社号 | 多坐彌志理都比古神社 |
読み | おおにますみしりつひこ |
通称 | 多神社 等 |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県磯城郡田原本町多 |
旧国郡 | 大和国十市郡多村 |
御祭神 | 神倭磐余彦尊、神八井耳命、神沼河耳命、姫御神 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 4月第3日曜日 |
多坐彌志理都比古神社の概要
奈良県磯城郡田原本町多に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、古くは極めて有力な神社だったようです。
当地に「多氏」が居住し彼らが神を奉斎したのが当社であると考えられます。
多氏の祖と「ミシリツヒコ」
『新撰姓氏録』には左京皇別に神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔である「多朝臣」が登載される他、多くの同族が登載されています。
記紀においても「神八井耳(カムヤイミミ)命」は多氏の祖であることが記されており、もし当社が多氏の祖を祀った神社ならばこの人物を祭神として祀ったことが考えられそうです。
しかし社名が示すように当社は「彌志理都比古(ミシリツヒコ)」なる神を祀ることが明らかです。この神は記紀などの史料に登場せず、いかなる神なのか、多氏とどのような関係にあたる神なのかはっきりしません。
『延喜式』神名帳には二座とあるため、神八井耳命と彌志理都比古の二神を祀ったことが一説に考えられる一方、神八井耳命と彌志理都比古は同一の人物とする説もあります。
カムヤイミミは上述のように神武天皇の皇子で、弟にカムヌナカワミミがおり、これが後の綏靖天皇となります。綏靖天皇の即位前に異母兄のタギシミミはこの二人を暗殺しようと企てますが、この経緯について『日本書紀』綏靖天皇即位前十一月の条に次のように記されています。
『日本書紀』(大意)
カムヌナカワミミは兄のカムヤイミミと共にその企て(タギシミミによる暗殺)を知り、これを防ごうとした。
弓と鏃と矢を造らせ、カムヌナカワミミはタギシミミを返り討ちにしようとし、タギシミミが片丘の大室で一人で寝ていた際にカムヌナカワミミはカムヤイミミに「今こそ好機である。私が家の戸を開けるからお前が仕留めて欲しい」と言った。
二人は共に大室に入り、カムヌナカワミミが戸を開けたところ、カムヤイミミは手足が震えて矢を射ることができなかった。そこでカムヌナカワミミは兄の持っていた弓矢を取ってタギシミミを射殺した。
カムヤイミミはこれを恥じ、カムヌナカワミミに「私はお前の兄だが、気が弱くて物事を果たせない。ところがお前は武勇に優れ、自ら悪を誅した。お前が即位して皇祖の業を継承するべきである。私はお前を助け、神々の祭祀を行おう」と言った。
『古事記』にも同様の事蹟が記してあります。このように兄であるカムヤイミミは自らの力不足から弟のカムヌナカワミミに皇位を譲ったとされています。
ここから当社の祭神である「ミシリツヒコ」とは「身を退いた者」の意でカムヤイミミを指すとも言われており、「彌志理都比古」=「カムヤイミミ」説の一つの論拠となっています。ただし語呂合わせ的な付会である印象が否めません。
『多神宮注進状』の記述
一方、久安五年(1149年)に当社の禰宜が国司に提出した『多神宮注進状』の内容が伝わっており、それによれば当社の御祭神は次の二柱となっています。
- 「珍子 賢津日霊神尊(ウツノミコ サカツヒコノミコト)」皇像(みかた)瓊玉に坐す(裏書に「天忍穂耳尊、河内国高安郡春日部坐宇豆御子之社と同体異名」とあり)
- 「天祖 賢津日孁神尊(アマツオヤ サカツヒメノミコト)」神物(くましろ)圓鏡に坐す(裏書に「天疎向津媛命、 春日部坐天照大神之社と同体異名」とあり)
聞き慣れない神名ですが、前者はつまり「天忍穂耳尊」で、河内国高安郡の式内社「春日戸社坐御子神社」(現在は大阪府八尾市山畑に鎮座する「佐麻多度神社」の境内社「山畑神社」に比定)の神と同じ、後者はつまり「天疎向津媛命」すなわち天照大神の荒魂で、河内国高安郡の式内社「天照大神高座神社」(大阪府八尾市教興寺に鎮座)の神と同じ、ということのようです。
