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美具久留御魂神社 (大阪府富田林市宮町)

更新日:

社号 美具久留御魂神社
読み みぐくるみたま
通称
旧呼称 下水分社、和邇社、二の宮、石川郡総社 他
鎮座地 大阪府富田林市宮町
旧国郡 河内国石川郡喜志村
御祭神 美具久留御魂大神(大国主命)
社格 式内社、旧郷社
例祭 10月第3金曜日

 

美具久留御魂神社の概要

大阪府富田林市宮町に鎮座する式内社です。

社伝によれば、崇神天皇十年、この地に大蛇が出没して土地の人を悩ませたので、天皇はこれを大国主命の荒御魂の荒ぶるためとして、よく祀るよう命じたのが創建とされています。

『日本書紀』に崇神天皇六十年、丹波国氷上郡の氷香戸辺という者の子に神憑りがあったとあり(内容は下記「由緒」参照)、これに従って天皇は直ちに活目入彦命(後の垂仁天皇)を遣わせて祀らせ、「美具久留御魂神社」の号を称えたと言われています。

建水分神社が上水分社と呼ばれるのに対し、当社は下水分社と呼ばれました。また当社は和邇社とも呼ばれ、水と関係の深い神社であることは明らかです。社名の「美具久留(みぐくる)」とは「水潜る」の意で、神の御魂が水を潜って来られたことを指すとも考えられます。建水分神社と共に、或いは大祁於賀美神社も含めて、南河内における水流を司っていたのかもしれません。

一方で三輪山を神体山とし蛇神を祀っている大和の大神神社と比べてみるとまた別の一面が見えてきます。美具久留御魂神社では背後に聳える山を「眞名井ヶ原」と称して神体山としています。また先述の通り社伝では大蛇が出没したのは大国主命の荒魂のためだと伝えられており、大国主命が龍蛇の類と関係があることを示しています。当社は大国主命の荒御魂だと言われているのに対し、大神神社では大国主命の和御魂を祀っており、両社は二上山を挟んで互いに向き合っているようにも見えます。こうして見てみると両社は無関係と思えず、両社の祭祀氏族は蛇神を信仰する同じ出雲系の集団から分かれたものではなかったかとも疑われます。

いずれにせよ当社は龍蛇の類である水神的な神として祀られてきたようです。平安時代以来11坊にも及ぶ壮大な神宮寺も築かれたものの、戦国時代の兵火により長らく荒廃。それ以後神宮寺は再建されませんでしたが、神社は江戸時代に立派な社殿が造営されて再興し、南河内でも有力な神社として根強い崇敬を集め今日に至っています。

 

境内の様子

境内入口。背後の山は「眞名井ヶ原」と呼ばれる神体山で、聖域となっています。

 

鳥居をくぐると右側に手水舎があります。元禄六年(1693年)に奉納された手水鉢には「水分宮」と刻まれています。

 

参道の正面に建っているこちらの建物は割拝殿となっており、案内図では下拝殿とありました。鈴の緒と賽銭箱が設けられてあり、斜面上の本殿前まで行かずとも参拝できるようになっています。

 

下拝殿を通り抜けると長~く続く石段が。足腰の弱いお年寄りには厳しいかもしれませんね。石段下に拝殿が築かれてるのも宜なるかな。

 

石段下の狛犬。目に厳めしさを感じます。

 

鬱蒼とした森に伸びる石段をひたすら上っていきます。

 

石段の上に東向きの社殿が建っています。本殿前の拝殿は案内図では上拝殿となっています。唐破風付き平入の切妻造で、壁や床がなく、開放感のある建築。『河内名所図会』の挿絵ではこの区画には何もありません。

 

本殿は千鳥破風と唐破風の付いた三間社流造。真新しい建築です。

 

本殿の左側には「南木神社」、その隣に「熊野神社・貴平神社」が鎮座しています。

 

本殿の右側には「皇大神社」、その隣には「天満宮」が鎮座。

 

