1.京都府 2.山城国

石田神社 (京都府八幡市上津屋里垣内)

社号石田神社
読みいしだ
通称
旧呼称牛頭天王社 等
鎮座地京都府八幡市上津屋里垣内
旧国郡山城国久世郡上津屋村
御祭神素盞嗚神
社格
例祭

 

石田神社の概要

京都府八幡市上津屋里垣内に鎮座する神社です。木津川右岸側の城陽市上津屋を含め、上津屋地区の産土神です。

社伝によれば大宝二年(702年)に南西に隣接する内里地区の山中に神が顕れ、上津屋の地に祀ったと伝えられています。

また、治承四年(1180年)源頼政の兵乱により社殿が焼失、文治四年(1188年)に源頼朝により復興されたとされたと言われ、その後元弘の乱で楠木正成が当社に願文を奉納したと伝えられています。史実かは不明ながら、伝承上では皮肉にも鎌倉幕府を開いた人物が復興した神社に、鎌倉幕府を倒そうとする人物が祈願した格好になっています。

近隣の石田地区に鎮座する二社の石田神社(茶屋ノ前の石田神社・里の石田神社/いずれも読みは「いわた」)は久世郡の式内社「石田神社」の論社を主張してる一方で、当社は特に式内社を主張していないようです。ただ、近世には「牛頭天王社」と称していた当社は明治年間に「石田神社」と改称しており、その経緯は不明です。

かつての社名が示すように当初は「牛頭天王」を祀っており、すぐ近くを流れる木津川の水害が度々あったため、この災害、そしてそれに伴う疫病の流行に対する守護を願って信仰されたようです。

また、小さな神社ながら棟札や算額、古文書などが豊富に残っており、南北朝時代の十三重の石塔もあることから、水害に遭いながらもこの地で長い間大切にされてきた神社であることが伺えます。

 

境内の様子

境内入口。東向きに鳥居が建っています。

現在はこぢんまりとした神社ですが、かつてはもっと広い境内を有し、戦後すぐ頃の航空写真を見ると現在の交流館や北方の宅地、そして東は木津川の堤防手前までもが当社の敷地だったことがわかります。境内敷地を売却したのでしょうか。

 

鳥居の手前左側(南側)に手水舎があります。

 

鳥居をくぐった様子。石畳の参道が社殿まで一直線に伸びています。途中に水路が横切っており幅広な橋(というより暗渠に近い)を渡ります。

 

正面に社殿が東向きに並んでいます。拝殿は銅板葺・平入切妻造で正面に切妻破風が付いています。

以前は切妻破風が付いておらず、扉はシャッターのような内部の見えない閉鎖的なものだったのですが、近年改修を受けたようです。

 

拝殿前の狛犬。花崗岩製です。

 

本殿は銅板葺で大型の一間社流造。嘉永四年(1851年)に造営されたものです。

 

本殿の左奥(南西)に鎮座する「若宮神社」。多くの神が合祀されており、「天之忍穂耳尊」「活津日子根命」「天之菩日命」「熊野久須日命」「天津日子根命」「市寸嶋毘賣命」「田露毘古命」「於岐津毘根命」が祀られています。

 

参道へ戻ります。参道途中の右側(北側)に「大神宮社」が鎮座。御祭神は「天照皇大御神」。

一般に天照大神を祀る神社や祠は素木であることが多いのですが、この祠はベンガラか何かで赤く塗装されておりやや珍しいように思います。

 

大神宮社の向かい側、参道の右側(南側)に鳥居と「天照皇大神伏拝」とある遥拝所があります。伊勢神宮への遥拝所と思われますが、南を向いて拝む形になり、伊勢神宮の鎮座する南東とは方角が異なっています。

 

鳥居をくぐって左側(南側)のところに「香取神宮」が鎮座。御祭神は「健甕槌命」。こちらの祠も大神宮社と同様、ベンガラか何かで赤の塗色が施されています。

 

境内入口の手前側に石造三重塔が建っています。特に文化財指定を受けていないようですが、南北朝時代に建立されたと考えられる貴重なものです。

相輪でなく宝珠が付いているのが特徴(後補かも?)。初層の軸部には四方仏が刻まれています。

かつてここも当社の境内地で、史実かは不明ながら楠木正成が願文を奉納したと伝えられていることから、南北朝時代には厚い崇敬を集めた神社だったことが偲ばれます。

 

当社にすぐ隣接する上津屋浜垣内地区に国指定重要文化財の「伊佐家住宅」があります。

伊佐家は当地の庄屋を務めた家で、江戸時代中期の山城地方の民家の代表例として貴重なものです。母屋は厚い茅葺の入母屋造で、その他の建物や文書等も同時に文化財指定されています。

洪水の多かった当地でこのような家屋が残っているのは奇跡的と言えるかもしれません。

またこの家の伊佐政徽が明和二年(1765年)に当社へ奉納した算額が残っており、これは京都で二番目、全国で九番目に古い算額であり、この地における文化教養の高さが偲ばれます。

案内板

重要文化財 伊佐家住宅

 

当社の東方の木津川には「上津屋橋(こうづやばし)」が架けられています。一般的には「流れ橋」の名でよく知られています。

木津川の右岸側にも上津屋(現・城陽市)の地名があり、かつてはこちら左岸側の上津屋と一体の村で、両地の間に渡し船がありましたが、これでは不便だったので昭和二十八年(1953年)に橋が掛けられました。

その際、少ない予算で架橋できること、水害に遭っても修復が容易であることから、橋桁と橋脚を固定しない「流れ橋」の構造が採用されました。水害の際は敢えて橋桁が外れるようになっており(ワイヤーが張られているので流失はしない)、壊滅的な破壊を防ぐ構造になっています。

ただし、流される頻度が高いこと、修復費用が決して安くないこと、修復の工事が比較的長期に亘ることから、あまり合理的であるとは言えないのが現状です。とはいえ堤外に電柱や家屋等の人工物が無く、風情があることから観光地として人気があり、また時代劇の撮影ロケ地としても使われており、地元内外で大変親しまれている橋であると言えます。

 

上津屋橋から眺める木津川の様子。

木津川は風化しやすい花崗岩地帯を流れるため、淀川に流入する主要三川の中で最も土砂が多いのが特徴です。このため水害の際は土砂交じりの大量の水が押し寄せ猶更のこと被害が甚だしかったようです。

 

タマ姫
ここは石田神社って社名だけど、式内社じゃないのかな。
地名が違うからか、ここが式内社であるとは主張されていないみたいね。ただ702年の創建と古い由緒を伝えているわ。
トヨ姫

 

由緒

案内板

石田神社

案内板

石田神社

 

地図

京都府八幡市上津屋里垣内

 

-1.京都府, 2.山城国
-,