社号 | 春日大社 |
読み | かすが |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県奈良市春日野町 |
旧国郡 | 大和国添上郡奈良町 |
御祭神 | 武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神 |
社格 | 式内社、二十二社、旧官幣大社 |
例祭 | 3月13日 |
春日大社の概要
奈良県奈良市春日野町に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳に名神大社に列せられ、二十二社の上七社にも加えられており、古くから現在に至るまで非常に有力な神社です。
社伝によれば、神護景雲二年(768年)に中臣氏・藤原氏の氏神祭祀のため、そして平城京鎮護のために「御蓋山(みかさやま)」の麓である当地に「武甕槌命」「経津主命」「天児屋根命」「比売神」の四神を「春日神」として祀り社殿を造営したのが当社の創建と伝えられています。
この内、「武甕槌命」は常陸国(茨城県)の鹿島神宮に祀られている神です。
当社の古い記録『古社記』によれば、鹿島神宮から武甕槌命が鹿に乗って柿の枝を鞭として遷り、伊賀国名張郡一ノ瀬河(現在の三重県名張市夏見の積田神社)、薦生山(現在の三重県名張市薦生の中山神社)、大和国の城上郡安倍山(現在の奈良県桜井市阿部付近)、そして御蓋山へと遷ってきたとあります。
現在奈良公園付近に多数生息している鹿はこの時に武甕槌命の乗ってきた鹿の子孫であると言われています。
また、常陸と大和の間には武甕槌命が鹿島神宮から当社へ遷る途中に立ち寄ったと伝えられる神社が多数あります。ただ、その多くは後に春日大社や興福寺の荘園となった地に春日神社が勧請され、それに伴い付会されたものであると考えられます。
「経津主命」は「斎主(いわいぬし)命」とも古くから呼ばれています。経津主命には武甕槌命のような遷座伝承はありませんが、下総国の香取神宮に祀られている神を勧請したと言われています。
「天児屋根命」は中臣氏および藤原氏の祖神です。また「比売神」はその神格は詳らかでありませんが、一説に天児屋根命の后神であるとも、天照大神であるとも、巫女を神格化したものであるとも言われています。
大阪府東大阪市の「枚岡神社」の社伝では、天児屋根命および比売神は元々は枚岡神社で祀られており、春日大社創建にあたり枚岡神社から勧請したと伝えています。このため枚岡神社は「元春日」と呼ばれています。
先述の通り当社は中臣氏・藤原氏の氏神として創建されましたが、この通り春日四神の中で明確に中臣氏・藤原氏と関連のある神は天児屋根命のみです。
武甕槌命および経津主命は東国の神であり本来は中臣氏・藤原氏の神ではありません。
この二神がどうして中臣氏・藤原氏の氏神となったかは明らかでありませんが、中臣氏・藤原氏の東国進出に伴い守護神として取り込まれたことが一つの可能性として考えられます。
河内国中部を拠点としていた祭祀氏族である中臣氏は、中臣(藤原)鎌足以降朝廷の中で極めて強い影響力を持つようになり、この権威を元に東国支配に及ぶと共に、王城を守護する役目を引き受け、都に隣接して当社を創建したことが窺えます。
当社の創建以降、都が平安京へ遷ってからも藤原氏の隆盛に伴い当社も繁栄を極め、当社の例祭である「春日祭」は『延喜式』内蔵寮に定められているのみならず、賀茂社の葵祭や石清水八幡宮の石清水祭と共に三勅祭ともされました。
中世以降は庶民からの崇敬も多く集めるようになり、多数の灯籠等が奉納されました。現在も参道に並んでいる石灯籠や廻廊に吊るされている吊灯籠を数多く見ることが出来ます。
現在は世界文化遺産「古都奈良の文化財」の構成遺産ともなっており、世界的に有名な観光地である奈良の定番の観光地として、国内はもとより世界中から非常に多くの人を集めています。
榎本神社
春日大社の廻廊南西隅に鎮座する神社です。御祭神は「猿田彦大神」。式内社「春日神社」(「春日祭神」=春日大社とは別)の論社の一つとされています。
当社は当地の地主神と言われ、春日大社の創建以前から当地で祀られていたとされています。
古くは「巨勢姫明神」とも呼ばれ、中世末頃に「猿田彦大神」と称するようになりました。
当社の創建は詳らかでありませんが、一説には春日大社ないし平城京の造営以前に当地を拠点にした和珥氏の一族「春日氏」が奉斎したものとも言われています。
