社号 | 一須何神社 |
読み | いちすか |
通称 | |
旧呼称 | 天神、市河明神 等 |
鎮座地 | 大阪府南河内郡河南町一須賀 |
旧国郡 | 河内国石川郡一須賀村 |
御祭神 | 大己貴命、天照大神、天児屋根命、品陀和気命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月第3土曜日 |
式内社
一須何神社の概要
大阪府河南町一須賀に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当地は蘇我氏の末裔である「石川氏」の本拠地とされ、一説に彼らが祖廟として「蘇我石川宿禰」を祀ったとも言われています。
またさらには当地こそが「蘇我氏」宗家の本貫であるとする説もあります。
蘇我氏は著名な氏族でありながら本貫がはっきりしておらず、諸説を大きく分けると
- 河内国石川郡(当地付近)とする説
- 大和国高市郡(奈良県橿原市曽我町付近 / 「宗我坐宗我都比古神社」が鎮座)とする説
- 大和国葛上郡(奈良県御所市付近)とする説
の三説があり、特に1.は『三代実録』元慶元年(877年)十二月二十七日条に、蘇我氏の始祖たる宗(蘇)我石川は河内国石川の“別業”に生まれたので石川を名としたと記されているため特に有力です。
ただし、ここにある「別業」とは本拠地とは別の地を意味するとする反論もあり、この記事を以て河内国石川郡が本貫だとまでは断定できません。
とはいえ当地が蘇我氏およびその後裔氏族の拠点の一つだったことは事実だったと見られ、当社が彼らによって奉斎されたことは十分考えられます。
一方、当地から東方の丘陵にかけて六世紀前半~七世紀中頃の極めて大規模な群集墳「一須賀古墳群」があり、数多くの古墳が築かれています。
どのような人々が葬られたのかは定かではありませんが、或いは当社と関係があるのかもしれません。少なくともこの辺り一帯は死者の世界と見なされた時代があったようです。
その後、南北朝時代には源義時を祖を祖とする「石川源氏」の本拠地となり、当社の社地も城塞に利用されたと言われています。
江戸時代には「天神」もしくは「市河明神」と称し、本来の信仰と共に社名とも失われたようですが、「イチスカ(もしくはイスカ)」の名は地名として存続していました。
明治四十年(1907年)に当社に合祀した「降幡神社」は大伴氏の祖神を祀っており、国史現在社となっています。(詳細は当該記事参照)
境内の様子
境内入口。境内は玉垣で囲われており、入口から少し進んだところに鳥居が南向きに建っています。
境内は南北方向に長く、そう広くはありません。
鳥居をくぐった先に配置されている狛犬。砂岩製です。
さらに境内を奥へ進むと、正面に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造に妻入切妻造の向拝の付いたもの。
拝殿前にも一対の狛犬が配置されています。こちらも砂岩製で、こちらの方がやや新しい印象。
見えにくいものの、拝殿の後方に鳥居が建ち、その奥に中門と玉垣に囲まれて本殿が建っています。
案内板には当社本殿は檜皮葺の春日造とありましたが、見る限りでは銅板葺で唐破風と千鳥破風の付いた流造です。
本社社殿右側(東側)に建つ境内社。社名は不明ながらエビス像が配置されておりエビス系の神を祀っているようです。
妻入切妻造の覆屋に祠が納められています。
本社社殿前の右側(東側)にも境内への出入口となる鳥居があり、手水舎はこちらに設置してあります。
境内にあった謎の石柱。賽ノ神的なものでしょうか。
当地から東方の丘陵にかけて「一須賀古墳群」があります。262基にも及ぶ大規模な古墳群で、六世紀前半~七世紀中頃のものとされています。
露出した横穴式石室があちこちにあり、異様な雰囲気を感じる一帯となっています。
由緒
案内板
延喜式式内社 壱須何神社
『河内名所図会』
地図
関係する寺社等
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