社号 | 科長神社 |
読み | しなが |
通称 | |
旧呼称 | 八社大明神、二上権現 等 |
鎮座地 | 大阪府南河内郡太子町山田 |
旧国郡 | 河内国石川郡山田村 |
御祭神 | 級長津彦命、級長津姫命 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 7月第4日曜日 |
式内社
科長神社の概要
大阪府南河内郡太子町山田に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかではでありませんが、元は二上山に鎮座して「二上権現」と称し、暦仁元年(1238年)に現在地に遷座したと伝えられています。
近世には「八社大明神」と称されました。
当社は一説に神功皇后(息長帯比売命)が誕生した地とも言われており、神宝に神功皇后が三韓征伐の際に作らせたという兜が伝わっています。
『式内社調査報告』はこれについて「科長」が「息長」と転じて生まれた伝説ではと推測しています。
御祭神に風の神である「級長津彦命」「級長津姫命」が祀られているものの、風に関する伝承は特に伝わっていないようで、古くから祀られていたのか社名からの連想なのか定かではありません。
二上山に吹く風を司る神を祀っていたのでしょうか。或いは奈良県三郷町立野南に鎮座する風の神「龍田大社」と対になって、生駒山地と金剛山地の間の谷に吹き抜ける風を挟みこむ形で祀っていたのかもしれません。
境内の様子
境内入口。二上山の南西麓に立地しており、入口に鳥居が西向きに建っています。
鳥居にはかつての呼称「八社大明神」と書かれた銅製の扁額が掛かっており、これは元録十五年(1702年)に藤原頼孝卿によって揮毫されたものです。
鳥居の手前右側(南側)に手水舎があります。
江戸時代中期の地誌『河内名所図会』には当社の手水に使われる水を八精水といい、昔は鍛冶にも使われたと記されています。
鳥居をくぐると正面に西向きの社殿が建っています。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造で千鳥破風の付いたもの。どっしりと安定感のある造りです。
拝殿前のに配置されている狛犬。砂岩製でしょうか。
拝殿前の灯籠には当社の旧称である「八社宮」と刻まれてあり、江戸時代以前の様子が今でも伝えられています。
拝殿後方に鳥居が建ち、その奥に玉垣に囲まれて本殿が建っています。本殿は銅板葺の三間社流造で千鳥破風と唐破風の付いた豪勢なもの。
- 本社本殿の左右にそれぞれ銅板葺・流見世棚造の境内社が西向きに鎮座しています。いずれも社名・祭神は不明。
本社拝殿の右側(北側)に建つ建物。恐らく神庫でしょう。
神功皇后が作らせたという兜はこちらに納められているのでしょうか。
境内の北西隅に「金毘羅大権現」が鎮座。森に隠れるようにひっそりと鎮座しています。
桟瓦葺の平入切妻造の覆屋で、中に社殿が納められているようです。
翻って鳥居のすぐ左側(北側)、境内の西側に「金平大明神」が東向きに鎮座。先の金毘羅大権現と社名が似ていますが、こちらは狛狐が置かれていることからもわかる通り稲荷系の神社です。
朱鳥居が建ち、本瓦葺の平入切妻造の覆屋に板葺・流見世棚造の社殿が納められています。社殿は小さいながらも細かな彩色が施された丁寧なもの。
社前の右手(南側)に石段が伸びており、ここを上っていくと「小野妹子の墓」があります。
垣の内側に土盛りがあり、その手前に祭壇が築かれています。
当社の周囲は古い町並みが残っているだけでなく、美しい棚田があり、さらに先の小野妹子をはじめ推古天皇、聖徳太子といった歴史的な有名人の墓所、また叡福寺といった名刹などがあり、歴史と自然を感じながら散策するのに最適な一帯となっています。
由緒
『河内名所図会』
地図