社号 | 志紀長吉神社 |
読み | しきながよし |
通称 | |
旧呼称 | 日陰大明神 等 |
鎮座地 | 大阪府大阪市平野区長吉長原 |
旧国郡 | 河内国丹北郡長原村 |
御祭神 | 長江襲津彦命、事代主命 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月15日 |
志紀長吉神社の概要
大阪府大阪市平野区長吉長原に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳では大社とあり、古くは有力な神社だったようです。
当社の創建は詳らかでありませんが、大同四年(809年)に平城天皇より「日蔭大明神」の神号を賜ったと伝えられています。
日蔭大明神と呼ばれた由縁は、当社の東方に繁茂していた「日蔭蔓(ヒカゲノカズラ)」を大嘗会に奉っていたことによるとされています。日蔭蔓は蔓とはいえシダ植物で、地面を這うようにして伸びることから蛇を連想させるものとも言われています。天鈿女が天岩戸の前で踊った際にこれを身に着け飾っていたともされており、また宮廷の大嘗祭・新嘗祭においても用いられる等、古くから神事に用いられる神聖な植物でした。現在も当社では日蔭蔓を神紋としています。
御祭神の長江襲津彦命は孝元天皇の孫であり武内宿祢の子で、葛城襲津彦命とも称される人物です。大和葛城を拠点とした葛城氏の祖で、大和川を通して河内湖と葛城を結ぶ中継地として葛城氏が当地に居住し祖神を祀ったのかもしれません。社名の「長吉」は本来はナガエ(=長江)と読み、大和川を指したものであるという説もあります。長江を名に冠した長江襲津彦命は、まさに葛城と河内湖との交通を制した人物だったという可能性も考えられるかもしれません。
今では全く痕跡がありませんが、古墳時代の当地付近は多くの古墳があったことが知られており、「長原古墳群」と呼ばれています。墳丘どころか古墳を思わせるものが全く無いところでしたが、地下鉄谷町線の建設の際に200基以上もの古墳が検出されました。多くの埴輪が出土しており、特に船形埴輪は有名です。古墳時代には河内湖が内陸深くまで入り込んでいたと考えられ、当地にまで達して海外との玄関口としての機能を備えていたことが推測されます。或いは「長江」とはこの奥まった河内湖の入江を指していたのかもしれません。少なくとも、長原古墳群を築いた人々がここから河内湖、瀬戸内海を通じて交易を行なっていたことが考えられます。
このように見てくると、当地は非常に古くから人々の営みのあったことが見えてきます。
境内の様子

一の鳥居は境内から約200mほど南のところに建っています。


一の鳥居から境内入口の二の鳥居、そして社殿へと参道は真っすぐに伸びています。
鳥居をくぐって左側(西側)に手水舎があります。


正面に南向きの社殿が建っています。拝殿はRC造で、平入の切妻造の正面に妻入の切妻造が差し込まれたような形になっています。
拝殿前の狛犬。頭でっかちで特徴的な顔立ちをしています。

拝殿に掛けられた幕に「日蔭蔓」の神紋が施されています。概要にも記した通り当社の由緒に関わる馴染み深い植物です。

本殿は同じくRC造で、神明造となっています。
拝殿の左側(西側)に「琴平社」が鎮座。「大物主命」を祀っています。
境内の左奥(北西)に「稲荷社」が鎮座。「宇迦之御魂大神」を祀っています。
当社は真田幸村と縁が深く、境内の至る所に六文銭の幟が掲げられ、また祈願用の奉納物ともなっています。大坂夏の陣の際、真田幸村は当社に祈願し軍旗と刀剣を奉納しました。刀剣は終戦時に没収されたものの軍旗は現在も社宝として伝えられています。
社宝 六文銭軍旗
+ 開く
社宝 六文銭軍旗
中河内群誌に依れば、「伊達政宗との大阪夏の陣の時大阪城より退却命令が下され天王寺・茶臼山に退くことになったが、この途中幸村、戦勝を日陰明神(当神社)に祈願せし時、神社の馬場にて休息せりと伝う。この時麻地六文銭紋章の旗と刀剣を当社へ寄進せり」と記されています。刀剣は終戦後に没収されましたが、軍旗は当神社で保存しております。神社参道大鳥居側には「真田幸村休憩所」の碑が建てられています。
当社付近には古墳時代の前期~後期に築造された「長原古墳群」がありましたが、開発される以前から既にその形跡はありませんでした。公園の片隅に建っている石碑だけが僅かにかつて古墳群のあったことを示しています。
案内板「長原高廻り古墳群」
+ 開く
長原高廻り古墳群
平野区長吉長原・長吉川辺の一帯では、地下から二〇〇以上におよぶ多数の古墳がみつかり、長原古墳群と呼ばれています。古墳は大体五・六世紀につくられ、その多くは一辺が一〇メートル前後と小型の方形墳です。この場所で見つかった二基の古墳は、長原古墳群の初期(五世紀の初めごろ)のもので、特に高廻り古墳群と呼ばれています。一号墳は一辺一五メートルの方墳で、二号墳は直径一八メートルの円墳です。これらの古墳からは家形・甲冑形・盾形その他多数の埴輪が出土し、国の重要文化財に指定されました。特に船型埴輪は当時の大型船のようすをリアルに伝えるものとして知られています。一九八九年には大阪市政一〇〇周年記念事業として、船形埴輪から本物の船を復元し、韓国への実験航海が行われました。
大阪市教育委員会

