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志貴県主神社 (大阪府藤井寺市惣社)

社号志貴県主神社
読みしきあがたぬし
通称
旧呼称春日神、惣社宮 等
鎮座地大阪府藤井寺市惣社
旧国郡河内国志紀郡国府村
御祭神神八井耳命
社格式内社、旧村社、河内国総社
例祭10月9日

 

志貴県主神社の概要

大阪府藤井寺市惣社に鎮座する式内社です。現在は小さな神社ながら『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。

当社の創建は詳らかでありませんが、当地はかつて「志貴(志紀)県(シキノアガタ)」と呼ばれた朝廷の直轄地と推定され、これを管理した「志貴(志紀)県主」が祖神を祀ったのが当社と考えられています。

関連すると思われる氏族として『新撰姓氏録』には次の氏族が登載されています。

  1. 右京皇別「志紀首」(神八井耳命の後)
  2. 河内国皇別「志紀県主」(神八井耳命の後)
  3. 河内国皇別「志紀首」(神八井耳命の後)
  4. 和泉国皇別「志紀県主」(雀部臣同祖(=神八井耳命の後))
  5. 大和国神別「志貴連」(神饒速日命の孫、孫日子湯支命の後)
  6. 和泉国神別「志貴県主」(饒速日命の七世孫、大売布の後)

これらの内、1.~4.は「神八井耳(カムヤイミミ)命」を祖とする皇別氏族であり、5.6.は「ニギハヤヒ」を祖とする物部氏の一族です。つまり「シキ」を名乗る氏族は皇別氏族と物部系氏族の二系統があったことになり、いずれも「県主」の姓を与えられています。

『新撰姓氏録』において河内国に登載されているのは「カムヤイミミ」を祖とする皇別氏族の方なので、当社の奉斎氏族も皇別氏族の「志紀県主」であった可能性が高いと言えます。

彼らの祖「カムヤイミミ」とは神武天皇の御子であり、綏靖天皇の兄で、「志紀県主」や「多氏」などの祖となる人物です。

一方、物部氏は現在の大阪府八尾市を中心に勢力を置き、当地を含む河内国志紀郡にも「樟本神社」(論社は八尾市木の本八尾市南木の本八尾市北木の本に鎮座)や「辛国神社」(藤井寺市葛井寺に鎮座)など物部氏の一族が奉斎したと思われる神社があることから、当地も物部系の「志貴県主」が居住し当社を奉斎した可能性も十分考えられます、

ただ物部系の「志貴県主」は当地(河内国志紀郡)でなく大和国の「磯城」(現在の奈良県桜井市北部から川西町にかけての一帯)の県主であった可能性もある点に注意は必要です。(奈良県桜井市金屋の「志貴御縣坐神社」の記事も参照)

いずれの系統の「シキ県主」が当社の奉斎氏族であってもおかしくありませんが、現在の当社の御祭神は「神八井耳命」であることから、現在では皇別氏族の「志紀県主」に関わる神社とされているようです。

 

なお、「県主」とは古墳時代からあるとされる極めて古い姓(かばね)です。

県主が治めた「県(あがた)」がどういうものだったかは諸説あるものの、ヤマト政権の直轄した行政区分であり、政治的に定められたものというより自然発生的な領域だったようで、後の国郡制における国や郡の元となったものも多くあったようです。

その性格は不明な部分が多いですが、古い政治形態が元になっていることは間違いありません。当地も「志貴(志紀)県」として極めて古くから開拓された地だったことと思われ、後の「志紀郡」の母体になったものと考えられます。

また当地を支配した「シキ県主」について、『古事記』雄略天皇の段に次のような逸話があります。

『古事記』(大意)

后が日下にいた時、天皇は河内へ行幸した。そこで山の上に登り国内を見渡すと、鰹木を上げている家があった。

天皇が「その鰹木を上げて作ったのは誰の家か」と問うと、答えて言うには「志幾の大県主の家です」と。

そこで天皇が詔して「自分の家を天皇の御殿に似せて造ったのか」と人を派遣して家を焼かせようとすると、大県主が恐れ入って「卑しい者でありながら、身の程を知らずに立派なものを作ってしまい申し訳ありません。「ノミ(=謝罪)」の供物を献上致します」と布を白い犬に掛けて鈴をつけて献上し、天皇は火をつけるのをやめた。

天皇への服属と忠誠を確認し秩序を正す逸話ですが、一方で立派な家を建てられるほど「シキ県主」が富を築き、それだけ当地が豊かな地であったことも想像される話でもあります。

 

さて、律令制では国司が新しく着任すると国内の官社を参拝することになっていましたが、平安時代中頃から国府の近くに国中の官社の神々を合祀した「総社」を設け、国内の官社への参拝を省略するようになりました。

そして河内国においては当社が「総社」でした。多くの総社は新しく神社が創建されたものの、当社のように既存の神社が総社とされる例も若干ながらあったようです。

当社が総社とされたことからもわかる通り、当地付近に河内国府が置かれたと考えられています。古代においてはこの辺りが河内国の政治的中心の地だったと言えることでしょう。

 

境内の様子

志貴県主神社

境内入口。鳥居前の天明年間に奉納された灯籠には「惣社宮」と刻まれています。

当地付近に国府があったと考えられることから「河内國府址」と刻まれた石碑も建っています。

鳥居は朱鳥居で稚児柱が石造となった両部鳥居で、南向きに建っています。

 

鳥居から社殿までまっすぐに石畳の参道が伸びており、途中の右手(東側)には手水舎があります。

 

志貴県主神社

志貴県主神社

参道を進むと正面奥に社殿が南向きに並んでいます。

拝殿は真新しい本瓦葺の平入入母屋造。

 

拝殿前に配置されている狛犬。こちらは古めかしさを感じます。

 

拝殿後方、塀に囲われて建つ本殿は銅板葺の一間社流造に千鳥破風が付いたもののようです。

 

本社社殿の右側(東側)に境内社が鎮座しています。社名・御祭神等は不明。

朱鳥居が建ち、奥に銅板葺の妻入切妻造の社殿が建っています。

 

境内の北東から神社の方を見た様子。坂道になっており、境内が台地の上に鎮座していることがわかります。

この台地は「羽曳野丘陵」と呼ばれ、古市古墳群を構成する多くの古墳が所在すると共に、かつて国府があったとも推定されています。

 

当社の南西にある「允恭天皇陵」こと「市野山古墳」。墳丘長227mの巨大な前方後円墳で、五世紀後半に築造されたものと推定されています。

当社の鎮座する羽曳野丘陵は古市古墳群の中でも「允恭天皇陵(市野山古墳)」「仲姫皇后陵(仲ツ山古墳)」「応神天皇陵(誉田御廟山古墳)」など特に巨大なものが築造されました。

 

一方、当社の東方には「国府(コウ)遺跡」があります。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代、そして寺院跡といった有史時代の遺物や遺構が検出されており、当地の人々の暮らしを知る貴重な遺跡となっています。

旧石器時代の石器の他、縄文~弥生時代の90体もの人骨などが発見されています。

(なお遺跡名の「国府」とは地名であり、国府の遺跡(=国衙跡)でないことに注意が必要)

案内板

史跡 国府遺跡

 

タマ姫
小さな神社だけど河内国の総社だったんだね!国中の神を寄せ集めて祀った神社が総社なんだっけ?
その通りよ。総社はだいたい国府の近くにあるの。この辺りは古代の河内国の政治的な中心地と言えるわね。
トヨ姫

 

由緒

石碑

志貴県主神社縁起

『河内名所図会』

 

地図

大阪府藤井寺市惣社

 

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