当社と春日大社の関係について次のような伝承があります。
都が藤原京だった頃、武甕槌命は阿倍山に鎮座していたが、春日野に鎮座していた榎本の神が武甕槌命の元を訪れ鎮座地を交換してほしいと頼み、武甕槌命はそれを承諾した。ところが、平城京への遷都が行なわれ、藤原京近郊だった阿倍山は閑散としてしまった。困った榎本の神は武甕槌命に再び頼み込み、春日大社の側に住まわせてもらうようになった。
また別の伝承として次のようなものもあります。
武甕槌命は春日野の一帯に鎮まりたいと考え、その地に鎮座していた榎本の神に「この土地の地下三尺だけ譲ってほしい」と頼んだ。榎本の神は耳が遠かったため「地下」が聞き取れず、三尺だけならとこれを承諾。ところが武甕槌命は広大な土地を囲い始めたので榎本神が抗議すると、武甕槌命は「地下三尺と言ったのにあなたが聞き取れなかっただけだろう。約束通り地下三尺は頂かない。でもあなたは住むところが無くて困るだろうから私の近くに住むと良い」と言い、それ以来榎本の神は春日大社の側に住むことになった。
中臣氏・藤原氏が政界で影響力を持ち都の近郊に新たな神社を創建するにあたり、在来の神・在来の氏族と確執のあったことが示唆されます。
しかしで同様の土地交換伝承は三嶋大社でも見られ、新たな神社の創建に付随する共通のモチーフがあったことも考えられます。
いずれにしても当社の神が耳が遠いことは古くから信じられていたようで、参拝の際は拳で叩く習慣があったようです。同じく耳が遠いとされるエビス神の信仰でしばしば見られる、本殿の側で木槌を打つものと同類のものでしょう。
式内社
本宮神社
春日大社の東方に聳える御蓋山の山頂に鎮座する神社です。式内社「大和日向神社」は当社に比定されています。
社伝では春日大社の創建に先立ち武甕槌命が安倍山から遷った際に鎮まった場所だとされています。
その一方で春日大社の創建以前から鎮座していたとする説があり、一説には榎本神社と共に和珥氏の一族「春日氏」が奉斎したとも言われています。
御蓋山は禁足地であり一般人は立ち入ることが出来ず、当社にも参拝することはできません。諸資料によれば春日見世棚造の社殿が建てられているようです。
御蓋山を神体山とする信仰が示唆されると共に、社殿の東方50mほどの地に石を敷いた痕跡が発見されており、非常に古くからの祭祀場だったことが考えられます。
境内の様子
奈良の三条通りを比端へ突き進んだところに当社の一の鳥居が西向きに建っています。
朱に塗られ、太い柱が特徴的。気比神宮・厳島神社の鳥居と並び「日本三大鳥居」の一つとされています。
平安時代中期頃にここに大鳥居が建てられたと言われ、現在のものは寛永十一年(1638年)に再建されたもの。国指定重要文化財。
一の鳥居をくぐった様子。参道は非常に長く、社殿まで1.2kmほど続きます。
両側には松などの巨樹が並び、名物である野生の鹿を数多く見かけることができます。
さらに進むと石灯籠も目立ち始め、神社の参道らしい雰囲気を醸し出しています。
参道の途中、S字状に曲がるところに末社の「壷神神社」が南西向きに鎮座。
さらに参道を進むと右側(南側)に「車舎」と呼ばれる建物があります。
天皇の行幸、勅使、藤原氏の参詣の際に牛車を格納するための車庫です。
檜皮葺・平入切妻造で桁行五間、奥行三間の吹き放ちの建築。国指定重要文化財。
案内板
重要文化財 車舎 一棟
車舎の少し先に二の鳥居が西向きに建っています。朱鳥居で、一の鳥居と比べるとかなりスマートな印象の鳥居です。
二の鳥居の前に配置されている狛犬。砂岩製でしょうか。
二の鳥居をくぐり石段を上った先の左側(北側)に手水鉢が配置されています。
手水鉢の上には当社の神使である鹿の像が置かれており、「伏鹿手水所(ふせしかのてみずしょ)」と呼ばれています。
手水鉢のさらに左側(北側)には「祓戸神社」が南向きに鎮座。御祭神は「瀬織津姫神」。
当社の創建の二年後、神護景雲四年(770年)の鎮座と伝えられています。
大和国の大きな神社では入口近くにしばしば祓戸神社が鎮座しており、参拝の際はまずこの神社に参拝し穢れを祓うのが習わしです。
案内板
末社 祓戸神社
さらに参道を進むと左側(北側)の石垣の上に「着到殿」が建っています。
春日祭の際に勅使が式次第を確認する「着到之儀」が行われる建物で、天皇行幸の際の行在所としても使われました。
