社号 | 波多神社 |
読み | はた |
通称 | |
旧呼称 | 鳥取大宮 等 |
鎮座地 | 大阪府阪南市石田 |
旧国郡 | 和泉国日根郡石田村 |
御祭神 | 角凝命、応神天皇 |
社格 | 式内社、旧府社 |
例祭 | 4月15日 |
式内社
波多神社の概要
大阪府阪南市石田に鎮座する式内社です。
当社は当地付近の広い範囲を指した「鳥取郷」の総氏神とされています。『倭名類聚抄』和泉国日根郡にも「鳥取郷」の記載があり、古い地名です。
当社は当地に居住した氏族「鳥取氏」が祖神を祀ったのが創建とされており、関連する氏族として『新撰姓氏録』に次の氏族が登載されています。
- 右京神別「鳥取造」(角凝魂命の三世孫、天湯河桁命の後)
- 山城国神別「鳥取造」(天角己利命三世孫、天湯河板挙命の後)
- 河内国神別「鳥取」(同神(角凝魂命)三世孫、天湯河桁命の後)
- 和泉国神別「鳥取」(角凝命三世孫、天湯河桁命の後)
これらの内、和泉国に居住していた氏族が当社を奉斎したと考えられます。
河内国大県郡には同じく鳥取氏が奉斎したと考えられる式内社「天湯川田神社」(柏原市高井田に鎮座)があり、当社と共に畿内における鳥取氏の重要な拠点だったことが想定されます。
鳥取氏の祖である「アメノユカワタナ(天湯河桁 / 天湯河板挙)」について、『日本書紀』垂仁天皇二十三年条では次のような描写が記されています。
『日本書紀』(大意)
垂仁天皇の御子、誉津別命は三十歳になっても喋ることができないでおり、天皇は大変案じていたが、ある日誉津別命が白鳥を見かけると「あれは何だ」と言葉を発した。喜んだ天皇はこの鳥を捕まえるよう命じ、名乗り出た天湯河板挙が出雲で(或いは但馬で)その鳥を捕まえた。その鳥を献じて誉津別命に遊ばせたところ遂に言葉を得られ、天皇はこれを賞して天湯河板挙に鳥取造の姓を賜い、また鳥取部・鳥飼部・誉津部を定めた。
なお『古事記』では誉津別命はこの時点ではまだ言葉を発するようにならず、出雲の神の祟りとして神殿を建てて参拝するなどの一悶着ありますが、当記事では詳細は省略します。
このアメノユカワタナという人物について、これまで多くの学者がその役割を解明しようと試みてきました。
折口信夫は有名な「水の女」の論考において、水を浴びて心身を若返らせる行為を「禊」とし、その水を「湯」、その湯を浴びるための場所を「ゆかはたな」と呼んだと説き、アメノユカワタナに白鳥を追いつつ禊を行う人物像を想定しています。
一方で谷川健一は「湯」とは溶鉱炉で溶かした金属のことで、金属の精錬に関する人物だと説いています。
当地付近には「菟砥川」が流れていますが、『日本書紀』垂仁天皇三十九年十月条では天皇の皇子である五十瓊敷命が菟砥河上で大刀一千口を作らせたとあり、示唆深いところです。
一方で当社は「八幡宮」を併せ祀っており、社伝によれば、神功皇后が三韓征伐の帰途、船を鳥取の玉津に繋ぎ、武内宿禰が皇子を抱いて海岸に遊んだのでその地に社を建てたとされています。
その地は貝掛地区の指出森で、今もその地に「指出森神社」が鎮座しています。
また社伝によれば「波多神社」は元々は南方の桑畑地区に鎮座していましたが、いつの頃か兵火に罹り、社殿を現在の地に遷して指出森から応神天皇の神霊を迎えて相殿に祀ったと伝えられています。
このように遷座や一時の衰退があったものの、鳥取郷における格式ある神社として今日に至っています。
なお、波多神社の社名は波多氏には関係なく、桑畑の「畑」に因むと伝えられているようです。やはり「鳥取氏」の神社ということなのでしょう。
境内の様子
境内入口。石田交差点から北向きの参道が延びており、鬱蒼とした社叢もよく目立ちます。
参道は途中で直角に右側(東側)へ折れ、その地点に鳥居が東向きに建っています。
鳥居の手前に謎の横長の石造物が設置されていました。これは何だろうと思ってたところ、参拝客が参拝の際にこの石造物の前に立って一礼するのを多く見かけました。
そのための石造物なのかは不明ながらも、地元ではそのような作法が定着しているようです。
