社号 | 浜宮 |
読み | はまみや |
通称 | |
旧呼称 | 天神 等 |
鎮座地 | 大阪府泉南市男里 |
旧国郡 | 和泉国日根郡男里村 |
御祭神 | 事代主神 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 10月11日 |
式内社
浜宮の概要
大阪府泉南市男里に鎮座する神社です。
社伝によれば、当社の南方1.2kmほどの地に鎮座する式内社「男神社」の旧地で、ここは海に近く波に浸食されるので貞観元年(859年)に現在地に遷座したと伝えられています。現在は海岸線はやや遠くなっていますが、境内は常緑樹に混じって松の生い茂る一帯となっており、海浜であった雰囲気はよく残っています。
記紀の神武東征において、次のような記述があります。
『古事記』(大意)
神武天皇ら一行は白肩津に船を留めたとき、ナガスネヒコと戦になった。その際に兄の五瀬命は手に矢を受けて深い傷を負った。そこで五瀬命の言うには「日の御子であるのに日に向かって戦ったから敗れたのだ。遠回りして日を背にして攻撃しよう」として、南の方から回って進むことにした。その時海の水で血を洗ったのでその海を血沼海(ちぬのうみ)という。そこからさらに回って紀伊国の男之水門(おのみなと)に至り、五瀬命は雄叫びを挙げながら亡くなった。それでその水門を名付けて男之水門という。御陵は紀伊国の竈山にある。
「血沼海」とは大阪湾のこと。「男之水門(おのみなと)」(『日本書紀』では「雄水門」)とは『古事記』では紀伊国にあるとありますが、和泉国である当社・浜宮の地だとも言われています。これに因み「神日本磐余彦命(神武天皇)」および「彦五瀬命」の兄弟が祀られたのが当社=男神社の始めだと伝えられます。
また、当地の地名「男里(おのさと)」は『倭名類聚抄』和泉国日根郡の「呼唹郷」の遺称と考えられており、古い地名であることは間違いないようです。
当社は江戸時代には「天神」と呼ばれていましたが、『和泉名所図会』にはこれは天津神の意で、天満宮ではないとしています。神武東征に因む当社が天津神を祀るというのはやや不審ですが、菅原道真公を祀る神社でないという意識は古くからあったようです。
境内の様子
境内は「天神の森」と呼ばれる森となっており、境内への入口はいくつかありますが、鳥居が建っているのは森の北側です。鳥居は男神社でも見られる赤く塗られた神明鳥居。今回はここから入っていきます。
境内の森は常緑広葉樹に混じって松なども生えており、海浜の森といった雰囲気があります。今は海からやや離れていますがかつてはすぐそこが海岸線だったのでしょう。この森を進んでいくと社殿が見えてきます。
社殿は南向きで、塀の中に覆屋が建てられています。拝所の前方にはステンレス製の鳥居が建っています。
覆屋の中を覗いてみると檜皮葺の一間社流造の本殿が建っています。
社殿前の神輿台。毎年10月11日には男神社から当社へ神輿の渡御があるといい、恐らくここに神輿が据え置かれるのでしょう。
社殿の西側にはここが神武天皇の立ち寄った雄水門であることを顕彰した石碑が建っています。
当社の森を南側から見た様子。こんもりとした、というような森ではありませんが、海浜の森らしい雰囲気が感じられます。
当社近くの男里川から海の方を見た様子。河口部には大阪府では珍しくなった天然の干潟があります。神武天皇の立ち寄ったという「男之水門」はこの川に沿って形成されていたのでしょうか。


由緒
案内板「雄水門」
『和泉名所図会』
地図
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