社号 | 都留彌神社 |
読み | つるみ |
通称 | |
旧呼称 | 天神 等 |
鎮座地 | 大阪府東大阪市荒川 |
旧国郡 | (旧地:河内国渋川郡東足代村) |
御祭神 | 速秋津日子命、速秋津比賣命 他 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月15日 |
式内社
都留彌神社の概要
大阪府東大阪市荒川に鎮座する式内社です。当社は元々は西側800mのところ、現在の布施戎神社の地に鎮座していましたが、大正三年(1914年)に政府の政策により周辺の神社を合祀し、元々鹿島神社の鎮座していた現在地に移転しました。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。社伝によれば、醍醐天皇の延喜十年(910年)、旱魃が続き田植えができなかったので天皇は河内国の十二社を選んで祈雨を行ったところ、見事に叶い連年豊作となったので、感激した天皇は親ら当社に参拝して都留彌神社の社号を賜り、従五位上の神階を授けたとされています。
一方で社伝によれば仁和二年(886年)の国史に載るともしていますが、これは『三代実録』の同年の条にある河内国の「垂水神二前」を指すと思われます。この時垂水神は従五位上の神階を授けられており、前述の社伝と矛盾することになります。
この垂水神を当社とすることの是非は諸説あるようです。確かに音は似ているとしても、一般に垂水とは滝のことであり、多く垂水神が祀られる地は崖の側であるので、大和川の土砂が堆積して形成された低地である当地に垂水神が祀られるとはやや考えにくいのではと思われます。また垂水神が「二前」とあるのも気にかかる点で、垂水神が当社なら『延喜式』神名帳には二座とあるはずですが、実際には一座です。
「都留彌」が「垂水」でないとすると、これが何を意味するのかを考察するのは難しいでしょう。参考として、若江郡の式内社に社名の似た「都留美島神社」があります。当社と関係があるかもしれませんが、現状比定されている神社は当社とはかなり離れた地です。もしかしたらどちらか片方、もしくは両方の比定に誤りがあり、本来両社は近接した地に鎮座していたのかもしれません。とすると、都留美島とは大和川の土砂によって形成された中州のことを指していたのでは、とも想像されます。このような説はあまり聞きませんが、実際のところはどうだったのでしょうか。
境内の様子
境内入口。近鉄奈良線・近鉄大阪線・JRおおさか東線に囲まれた三角形の地帯、荒川小学校のすぐ北方に鎮座しています。
鳥居をくぐると左側(西側)に手水舎があります。
正面に南向きの社殿が建っています。拝殿は平入の入母屋造に千鳥破風と唐破風の向拝が付いています。
かつて天神と呼ばれていたからか、拝殿前には牛の銅像が設置されてあります。撫でると良いことあるそうです。
本殿は直線屋根の妻入の切妻造。住吉造のような形式です。本殿の真後ろには拝所が設けられています。
社殿の左側(西側)に境内社がまとまって鎮座しています。最も南側に「恵比須大神」「三輪之大神」が鎮座。
隣接して「白龍大神」が鎮座。
さらに隣接して「岩崎大明神」が鎮座。扁額には「稲荷大神」ともあります。
祠の前に「おもかる石」が二つ置かれています。おもかる石とは、小型の石を持ち上げて軽く感じれば願いが叶うというものです。
境内の北西に二つの境内社が並んでおり、左側に「荒龍大神」「白龍大神」を、右側に「石上大神」「諏訪大神」「塩釜大神」を祀っています。左側は自然石を祀っているようです。
社殿の右側(東側)では地蔵の石像が祀られています。
境内の隅に「力石」が置かれてあります。力石とは、腕に自信のある者が大型の石を持ち上げて力を試したものです。
岩崎大明神の前にあった「おもかる石」とは「持ち上げられれば神意に沿った証」という点で同一であり、同じ信仰に端を発してると思われます。力石とおもかる石の両方が同じ神社にあるのは珍しいことです。
境内の南西隅ではエビス神と大黒天の銅像が何故か右手を突き上げた同じポージングで立っていました。境内社の恵比須大神・三輪之大神の祠に関連した像でしょうか。


御朱印
由緒
石碑「式内 都留彌神社」
『河内名所図会』
地図
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