さらに天満宮の右隣に式内社の「利雁神社」が鎮座しています。「保食神」「品陀別命」「天児屋根命」を祀っています。元は羽曳野市尺度に鎮座していたのを明治四十年に当社に遷座されました。なお、尺度には現在も利雁神社が鎮座しており、恐らく遷座後に復興されたものと思われます。

 

社殿の右側(北側)の空間には「白雲宮」が鎮座。

 

さらに境内の北側奥深くに「支子稲荷神社」が鎮座しています。「支子」でキシと読みます。

 

背後の神体山「眞名井ヶ原」へは登れるようになっています。鬱蒼とした森となっており、頂上には前期古墳の「美具久留御魂神社裏山古墳群」があります。前方後円墳である1号墳の後円部には「奥神籬」と刻まれた石碑が建っていて、注連で囲われた古墳上が聖域となっているようです。

案内板「美具久留御魂神社裏山古墳群 第1号墳」

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美具久留御魂神社裏山古墳群 第1号墳

この古墳は、美具久留御魂神社の裏山に位置する4基からなる古墳群の1つである。前方部が南に面する前方後円墳で、全長約58m、前方部の長さ約28m、前方部の幅約24m、後円部径30mの規模をもつ。封土は一部削平されているが、後円部は2段築成であったと思われる。

測量時には葺石などの外護施設は認められなかったが、後円部斜面から円筒埴輪片と朝顔形埴輪片を採集している。また1930年頃に銅鏡1面がこの古墳付近から出土したと伝えられている。この付近一帯には北方に鍋塚古墳、南方に真名井古墳などの前期古墳が存在することから、この1号墳も同時期に築造されたものと思われる。

 

境内には南北朝時代の歌人である嘉喜門院の廟所とされる祠があります。後村上天皇の女御であり、長慶天皇の母でもあると考えられています。

 

境内には他にも社名のわからない境内社も。

 

上を見れば鬱蒼とした木々、下を見れば色鮮やかな苔。境内は辺り一面が緑に包まれた爽やかな空間となっています。境内の斜面は古めかしい石垣が積まれ、風情を醸し出しています。

 

鳥居越しに見る二上山。この向こうでは大国主命の和御魂である大物主命を祀る大神神社がこちらを向いています。大和と河内の境を挟んで大国主命の和御魂と荒御魂が向き合っていることを思うと壮大な信仰空間が広がっているようにも思えます。

 

風薫る初夏の境内。神の世界というべき下拝殿の向こうは一面緑の世界でしたが、人間の世界との境界にあたる参道では色鮮やかな花があちこちに咲き乱れていました。

 

御朱印

 

由緒

案内板「美具久留御魂神社」

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美具久留御魂神社

当社は大国主命を主神とし、左に天水分神・弥都波廼売命、右に国水分神・須勢理比売命を祭る。

社伝によれは、第10代崇神天皇の10年、支子(きし)の森からしばしば大蛇が現れて農民を悩ました。天皇は自ら視察して「こは大国主命の荒御魂の荒ぶなり宜しく祭るべし」と言ったという。ところが同62年、丹液の国氷上都の氷香戸辺という者の子供が神がかりして「玉(艸妾)鎮石(たまものしずし)出雲人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)押羽振甘美御神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)山河之水泳御魂(やまがわのみくくるみたま)静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ)底宝御宝主也(そこたからみたからぬしなり)」という神託があり(日本書紀)、天皇は直ちに皇太子活目尊を遺わして当社を祭らせたといわれている。

以後歴代天皇の崇敬厚く、中でも文徳天皇は嘉祥3(850)年に神階従五位上を特授し、延喜式には五川郡(※原文ママ)九社のうちに列記された。また河内二の宮、石川郡総社とも称された。楠正成は上水分社と共に当下水分社を崇敬し、神領寄進や社殿造営を行っている。一方、平安末頃から神宮寺が神域に建立され、一度は兵火に遭いながらも復輿し、室町末には下之坊をはじめとして11坊を擁する神仏の霊地となっていたが、天正13(1585)年に、豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火に焼かれ、神宮寺は再び建つことはなかった。万治3(1660)年に、75年ぶりに社殿の造営がなり社頭はほほ旧に復した。その後200年間は僅かに民間の信仰によって社頭を支えていたが、明治時代に入り、近郷五箇町村の氏神として郷社に列せられ、現在に至っている。

