社号 | 柴籬神社 |
読み | しばがき |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 大阪府松原市上田 |
旧国郡 | 河内国丹北郡上田村 |
御祭神 | 反正天皇、菅原道真、依羅宿禰 |
社格 | 旧村社 |
例祭 |
柴籬神社の概要
大阪府松原市上田に鎮座する神社です。
社伝によれば、六世紀前半頃、第二十四代の仁賢天皇の命によって当社が創建されたと伝えられています。
また『日本書紀』反正天皇元年十月条に、「反正天皇(多遅比瑞歯別(タヂヒノミヅハワケ)尊)」が都として「丹比柴籬宮」を置き、この時は風雨が順調で五穀豊穣に恵まれ天下泰平だったと記されています。伝承ではこの「丹比柴籬宮」とは当地であると伝えられています。
さらに伝承では都が大和へ戻った際、当地は「松生いし丹比の松原」と称えられたといい、これが現在の自治体「松原市」の由来となっています。
一方、当地の旧郡名の「丹比」とは元はタヂヒと読み、本来はマムシを指しましたが、イタドリという植物のことも指しました。
『日本書紀』反正天皇即位前紀に天皇誕生の際、産湯にイタドリの花があり、また美しい歯を持っていたので「多遅比瑞歯別尊」と名付けられたことが記されています。この記述に従えば、丹比柴籬宮を置いた当地周辺を反正天皇に因み丹比と呼ぶようになった、となるのでしょう。
逆に「丹比」の地名が先にあり、この地と関係を持ったため反正天皇にこれに因んだ名が付けられた可能性も考えられます。
いずれにしても当地付近は反正天皇に所縁ある地であると言えることでしょう。
当社は式内社ではないものの、社伝によれば平安時代に清和天皇により幣帛を賜わり、また中世には足利直義や河内国守護の畠山氏から厚く庇護を受けたと伝えられ、古くから当地域における有力な神社だったようです。
また、神社合祀政策により明治四十一年(1908年)に田井城地区に鎮座していた「田坐神社」が当社境内に遷座され、現在も境内社として田坐神社の社殿があります。
ただし、旧社地では昭和六十年(1985年)に復興されて独立しており、双方に「田坐神社」が鎮座する形になっています。
式内社
境内の様子
境内入口。南側に本瓦葺・平入切妻造の四脚門の神門が南向きに建っています。これはかつて当社にあった真言宗の神宮寺「広場山観念寺」の山門だったと言われています。
また、当社は反正天皇の都である「丹比柴籬宮」の跡と伝えられており、そのことを示す石碑が神門の脇に建てられています。
神門をくぐると鳥居が南向きに建っており、社殿までまっすぐに石畳の参道が伸びています。
鳥居をくぐって右側(東側)に手水舎があります。
参道の先に注連柱と石段があり、石段上の高くなった空間に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造。
狛犬は石段を上ったところに一対、拝殿前にも一対配置されています。いずれも古そうなもので、恐らく江戸時代まで遡るものでしょう。
拝殿前に「盛砂」があります。古くから当社に伝わるものと言われ、お清めの砂として家屋の鬼門や裏鬼門に撒く風習が残っているようです。
拝殿後方に建つ本殿はRC造の銅板葺の流造で、幣殿と接続した権現造ともなっています。
本社社殿の左側(東側)に式内社の「田座神社」が南向きに鎮座。社殿は銅板葺の流見世棚造。
明治四十一年(1908年)に神社合祀令により遷座されましたが、現在は旧地に復旧しており、当社と旧地の二ヶ所で祀られている形になっています。
本社拝殿前の右側(西側)にも境内社が西向きに鎮座していますが、こちらの社名・祭神等は不明。
社殿は銅板葺の流見世棚造。
本社拝殿前、石段下の右側(東側)に「稲荷社」が西向きに鎮座。御祭神は「稲荷大神」「勝手大神」。
二基の朱鳥居が建ち、奥の覆屋内に銅板葺の一間社流造の社殿が納められています。
稲荷社の右側(南側)に隣接して「絵馬堂」が建っています。江戸時代からある建物のようで、いくつかの絵馬が掛けられています。
案内板
柴籬神社絵馬堂
絵馬堂の右側(南側)に隣接して「住吉社」「歯神社」の相殿が西向きに鎮座。鳥居が建ち、奥の覆屋内に社殿が納められているようです。
反正天皇が美しい歯を持っていたことに因み歯の神が祀られ、毎年8月8日の夜8時8分に祭礼が行われています。
またこの境内社の手前側には非常に独創的な「歯磨き面」と呼ばれる歯を見せて笑った翁の顔を刻んだ石造物が置かれています。
上の歯を「夷歯」、下の歯を「大国歯」とし、これを触って丈夫で健康な歯であるよう祈る信仰装置となっています。
境内の南西隅には「大歳社」が東向きに鎮座。
鳥居が建ち、奥の玉垣内に本瓦葺の平入切妻造の社殿(覆屋?)が建っています。
当社境内の灯籠。拝殿前の左側の灯籠は寛文十一年(1671年)、右側の灯籠は慶安五年(1652年)のもの。
また、参道途中に建つ天保三年(1832年)の灯籠には「柴籬宮」と刻まれています。
当社の拝殿前の石段下左側に江戸時代に奉納された手水鉢があります。
船型に刳り抜いて「水」の字を浮き彫りにし、水を入れた際に「水」の字が浮かび上がるようにした凝った作りです。
この手水鉢は当社の東方500mほどの地にある河内大塚山古墳の石室の石材を用いたもの。
河内大塚山古墳は墳丘長335m、古墳時代後期の6世紀後半に築造されたと推定される前方後円墳で、その巨大さもさながら、百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間に立地する点も特徴的な古墳です。
河内大塚山古墳の前方部にはかつて集落があり、後円部には「天満宮」(大塚社とも)が鎮座していました。
この手水鉢はその天満宮に奉納されたもので、側面には「天満宮」と刻まれ、背面には奉納された時期である享和元年(1801年)九月の紀年銘があります。
明治年間に天満宮は当社に合祀され、この手水鉢も当社へ移されました。
河内大塚山古墳は大正十四年(1925年)に陵墓参考地となり、前方部にあった集落は移転、その後は現在に至るまで立入禁止となっています。
この手水鉢は、立入禁止となった河内大塚山古墳の様子をほんの僅かながらでも窺うことの出来る数少ない資料と言えることでしょう。
案内板(木で隠れているため一部箇所は推測・省略)
河内大塚山古墳石室材の手洗鉢
当社の北方にある和菓子屋「かすが」さん。春先に訪れたので季節に合わせて桜餅を頂きました。
御朱印
由緒
案内板
柴籬神社
案内板
柴籬神社
地図
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