鳥居脇に配置されている狛犬。比較的新しいもので、花崗岩製の優美な狛犬です。
鳥居をくぐると再び長い参道が続きます。
参道途中の狛犬たち。こちらはやや古いもので和泉砂岩製です。和泉砂岩は古くは和泉石と呼ばれました。
近隣の箱作地区では古くから石材加工が盛んで、箱作の地名は古墳時代に石棺を加工したことから名付けられたとも言われています。
江戸時代にも石材加工の技術は受け継がれ、『和泉名所図会』に箱作で狛犬や灯籠、石臼等を製作している挿絵が描かれています。
これらの狛犬も恐らく箱作で作られたのでしょう。
参道の先の右側(北側)に手水舎が建っています。
手水舎の右側(東側)に隣接して「門神社」が南向きに鎮座。御祭神は「豊磐門戸命」「櫛磐門戸命」。当社の随身的なポジションの神社です。
社殿は銅板葺の一間社流造。
参道の先、石段の上の空間に社殿が建っているのが見えます。
そしてその手前、石段の左側(南側)には、この地域には珍しい舞殿が建っています。舞殿は銅板葺の入母屋造。
奥に建ち並ぶ社殿は東向き。
拝殿は複雑な建築です。全体的に銅板葺で、平入切妻造の中央に唐破風が載っており、屋根は左右に分断されています。そしてさらにその上に縁を廻らし、楼閣のような平入の切妻屋根が載っています。かなり斬新な様式だと言えるのではないでしょうか。
一方で本殿、及び隣接する境内社「三神社」(祭神は「天湯河板擧」「神功皇后」「武内宿禰」)の社殿は古く、いずれも寛永十五年(1638年)に建立された貴重な建築で国指定重要文化財となっています。
ただ、残念ながら拝見することはできません。資料によればいずれも三間社流造のようです。
拝殿前の狛犬。こちらも和泉砂岩製でしょうか。かなりゴツゴツとした印象です。
拝殿前の灯籠には慶長五年(1600年)の紀年名があり、片桐且元が寄進したと伝えられています。
特に文化財指定はされていないようですが、灯籠としては比較的古く貴重なものです。
社殿前の右側(北側)に「長床(ながとこ)」状の建築があります。
長床とは修験道にゆかりの深い寺社に見られる床を張った開放的な建築のことで、行者がそこで休憩したり術を披露したりするための建物です。
しかし当社が修験道と関わりがあった痕跡は特に見当たりません。どちらかといえば、南山城や大和で見られる神事の詰所である「座小屋」に近いものかもしれません。
また絵馬が掲げられていることから絵馬堂としての機能も併せ持っているようです。
なお、阪南市ウェブサイトではこの建物を「庁屋」と記しています。
境内の森は鬱蒼としており、貴重な森を形成しています。
中には横に倒れた幹から垂直に幹状の枝が延びる不思議な木もありました。
一旦参道を戻ります。参道途中の右側(北側)に「厳島神社」が南向きに鎮座。御祭神は「市杵嶋比売命」「国常立命」。
鳥居と拝所が建ち、奥の池にある島に銅板葺の一間社流造の社殿が建っています。
本社参道の左側(南側)にももう一つ参道があり、この奥に境内社が二社並立して東向きに鎮座しています。なお、参拝時は工事中だったので上手い写真は撮れませんでした。
この二社はそれぞれ鳥居が建つものの拝殿を共有しており、平入入母屋造の左右それぞれに妻入入母屋造の向拝が設けられ、それぞれの拝所となっています。
この二社の内、右側(北側)に鎮座するのは「鳥取神社」。御祭神は「天忍穂耳命」。
拝殿奥に銅板葺の一間社(隅木入?)春日造の本殿が建っています。
元々は山中渓の宿場に祀られていた「山中神社」で、往時は山越えする人が健脚を祈願し、今も「足神さん」と呼ばれているようです。
左側(南側)に鎮座するのは「鳥取戎社」。御祭神は「八重事代主命」。
拝殿の奥に銅板葺の一間社流造の本殿が建っています。参拝時は工事中の為「仮本殿」と記された札が立っていました。
風薫る五月の参拝。和泉五社にも引けを取らない立派な神社で、実に爽やかな境内でした。
由緒
案内板
波多神社
案内板
重要文化財 波多神社 本殿 末社三神社本殿
『和泉名所図会』
地図
関係する寺社等
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