社号 | 阿比太神社 |
読み | あびた |
通称 | |
旧呼称 | 牛頭天王 等 |
鎮座地 | 大阪府箕面市桜ヶ丘1丁目 |
旧国郡 | 摂津国豊島郡桜村 |
御祭神 | 素盞嗚尊 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月23日 |
阿比太神社の概要
大阪府箕面市桜ヶ丘1丁目に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。
社伝によれば応神天皇二年の創建と伝えられています。当初は現在の阪急箕面駅の北方、阿比太森というところにあったと言われ、いつの頃か当地に遷座したと伝えられています。なお、旧地の阿比太森が具体的にどこにあったかは不明のようです。
一説に当地に物部系の氏族「阿比太氏」が当地に居住し祖神を祀ったのが当社とも言われています。『新撰姓氏録』左京神別に速日命の十五世孫、弥加利大連の後裔であるという「大貞連」が登載されており、そこに次のようなことが記載されています。
『新撰姓氏録』(大意)
聖徳太子が摂政をしていた年、大椋官を任されていた。その時家の辺りに大股の柳の木があった。聖徳太子が巻向宮へ巡行した際、太子自らこの木について尋ねた。これによって「阿比太連」に詔して「大俣連」の姓を授けた。四世孫は千継らで正六位上。天平神護元年(765年)、字を改めて「大貞連」の姓を賜った。
このようにあり、「阿比太連」は家の近くに大股の柳の木があったために「大俣連」の姓を、さらに後に「大貞連」の姓を賜ったとあります。この氏族が当社を奉斎した可能性が考えられます。
阿比太連が当社を奉斎したのならば、当社の本来の御祭神は祖神である「饒速日命」だったことと思われます。
しかし現在の当社の御祭神は「素盞嗚尊」となっています。これは江戸時代に牛頭天王が祀られていたのを明治の神仏分離によって変更したもので、織田信長が畿内の寺社を焼き払った際に信長の信仰した牛頭天王を祀ると偽ったことで焼却を免れたものとも伝えられています。
実際には氏子の間で牛頭天王の持つ厄除けの力への信仰が厚かったことも無視できないものでしょう。
かつての当社周辺は果樹園の広がる緩やかな斜面にあったようです。現在は当社周辺は大規模に開発された住宅が広がり、様相は大きく変わったものの、境内は鬱蒼とした森が残り人々の憩いの空間となっています。
境内の様子
境内入口。見るからに境内の敷地は鬱蒼とした木々で覆われています。入口には南向きの一の鳥居が建っています。
鳥居をくぐった様子。石畳が鬱蒼とした森を貫いて社殿前まで一直線に伸びています。
石畳を進んでいくと右側(東側)に手水舎があります。手水鉢は六角形のものとなっています。
正面のちょっとした石段の上に二の鳥居が南向きに建っています。二の鳥居は丸太風の加工が施されたコンクリート製(?)の神明鳥居。
二の鳥居をくぐると正面にRC造の社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に非常に大きな千鳥破風と唐破風の向拝の付いたもの。
拝殿前の狛犬。砂岩製の古めかしいものです。
本殿は銅板葺の流造。拝殿と接続しています。もしかしたら覆屋かもしれません。
本社社殿の右側(東側)の森の中に「大杉稲荷社」が鎮座しています。伏見稲荷大社の三之峯の大杉稲荷大神から勧請したと言われています。実際には三之峰でなく四つ辻から少し東へ上ったところに大杉社が鎮座しており、そこからの勧請なのかもしれません。
案内板
大杉稲荷社
本社社殿から大杉稲荷社へ直接移動できる参道は「無事通り抜け参道」と呼ばれており、入学試験を無事に通り抜けられるとして信仰を集めているようです。
当社は広々とした境内に木々を敷き詰めたように鬱蒼とした森があり、真新しい社殿等がよく整備されてる一方で昔ながらの趣も捨て去っていません。
歴史ある神社であると共に、新しく移り住んできた人々にとっても憩いの場として親しまれている神社なのでしょう。
御朱印
由緒
石碑
由緒
『摂津名所図会』
地図