社号 | 若倭姫神社 |
読み | わかやまとひめ |
通称 | |
旧呼称 | 春日八幡、春日白山 等 |
鎮座地 | 大阪府柏原市山ノ井町 |
旧国郡 | 河内国大県郡平野村 |
御祭神 | 若倭姫命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 7月31日、10月15日 |
若倭姫神社の概要
大阪府柏原市山ノ井町に鎮座する式内社で、平野地区に鎮座する「若倭彦神社」と対になる神社です。
当社の創建や由緒は詳らかでありませんが、当地に居住した「若倭部氏」が祖神を祀ったのが当社だと考えられます。
関係する氏族として『新撰姓氏録』には次の氏族が登載されています。
- 左京神別「若倭部」(神饒速比命の十八世孫、子田知の後)
- 右京神別「若倭部連」(神魂命の七世孫、天筒草命の後)
- 右京神別「若倭部」(火明命の四世孫、建額明命の後)
これら三氏族は一見すると全く別系統の氏族であるように見えます。
しかし物部系の史書『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒの四世孫に「建額赤命」、そしてその子に「建筒草命」とあり、若倭部連などの祖であるとしています。
1.がニギハヤヒを祖としており物部氏の一族であるのは一目瞭然ですが、2.にしても「天筒草命」は『先代旧事本紀』に見える「建筒草命」に通じ、また3.の「建額明命」はまさに『先代旧事本紀』に見える「建額赤命」と同神と見て良いでしょう。
そもそも『先代旧事本紀』はニギハヤヒとアメノホアカリを同神と見なして「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」としており、この点についての評価は諸説あるものの、ニギハヤヒを祖とする物部系氏族とアメノホアカリを祖とする尾張系氏族との間に何らかの関連性があったことが考えられます。
2.が神魂命の後裔としている点に疑問があるものの、こうした点から『新撰姓氏録』に見える三氏の「若倭部」はいずれもニギハヤヒに繋がる氏族であることが示唆されています。
当地が物部氏の本拠地から近いことを見ても、当社が直接的もしくは間接的にニギハヤヒを祖とする物部氏と関係していた可能性は高いと言えましょう。
当社は明治四十一年(1908年)に大県地区の「鐸比古鐸比売神社」に合祀されましたが、昭和二十二年(1947年)に再び独立し旧地に復興しました。
当社は生駒山地南部の麓、瑠璃光寺境内の崖にへばりつくように立地しており、集落内にある「若倭彦神社」と比べてこちらは山岳信仰的な一面が強いと言えるかもしれません。
境内の様子
当社は生駒山地南部の西麓、「瑠璃光寺」の境内にあります。
後述のように瑠璃光寺は曹洞宗の寺院で、生駒山地の斜面を活かした立体的な境内となっています。
瑠璃光寺境内の南の隅に当社の入口があります。鳥居は北向きに建っており、そこから崖を上っていく石段が伸びています。
石段を上っていくと、崖上の僅かな平面に社域が南北に広がっており、社殿も崖を背にして西向きに立っています。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造で向拝の付いたもの。
拝殿後方に建つ本殿は小さいながらも銅板葺の三間社流造。
背後に岩盤が露出しており磐座っぽいような空間となっています。
境内の右奥(南端)には稲荷系の境内社が西向きに鎮座しています。
朱鳥居が建ち、社殿は銅板葺の流見世棚造。
初夏の境内は新緑に覆われて美しく、宅地にある「若倭彦神社」とは対照的な印象を抱きます。
瑠璃光寺
参道の北側は「瑠璃光寺」の伽藍の建つ空間となっています。
手前のお堂には古墳の石棺を転用して鎌倉時代に造られた二体の石棺仏が安置されています。
案内板
石造 如来形坐像 石造 菩薩形立像
瑠璃光寺は山号を醫王山といい、行基が開基したと伝えられる古刹です。
曹洞宗に属し薬師如来を本尊としています。本堂内には焼損しているものの平安時代のものとされる四天王像が安置されているようです。
案内板
木造 四天王像
当地は生駒山地の裾野のやや高いところにあるので、大阪平野の見晴らしはなかなかのものです。
由緒
案内板
式内 若倭姫神社
『河内名所図会』
地図
関係する寺社等
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