社号 | 山邊御縣坐神社 |
読み | やまべみあがたにます |
通称 | |
旧呼称 | 白山大権現 等 |
鎮座地 | 奈良県天理市西井戸堂町 |
旧国郡 | 大和国山辺郡西井戸堂村 |
御祭神 | 建麻利尼命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月15日 |
山邊御縣坐神社の概要
奈良県天理市別所町に鎮座する神社です。別所町に鎮座する同名の「山邊御縣坐神社」と共に式内社「山邊御縣坐神社」の論社となっています。
式内社「山邊御縣坐神社」は『延喜式』神名帳に大社に列せられており、古くは有力な神社だったようです。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、かつて大和国にあった六ヶ所の朝廷の直轄地「倭の六県」(高市県、葛木県、十市県、志貴県、山辺県、曽布県)の一つ「山辺県」の守護神として祀られたものと考えられます。
これら「倭の六県」は『延喜式』祝詞に見え、蔬菜類を栽培し献上するための農園のような地だったことがわかります。
式内社「山邊御縣坐神社」について、天平二年(730年)の『大和国正税帳』や大同元年(806年)の『新抄格勅符抄』にも記載されており、八世紀には存在していたことが確かめられます。
その後『三代実録』貞観元年(859年)正月二十七日の条に従五位上を授かったことが見えますが、これ以降は記録に現れず所在も不明となったようです。
江戸時代中期の地誌『大和志』は式内社「山邊御縣坐神社」を当社に比定する一方、大正三年(1914年)刊行の地誌『大和志料』は現在の別所町に鎮座する「山邊御縣坐神社」に比定しています。
いずれも根拠は全く不明で、いずれが式内社であるか、また或いはどちらでもない他の神社がそうであるのかを決めることは極めて困難なのが現状です。
現在の当社の御祭神は「建麻利尼(タケマリネ)命」です。この神は物部系の史書『先代旧事本紀』にニギハヤヒの六世孫として登場し、「石作連」「桑田連」「山辺県主」らの祖であると記されています。この内、「山辺県主」を当社の奉斎氏族としてその祖を祀ったと見たものでしょう。
御県の多くはそれらを管理したと思しき「県主」が知られており、この「山辺県主」も恐らくそうした氏族だったのでしょう。ただ、この氏族は記紀や『新撰姓氏録』などの資料に登場せず、実態は詳らかでありません。
多くの「○○御県坐神社」は当該の「県主」の祖神を御祭神としていますが、一方で御県が蔬菜類を栽培した農園のような地であったことから、食物神であるトヨウケヒメを祀るとする説もあります。
一方、江戸時代以前の当社は「白山大権現」と称する白山信仰の神社でした。
当社はかつてあった「植福山妙観寺」と境内を共有し、当社の神宮寺、もしくは当社が同寺の鎮守社といった関係だったと考えられます。
妙観寺は長谷寺小池坊の末寺だったといい、かつては多くの伽藍を備えた大寺院だったようですが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり現在は観音堂が残っているのみとなっています。
観音堂の本尊は平安時代後期の作と推定される十一面観音立像で、国指定重要文化財となっています。
長谷寺もまた十一面観音を本尊としていますが、長谷寺のそれは錫杖を持ついわゆる「長谷寺式」であるのに対し当寺の本尊は錫杖を持っていません。当寺の仏像は天平時代の塑像を元にしていることもあり、長谷寺との関係よりも、白山大権現の本地仏として信仰されたのかもしれません。
また藤原道長の日記である『御堂関白記』の寛弘四年(1007年)八月六日の条に、藤原道長が金峯山詣での途次に「井外堂」に一泊したとあります。この「井外堂」とは当地「井戸堂」であり、妙観寺もしくはその前身の寺院に宿泊したのではないかと考えられます。
周囲にはいくつかの井戸があるといい、これらが「井戸堂」の由来となったと共に、或いは『万葉集』に登場する「山辺の御井」ではないかとする説もあるようです(ただし「山辺の御井」は他にも候補地が多数あり)。
また周辺には「アカタ」「ミクリ」「三宅」等の小字があるようで、こうした地名は当地に山辺県のあった名残ではないかとする説も唱えられています。
境内の様子
当社は西井戸堂(ニシイドウドウ)町の集落の中に鎮座しています。
境内の南西端に入口があり、鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。鳥居からまっすぐ奥へ突き進んだところに「観音堂」(後述)が南向きに建ち、その手前右側(東側)に当社の社殿が西向きに並んでいます。
このような配置を見れば観音堂がこの空間で最も主要な施設であるように感じられます。かつては妙観寺が「主」で当社が「従」の関係だったのかもしれません。
なお、当サイトではこのように神社と寺院が同じ境内を共有し、それぞれの向きが直交するような配置を「直交型」と分類しています。当社はその典型例ですが、鳥居をくぐって正面に神社でなく寺院があるのはやはり異例と言えます。
参道途中の右側(東側)には手水鉢が配置されています。
上述したように、参道を進んで右側に当社の社殿が西向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入切妻造で、銅板葺の唐破風が付いています。比較的新しい建築。
拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製の新しいものです。恐らく社殿と共に更新されたものでしょう。
拝殿後方の石垣上、玉垣に囲まれて銅板葺・一間社流造に千鳥破風と軒唐破風の付いた本殿が建っています。
本殿の正面には鳥居が建ち、さらにその左右に一社ずつ境内社が鎮座しています。
境内社は外から殆ど見えないものの、資料によれば当社の境内社に「春日神社」と「厳島神社」があるといい、恐らく両社はこれに当たるものと思われます。
本殿の建つ石垣の手前にも狛犬が配置されています。砂岩製で、基壇には嘉永四年(1851年)の銘が刻まれています。
狛犬の傍らには当社のかつての呼称である「白山大権現」と刻まれた灯籠が建ち、さらに右側(南側)の狛犬の傍らには境内社も見えます。
先の二社以外に境内社があるとの情報は無く、この境内社についての詳細は全く不明。社殿は銅板葺の春日見世棚造。
本社社殿と相対するように万葉歌碑が建っています。『万葉集』巻一-78「飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば 君が辺りは見えずかもあらむ」の歌が刻まれています。
これは和銅三年(710年)の平城京遷都の際、元明天皇が旧都である藤原京や飛鳥の里を偲んで詠んだ歌で、これを詠んだ場所である「長屋原」は当地付近とされています。
案内板
御案内
植福山妙観寺(観音堂)
上述のように、参道を真っすぐ進んだ先に「観音堂」が建っています。
本瓦葺の平入寄棟造で向拝の付いたもの。
本尊は像高244.8cmにもなる「十一面観音立像」。平安時代後期の作と推定され、天平時代の塑像の心木を用いている点が極めて珍しく、国指定重要文化財となっています。
なおこの観音堂はかつて「植福山妙観寺」と称する寺院で、長谷寺小池坊の末寺でしたが、明治年間に廃寺となっています。
案内板
井戸堂の十一面観音(重要文化財)
案内板
井戸堂の十一面観音像
観音堂の周辺には梵字を刻んだ石碑や石仏など多くの石造物が配置されています。
由緒
案内板
山辺御縣坐神社
地図
関係する寺社等
山辺御県坐神社 (奈良県天理市別所町)
社号 山邊御縣坐神社 読み やまべみあがたにます 通称 旧呼称 玉垣宮 等 鎮座地 奈良県天理市別所町 旧国郡 大和国山辺郡別所村 御祭神 建麻利尼命 社格 式内社、旧村社 例祭 10月1日 式内社 ...
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