タマヨリ姫
この辺りは何も無いところから200以上もの古墳が出てきたんだって!すごいね!
それだけじゃないわ。多くの良質な埴輪も出土してるの。ここから出土した船形埴輪は古墳時代当時の船の様子を知ることができるとても重要な資料となっているのよ。

トヨタマ姫
御朱印

由緒
案内板「志紀長吉神社」
+ 開く
志紀長吉神社
本社祭神
長江襲津彦命〔軍神長寿の神〕・事代主命(五穀豊穣の神)
境内末社
琴平社〔大物主大神〕・稲荷社〔稲荷大神〕
氏子地域
明治初年には旧長吉・瓜破・恵我・大正・藤井寺の各村の総氏神であったが現在は長吉長源一円
主な祭礼
例祭十月十六日 春祭四月十六日 夏祭五月二十五日 冬祭十二月十五日
社宝
真田幸村軍旗・法華経八巻等をはじめ二十七巻は現在大阪市立博物館・美術館に保管されている。
由緒
延喜式に依れば大杜に列し月次新嘗の官幣に預かる古社である。
往昔大嘗会に、当社社有地の東六丁に多く繁っていた日蔭蔓を奉っていたところ、平安朝第五十一代平城天皇より日蔭大明神の神号と左の御製を賜る。
「神山の日蔭の蔓かざてふ 豊の明かりのわけてくまなき」
以来、日蔭の蔓を神紋とすると伝えられている。第六十九代後朱雀天皇・第七十代後冷泉天皇の御祈願所でもあった。
御鎮座の年代は定かではない。
日蔭の蔓とは、常緑つる性シダ植物であり脂肪に富み、吸湿性がないので、傷薬に混ぜて使用されている。
又、天皇即位の大嘗祭・新嘗祭等の神事に奉仕する官人が、蔓として頭上から左右に懸け垂れた斎忌のしるしであり、穢から身を守るものとして最も尊いものであった。
長江襲津彦命
第八代孝元天皇の孫にあたり武内宿禰の第六番目の子供として生れる。
神功皇后が摂政(政事を司つている時)の時から、応神天皇と仁徳天皇に仕え、政治軍事に参与し、誠の心で国に奉仕された。晩年に幽宮をこの長吉の里に定められ二百余才をもって静かにお隠れになり、この里の守り神又軍神長寿の神として神霊幸い永久に鎮座する事になったのである。娘の磐之媛命は、第十六代仁徳天皇の皇后であり、長江襲津彦命自身は天皇家の外戚にあたる。
事代主命
天照大神の弟建速須佐之男命の五番目の孫で大国主命の二番目の子供である。
神武天皇以来、宮中の八神殿に入り今なお宮中の神殿におごそかに祭られている。この長吉の里においても昔から守り神として鎮まっておられる。
又福の伸と言われ農作物はもとより漁業も守護する五穀豊穣の神としても崇められている。常に顔に微笑みを浮かべているのは、喜楽円満の相を表している。
『河内名所図会』
+ 開く
志紀長吉神社二座
延喜式云 大月並新嘗。三代実録云 貞観元年正月授従五位上。長原村にあり。日蔭明神と称す。大嘗会の御時日蔭蔓を貢奉る故に名とす。其蔓神庫に収て上貢に非ざるよりは神人といへども漫に見る事を得ず。又社司の家に長久永承年中の神祇官符を蔵む。当社郡内延喜式と相違ふ。古老伝云 この地旧名長吉後世分って二つとなす。各一字を冒す。西を吉富といひ東を長原といふ。俱に三郡の界に居し志紀に属し渋川に入本郡丹北に入。
地図
大阪府大阪市平野区長吉長原