社号 | 忍坂坐生根神社 |
読み | おしさかにますいくね |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県桜井市忍阪 |
旧国郡 | 大和国式上郡忍阪村 |
御祭神 | 少彦名神 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月17日 |
忍坂坐生根神社の概要
奈良県桜井市忍阪に鎮座する式内社です。
当地の地名「忍阪(おっさか)」は『倭名類聚抄』大和国城上郡の「忍坂郷」の遺称であるのみならず、和歌山県橋本市隅田の「隅田八幡宮」が所蔵する国宝「人物画像鏡」(五~六世紀頃の製作)に男弟王なる人物が「意柴沙加宮」にいた旨の銘文があり、銘文の解釈は定まっていないものの極めて古い地名であることは間違いありません。
允恭天皇の皇后である「忍坂大中姫」など、古代には忍坂を名に持つ人物も数多く見られ、当地と関連のある人物だったことが推測されます。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。天平二年(730年)の正倉院文書『大倭国正税帳』に記載されている「生根神」は当社とされており、少なくともこの頃には当社は存在していたようです。
当社は本殿を持たず、背後の「忍坂山(外鎌山)」を神体山とし、拝殿後方には自然石数十個を並べて磐座としています(未確認)。
大阪府大阪市住吉区住吉に「生根神社」が鎮座しており当社と関係のある可能性もありますが、当社の祭祀状況を見ればやはり背後の山を神の宿る神奈備、神体山として祭祀した素朴で古い自然信仰に始まると考えるのが妥当でしょう。
『万葉集』にも忍坂山について「隠国(こもりく)の 泊瀬の山 青幡の 忍坂の山は 走り出の 宜しき山の 出で立ちの くわしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも」と歌われています。「宜しき山」と言わしめるほど印象的な山だったのでしょう。
なお、これは挽歌(人の死を悲しみ悼む歌)であり、「荒れまく惜しも(荒れるのは惜しい)」と歌われているのは忍坂山が葬送の地とされたからとも言われています。それを証するようにこの山には100以上もの古墳が存在していることが知られています。
一方、大同三年(808年)に成立した日本最古の医学書である『大同類聚方』には「以久禰(イクネ)薬」なる薬が登載されており、これによれば当社に伝わるものであり額田部連等の上奏したもので、妊娠した女性の不調に用いるものであるとあります。
また同書には「志紀乃加美(シキノカミ)薬」なる薬も登載されており、これも当社に伝わるもので、咳が激しく胸や肩が痛む際に用いるものであると記されています。
このように当社では複数の薬の製法が伝わっていたようで、現在の当社の御祭神が「少彦名神」であるのも医薬の神として祀られたものであると思われます。
一方で上記の「以久禰薬」が額田部連等の奏上したものである点から当社を額田部氏が奉斎したものとし、当社の祭神も額田部氏の祖神である「天津彦根命」であったとする説もあります。
『新撰姓氏録』の大和国を見れば神別氏族として天津彦根命の三世孫、意富伊我都命の後裔であるという「額田部河田連」が見えます。
ただし大和国の額田部氏は現在の奈良県郡山市額田部付近が本拠地と見られ、「河田」もその近隣の地名である天理市嘉幡町に関係があると思われ、この氏族が当社を奉斎したとするのはやや苦しいでしょう。
また額田部氏は複数の系統があり、天津彦根命を祖とする系統の他にも明日名門命を祖とする系統、神魂命系を祖とする系統もあります。
「以久禰薬」を額田部連等が奏上した点から当社と額田部氏に何らかの関わりがあったことは考えられるものの、その額田部氏を特定することは困難であり、またこれを以て当社を奉斎した証であるとも言えないため、何とも言えないところです。
ただ当地は上記「人物画像鏡」にも見える地名であり、雄略天皇の皇居「泊瀬朝倉宮」からもほど近い地で、五世紀頃には特に重要な地であったことが考えられます。
邪推するならば、当社の祭祀もその頃に印象的な山である忍坂山に都の守護神として神籬を設け祀ったのが始めだったのかもしれません。
境内の様子
当社は大和国中(奈良盆地)と宇陀とを結ぶ忍坂街道沿い、忍坂山(外鎌山)の西麓に鎮座しています。
当社境内の外縁は石垣が積まれており、鳥居等はありませんが南側にある石段が境内への入口となります。
石段を上った様子。広く開放的な空間となっており、奥には再び石垣が積まれています。
入口の石段を上ってすぐ正面に大きな手水鉢が配置されています。
境内奥の石垣の前には多くの石灯籠がズラッと並んでいます。
石垣の上には瑞垣を設けて社殿の建つ空間を区画しており、石垣の中央に伸びる石段から社殿へ至ります。
石段の上には鳥居が西向きに建ち、そのすぐ奥に社殿が西向きに建っています。
鳥居前に配置されている狛犬。砂岩製で縦に長い印象。赤い涎掛けもアクセントになっています。
当社の社殿は拝殿があるのみで、本殿はありません。
拝殿は簡素な銅板葺・妻入切妻造の建築。千木と鰹木も前後に設けられています。
確認していませんが、背後に石を並べた磐座らしきものもあるようです。
石垣の左端(北側)にも石段があり、その上に鳥居が西向きに建っています。
その鳥居をくぐったところに「天満神社」が西向きに鎮座。御祭神は「菅原道真公」
銅板葺の春日見世棚造で、全体が朱に塗られています。
その他、中央の石段の左右にそれぞれ境内社「神女神社」(御祭神「大宮女命」)および「愛宕神社」(御祭神「火産霊神」)が鎮座していますが記録を失念していました。
境内の隅にこのような岩石があり、注連縄が掛けられています。
案内板には「陰陽石が一基あり」とあり、恐らくこれを指すのでしょう。
境内の北側の一帯は遊具が設置されており、子供たちの遊び場となっています。
一旦境内の外へ。境内外縁の石垣には入口の石段とは別に、その北側にも狭い石段が設けられています。この石段は本社社殿の真正面にあたるところです。
この石段には縄が掛けられ、そこから杉の枝を添えた縄が三本垂れ下がった特殊なものです。小型の勧請縄と言うべきもので、注目すべきものです。
当社近隣から見る「忍坂山(外鎌山)」。左側がその山頂ですが、当社は右側の峰の麓に鎮座しています。
いずれにせよこれらの山々が当社の神体山であると考えられます。
由緒
案内板
忍坂坐生根神社
地図