確立していたものと考えられます。また、現本殿は檜皮葺春日造りで江戸安永年間の建築と伝えられ、拝殿前石段を始め境内の狛犬や石灯籠は江戸時代に慈恩寺郷中より寄進されたものが多く現存していることからも各時代を通じて人々からの崇敬が厚かったことが垣間見えます。
当社の北背に三輪山がひかえ、眼下に三輪川(初瀬川)の流れを望み、南前面に隠口の初瀬谷入口というに相応しく鳥見山や朝倉富士(外鎌山)と相対しております風光明媚な朝倉地区慈恩寺の氏神として地域と共にその歴史を歩んで参りました。万葉の昔よりは当社境内に数々の椿が咲き誇っていたと伝えられており、当社の椿は「玉列のつらつら椿」とも呼称されるようになり、近世江戸時代までは一名を玉椿大明神とも親しまれて参りました。
明治の御維新以降は、祭政一致の精神のもと神社制度の整備が進み、当社は明治四年二「指定村社」と定められましたが、明治十年、前述の三輪大神様との深き御神縁により官幣大社大神神社の「境外摂社」へと移管され現在に至っております。
平成十年秋に奈良県を襲った台風七号は三輪山の山容を著しく変貌させ、当社境内樹木も甚大なる被害が生じました。このことにより当時の地元 慈恩寺地区役員と玉列神社世話人会が主体となり、玉椿大明神とも称せられた往時の姿を今に復興しようと、椿苗の植栽と育成を柱とした景観整備が始まりました。
その後、奉仕の皆様方の日々弛まないご尽力とお世話により苗は順調に成長し、今では花の見頃となる三月下旬より二百種五百本の椿が順次美しい花を咲かせております。
また沢山の方々に御神縁深い椿に親しんで頂こうと平成十五年よりは慈恩寺区 椿まつり実行委員会皆様方のお世話により三月第四日曜日に「椿まつり」を斎行申し上げており、今年平成二十五年は第十一回目を数えます。
午前十一時よりの祭典では椿の翳しをつけた巫女が浦安の舞を優雅に舞いおさめ、神前には椿鉢を奉奠し御神慮をお慰め申し上げます。更に境内では神賑行事として煮麺の振る舞いや椿まんじゅうを始め心尽くしの品の即売が行われるなど、日中の境内は所狭しと賑わいます。
どうぞご参拝の皆様方にはごゆるりと早春爽やかな椿山の境内でお過ごし頂きまして、玉列大神様の広大無辺の御神徳を頂かれ、ご平安とご健勝をお祈り申し上げます。
玉列神社社務所
ご参拝者各位様
地図
奈良県桜井市慈恩寺
関係する寺社等
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大神神社 (奈良県桜井市三輪)
社号 大神神社 読み おおみわ 通称 旧呼称 三輪明神 等 鎮座地 奈良県桜井市三輪 旧国郡 大和国式上郡三輪村 御祭神 大物主大神 社格 式内社、二十二社、大和国一宮、旧官幣大社 例祭 4月9日 式 ...
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