檜皮葺・平入の入母屋造で桁行五間・奥行三間、手前側(南側)が吹き放ちとなった建築です。国指定重要文化財。
案内板
重要文化財 着到殿 一棟
参道のほぼ最奥部。左右の石灯籠も増え、御蓋山の麓であり高低差のある地形なので石段が設けられています。
石段を左(北側)へ曲がるといよいよ当社の社殿が見えてきます。
石段を上ると正面に檜皮葺・入母屋造の楼門が南向きに建っており、「南門」と呼ばれています。
三間一戸の建築で全体的に朱が施されており、国指定重要文化財となっています。
元々は勅使や藤原氏以外の人々が参拝する際の門でしたが、現在は正門となっています。
案内板
重要文化財 南門 一棟
南門の前に柵で囲われた区画があり、その内側には岩石の一部が砂利から出ています。
これは神の降臨した、もしくは依代となった古い磐座とも、また扁額を埋納したところとも伝えられていますが、詳細は不明です。
案内板
楼門をくぐると廻廊で囲まれた空間となっており、正面に「幣殿」「舞殿」が南向きに建っています。
檜皮葺・平入入母屋造で桁行五間・奥行二間の一棟の建物ですが、この内東側二間が「幣殿」、西側三間が「舞殿」とされています。
幣殿部分は格天井となっており、天皇陛下の供物を納めるための場所。対して舞殿部分は化粧屋根となっており、雨天時に神楽や舞楽を奉納するための場所です。
ただ現在は拝殿としての機能が強く、特別参拝の受付をせずに参拝する場合はここから参拝することになります。
国指定重要文化財。
案内板
重要文化財 幣殿 一棟
幣殿・舞殿の手前左側(西側)には藤棚が設けられ、「砂ずりの藤」と呼ばれる大変見事な藤があります。
花の時期には長く美しい花の房を垂らし、まるで砂を擦るかのような勢いであることからそう呼ばれています。
当社は藤原氏の氏神であり、また下り藤を神紋としていることから、藤の花は鹿と共に当社を象徴するもので大変親しまれています。
特別参拝
特別参拝(初穂料500円)を申し込むと、幣殿・舞殿から奥の空間へ入ることができ、御蓋山の遥拝所や中門前に進んで参拝することができます。
特別参拝の受付を済ますとまず見えてくるのが「井栗神社」(御祭神「高御産霊神」)と「穴栗神社」(御祭神「穴次神」)。それぞれ廻廊内の東側に鎮座しています。
続いてその少し北側に「辛榊神社」(御祭神「白和幣」)と「青榊神社」(御祭神「青和幣」)が鎮座。
以上の四社は奈良県奈良市横井に鎮座する「穴栗神社」に祀られる神で、伊栗神社と穴栗神社はそこからの勧請であると伝えられています。
幣殿・舞殿の奥側(北側)の空間は「林檎の庭」と呼ばれています。
神楽や舞楽が行われる場所で、南西隅に林檎の樹があるためそう呼ばれています。
この林檎の結実の多寡でその年の豊凶を占ったと言われています。現在の樹は昭和三十二年に献じられたもの。
案内板
林檎の樹
林檎の庭の奥(北側)の高台となった空間に中門が建っています。
中門は檜皮葺・平入入母屋造の一間一戸の楼門で、左右に翼のように御廊が伸びた大変優美な建築です。
正面の唐破風は明治年間に新しく付けられたものですが全体的には桃山時代の貴重な建築で、国指定重要文化財となっています。
特別参拝の際はこちらで参拝することになっており、拝殿としての機能を持っています。
この後方に四棟の檜皮葺・一間社春日造の本殿が建っており、国宝に指定されていますが、参拝者は殆ど見ることが出来ません。
廻廊内の銅製の灯籠。かなり立派なものです。
一旦東廻廊へ。当社の廻廊は東西南北の全てが国指定重要文化財となっています。
廻廊は鮮やかな朱に塗られると共に多数の吊灯籠が吊るされ、この光景は非常によく知られています。
東廻廊から東側へ出入りすることが可能となっています。東廻廊の東側は山の斜面に接しており細長い空間になっています。
東廻廊の東側には「御蓋山浮雲峰遥拝所」があり、切妻造の簡素な拝殿と鳥居が山頂へ向かって設けられています。
当社の御祭神である武甕槌命が安倍山から遷って降臨したとされ、また現在も「本宮神社」が鎮座する御蓋山の浮雲峰の遥拝所です。
当社が鎮座する以前からの聖地だったと考えられ、極めて神聖な地として現在も禁足地となっています。
当地における祭祀の根本が現在もこのようにして受け継がれています。
案内板
御蓋山浮雲峰遥拝所
当社は朱に塗られた廻廊で四方を囲んでいますが、遥拝所のある北東側だけ板葺の築地塀となっています。