案内板「美具久留御魂神社略記」

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美具久留御魂神社略記

祭神

美具久留御魂大神(大國主神荒御魂神)

創建の由緒

崇神天皇の十年この地に五彩の巨蛇が現れて農民を悩ましたので、天皇は親しく妖蛇の巣窟を見られ「大國主神の荒御魂の荒振るなり宜しく祀るべし」と仰せられて、祀らしめられた。その後、同天皇の六十年丹波国氷上の人氷香戸辺の小児に「玉(艸妾)鎮石(たまものしずし)出雲人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)押羽振甘美御神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)山河之水泳御魂(やまがわのみくくるみたま)静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)」という神託があった。天皇はそれをお聞きになって皇太子活目入彦命を遣わして 河内国支子(きし)に祀らせ美具久留御魂神社と御名を称えまつられたのである。

沿革

当神社は歴代朝廷のご崇敬厚く、文徳天皇の嘉祥三年に神階従五位上を特受せられ、光孝天皇は河内大社の勅額を奉られた。

また延喜式には官幣社に列せられ当国二の宮石川郡総社とも称された。

南北朝時代には南朝歴代のご信仰厚く楠氏も上水分社とともに当神社を氏神として尊信したので、兵乱の間にも朝廷は神領をよせられあるいは社殿の造営を仰せくだされたりして御代の安泰を祈られたのであった。創建年歴は詳らかではないが平安朝末期には既に神域に幾つかの神宮寺があり、香煙社檀にたなびき誦経の声神山にこだましてまことに神仏感応の霊地となったが、鎌倉方の千早赤阪城攻めに西條城(喜志)と共に焼き払われ、再建されるも天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の根来寺攻めのとき、当社もその兵火により千古の重宝は穀舎堂塔とともに悉く烏有に帰した。その後豊臣秀頼の寄進により社殿は再建されたが、昔日のごとくではなかった。以後江戸時代三百年の間は僅かに民間信仰によって社頭を支えていたのである。

明治維新以後は近郷六箇村の氏神として現在に及んでいる。

由緒書「美具久留御魂神社略記」

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美具久留御魂神社略記

祭神

美具久留御魂の大神と申し上げ、大国主神の荒御魂である。

創建の御由緒

崇神天皇(人皇第十代)の十年この地に五彩の巨蛇が現れて農民を悩ましたので天皇は親しく妖蛇の巣窟を見られ「これ大国主神の荒御魂の荒ぶなり宜しく祀るべし」と仰せられてまつらしめられた。(社伝)

その後同天皇の六十年、丹波の国氷上の人氷香戸辺の小児に「玉(艸意)鎮石(たまものしずし)出雲人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)押羽振甘美御神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)山河之水泳御魂(やまがわのみくくるみたま)静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬしなり)也」という神託があった。天皇はそれをお聞きになって、皇太子活目命をつかわし(日本書紀)河内国支子に祭らせ、美具久留御魂神社と御名を称えまつられたのである。(社伝)

沿革

当神社は歴代朝廷の御崇敬厚く、文武・元明両帝の御時には、しばしば奉幣され(社伝)、文徳天皇の嘉祥三年には神階従五位上を特授せられ(文徳実録)、光孝天皇は河内大社の勅額を奉られた(社伝)。また、延喜式には石川郡九座のうちの一座として記載せられ(延喜式)、当国二の宮、石川郡総社とも称せられた(社伝)。平安朝の頃河原の左大臣源融公が社頭に奉幣されたとき、祭檀をかすめてほととぎすが鳴き大宮人をして詠嘆措かしめなかったという。往昔の神域は霊威ただならぬものであったことを知るのである(社伝)。

南北朝時代には南朝御歴代の御信仰厚くまた楠氏は上水分社とともに当神社を氏神として尊信したので、兵乱の間にも朝廷は、あるいは神領をよせられ、あるいは社殿の造営を仰せくだされたりなどして、御代を祈られたのであった(延元年中の社殿の棟札)(楠氏系図社伝)。また、創建年歴は詳らかでないが、平安朝の末期には既に神域に幾つかの神宮寺があり(古瓦出土)、天正の頃には十一坊に及び(河内国下水分大明神記録)香煙社檀にたなびき、誦経の声神山にこだまして、まことに神仏感応の霊地となり、織田信長麾下の将、柴田勝家・佐久間信盛らの岸寺宛禁制によって保護されていた。信長なきあと、豊臣秀吉は配下の伊藤加賀守に命じ、天下泰平の祈祷料として田地一反うぃ寄進させ、厚い崇敬の意を示した。しかし根来寺への大攻勢が開始されるや当寺もその兵火は免れ得ず、天正三年三月、千古の重宝は殿舎堂塔とともにことごとく烏有に帰した。神宮寺は根来寺に属していて、社領六百三十石、実収二万石という経済力と東西六町南北八町に及んだ大きな境内には根来寺の威を借る僧たちもいたようで、いきおい徹底的な弾圧を受けることとなり以来神宮寺は遂に再び建たなかった。

豊臣秀頼は社僧をして般若心経百巻と神咒一千遍を修せしめて武運の長久を祈っ(社伝)て以来社殿の復興は緒につき万治三年七月中旬拝殿の造立を以って社頭はほぼ旧に復したのであった。(河内国下水分大明神記録・棟札)以後三百年間は僅かに民間の信仰によって社頭を支えていたのである。

明治維新以後は近郷五箇町村の氏神として郷社の社格を与えられていたが敗戦と共に神社本庁所属となり現今に及んでいる。

御神徳

当社の古縁起によれば

「(前略)夫婦いもせの守神にして(中略)…子孫相続、、五穀と万宝をうる事此神の徳なり云々…」と古来出雲大社・三輪明神とともに病気の平癒や縁結びに祈願をかける人多く、また一切の生業の守護神として信仰をささげ、その御霊徳を称えられている。

江戸時代、江戸の豪商春日屋治兵衛なる人が大願成就の奉賽にささげた石灯籠は今も毎夜一灯をかかげて永遠をみつめ給う神のまたたきのように、静かな神域をてらしている。また大阪・堺などの商家の信仰厚くその寄進した石灯籠などは枚挙にいとまがない。

現在は当社の特別修法により、難病治癒・諸願成就を祈願した茶碗を授けている。

末社の歯神さまは広く近郷に知られている。

後の南朝と当社

南朝の皇孫尊秀王の王子北山宮以後歴代は当神宮寺下之坊に身をよせてひそかに回天の時運を待たれたが、忠裕王薨去の後は遂に南朝の御あとをたたれたのであった(古記録下之坊秘系)。今も境内の接続地に天王畑という名称が残り(下之坊書院の跡)、鍋塚墓地の奥深くに苔むしている忠尊王の御墓とともに吉野朝哀史の最終編を物語っている。

境内

宮町の森一万余坪は古柏老末鬱然として緑をたたえ、青苔滑らかな幽寂の境をなしている。また、つつじの名所として古来名高い。

伝説の佳人花笠の内侍の涙だれの梅も念仏山の松蔭に残っている。

御奈良院天皇御製
なみだれのさめざめとのみ思ひ寝の夢のうつつの暁の空

梁川星巌
殿若幽々絶世塵 山明水浄紫烟新 誰言支子天然景 月色花光亦有神

魁春洞に泊りて   摂政関白藤原冬経
年ふるき支子の茅原のつつ井筒よ深き月に汲む人や誰れ

読人不知
山賊のたく火のかげと見えるつは支子のみ山のつつじ咲くなり

参詣の順路

近鉄あべの橋駅から河内長野行きに乗車、喜志駅下車〇・七キロ。所要時間、あべの橋、喜志間三十五分。

『河内名所図会』

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美具久留御玉神社

喜志村和邇池の西にあり。一名和爾神社。今下水分の神社と称す。例祭六月十五日 十一月十八日。近村六箇村の生土神なり。嘉祥三月(※原文ママ)十二月授従五位上。

 

地図

大阪府富田林市宮町

 

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