元々は全て築地塀だったのが治承三年(1197年)に廻廊に改築されたものの、本殿から見て鬼門にあたる北東側は築地塀のままにされたと言われています。
案内板
廻廊東北角の築地
道を戻り再び中門前へ。中門の左側(西側)には非常に大きな杉が聳えており、高さ25m程で樹齢は800年~1000年ほどと推定されています。
その根元には「岩本神社」が北向きに鎮座。御祭神は「表筒男命」「中筒男命」「底筒男命」。
中世には「住吉社」と呼ばれ、近世の社務日記には春日祭においてこの神社の前で蹲踞する旨が書かれています。
案内板
本社大杉
大杉から北へ。中門の西側から北へ伸びる御廊にこのような屋根付きの階段があり、「捻廊(ねじろう)」と呼ばれています。
春日祭に奉仕する斎女や内侍が昇殿するための施設で、江戸時代に飛騨の伝説的大工である左甚五郎がこのように斜めに捻じれたものに改造したと伝えられています。
国指定重要文化財。
案内板
重要文化財 捻廊 一棟
捻廊の北側に「風宮神社」が南向きに鎮座しています。御祭神は「級長津彦命」「級長津姫命」。
瑞垣内、社殿の左側(西側)にイスノキ、ヤマザクラ、ツバキ、ナンテン、ニワトコ、フジ、カエデの七種が共生する珍しい木があり、「七種寄木(なないろのやどりぎ)」と呼ばれています。
風宮神社の威徳により風で種が集められたと伝えられ、子授けの霊木として信仰され、紙縒りに願い事を書いて結びつけると叶うとも言われています。
案内板
風宮神社
案内板
七種寄木
本社本殿の後方の空間にいくつかの境内社が鎮座しており、この空間へ立ち入ることはできませんが檜皮葺・切妻造の棟門である後殿御門から参拝できるようになっています。
この空間に鎮座する神社は次の通り。
- 「八雷神社」(御祭神「八雷大神」)
- 「栗柄神社」(御祭神「火酢芹命」)
- 「海本神社」(御祭神「大物主神」)
- 「杉本神社」(御祭神「大山咋神」)
- 「佐軍神社」(御祭神「布津之霊大神」)
後殿御門の傍らに「椿本神社」が南向きに鎮座。御祭神は「角振神」。
「隼明神」とも称し、一説に京中の式内社「隼神社」の元になった神社とも言われています。
春日明神の眷属であり天狗を追い払う神であると古い記録に見えます。椿の木がこの付近にあったからこの社名になったとも。
案内板
椿本神社
椿本神社の西側に「多賀神社」が南向きに鎮座。御祭神は「伊弉諾命」。
平安末期~鎌倉初期に東大寺を中興した重源が多賀の神から寿命を延ばしてもらったことで大仏殿の再建が叶ったとされ、現在も「延命長寿」の幡が多数奉納されています。
また藤棚があり、砂ずりの藤と共に春日大社における藤の名所となっています。
案内板
多賀神社
多賀神社の南側、風宮神社の西側に「宝庫」があります。
檜皮葺・平入切妻造で朱に塗ららた非常に鮮やかな建物で、国宝の大鎧をはじめ春日大社の所蔵する多くの宝物はかつてここに納められていました。
国指定重要文化財。
宝庫の南側には「内侍殿」があります。かつて春日祭において奉仕した内侍(女官)の控室でした。
この建物は20年に一度の式年造替において本社と若宮の神を遷す仮殿としても使われるので「移殿」とも呼ばれています。
国指定重要文化財。
内侍殿の南側に「直会殿」があります。
檜皮葺・切妻造で桁行八間・奥行四間の大規模な建築。春日祭において直会の儀式が行われる場所です。
国指定重要文化財。
榎本神社
春日大社の廻廊の南西隅に「榎本神社」が南向きに鎮座。御祭神は「猿田彦大神」。
南門の西側の石段上の廻廊内に鳥居が建っているのが見えます。そこに当社は鎮座しています。
鳥居に接続した透塀に囲われて鎮座しており、社殿は檜皮葺の一間社春日見世棚造となっています。
先述の通り廻廊内に鎮座しており、神社の鎮座地としては異様な立地です。
当社の詳細については上記の概要をご覧ください。
案内板
摂社 榎本神社
お知らせ
春日大社には廻廊の外にも極めて多くの摂社・末社がありますが、これらを紹介すれば非常に膨大な量となるので一旦割愛させていただきます。
御朱印
由緒
案内板
春日大社
地図
関係する寺社等
枚岡神社 (大阪府東大阪市出雲井町)
社号 枚岡神社 読み ひらおか 通称 枚岡大社 等 旧呼称 平岡社 等 鎮座地 大阪府東大阪市出雲井町 旧国郡 河内国河内郡出雲井村 御祭神 天児屋根命、比売御神、経津主命、武甕槌命 社格 式内社、河 ...
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