(なお一般には「天疎向津媛命」といえば「廣田神社」(兵庫県西宮市大社町に鎮座)の神として知られる)
この両神は母子神であると共に、稲穂を神格化したアメノオシホミミと太陽神たるアマテラスとも言え、農耕の象徴として祀ったものとも考えられます。
ただし両神は(皇別氏族なので系譜上は繋がるとはいえ)多氏と直接関係するものではありません。
記紀にカムヤイミミがカムヌナカワミミ(綏靖天皇)を助け神を祭祀すると言ったとあるため、多氏の祖というよりは皇室の守護神として祀ったものだったのかもしれません。
ただ、やはりこの両神(とりわけ「珍子 賢津日霊神尊」)がミシリツヒコなる神名とどのように結びつくのかはっきりしない点に疑問は残ります。
また『多神宮注進状』には当社の創建由緒として次のように記しています。
- 綏靖天皇二年春に神八井耳命が春日県(後の十市県)に大宅を造り、神籬磐境を立て、自ら皇祖天神の神事を司り、県主の遠祖である大日諸命(鴨王命の子)を神主として祀った。
- その後崇神天皇七年に神八井耳命の子孫の武恵賀前命に詔があり、神祠を改めて作り、珍御子命皇御孫命、新宝天津日瓊玉矛天爾鏡剣神を奉斎し(?)、社地を太郷と名付けた。
一部意味がはっきりしない部分があるものの、記紀にある通りカムヤイミミが自ら祭祀を行い、子孫の代には社殿を整備しことが記されており、現在も概ねこれが当社の創建由緒となっています。(ただし一般に神社としての祭祀形態が成立したのはこれよりかなり時代が下る)
『五郡神社記』の記述
一方、室町時代の文書『和州五部神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)には当社の神は四座で、「水知津彦(ミシリツヒコ)神」「火知津姫(ヒシリツヒメ)神」の二座を左に祀って大宮と称し、「彦皇子神命」「姫皇子神命」の二座を右に祀って若宮と称すと記しています。
ここではミシリツヒコを水知津彦と解し、水を司る神であることを示唆すると共に、それに対応する形で火の神であろう火知津姫を祀っていることになります。
天忍穂耳尊と天疎向津媛命がそれぞれ水知津彦神と火知津姫神にあたるとも考えられそうですが、『多神宮注進状』には見えないため当初からそうだったかは不明です。ただ一つの解釈としては十分に考慮に値するものでしょう。
その他の記録および中世以降の様子
その他当社についての記録を見ると、天平二年(730年)の『大和国正税帳』に当社が見え、これが記録上の当社の初見でもありますが、そこには神戸として稲10552束5把、租として138束4把、併せて10690束9把というとんでもない量の稲を抱えていたことが記されており、他の神社の群を抜いて圧倒的な経済力があったことが窺えます。
神階昇叙の記録は国史では『三代実録』貞観元年(859年)正月二十七日の条の正三位が最後となりますが、永治元年(1141年)の『多神宮注進状草案』では正一位となっており、現在も当社の鳥居には「正一位勲一等多大明神」と揮毫された扁額が掲げられています。
中世以降も多郷28ヶ村の総鎮守として篤い崇敬を集め、近隣に所在する多くの境外社と共に当地における一大信仰拠点となっていたようです。
現在の当社の御祭神は「神倭磐余彦尊(=神武天皇)」「神八井耳命」「神沼河耳命」「姫御神(=玉依姫)」の四柱で、『多神宮注進状』などの記述とは異なり多氏の祖である神八井耳命とその関係神が祀られています。
また当社を奉斎した多氏からは『古事記』を編纂した太安万侶を輩出したことから、近年も『古事記』編纂1300周年にあたる2012年には当社が大いに注目されました。
現在も当社は奈良盆地南部の低地に鎮座する神社としては非常に有力な神社となっており、多氏の神社としてのみならず、『古事記』ゆかりの神社としても多くの人が訪れています。
境内の様子
当社は多地区の北西、集落から西へ続く道の北側に鎮座しています。
道に面して玉垣と灯籠が配置され、境内入口となっています。
なお当社は入口の東方約750m、多地区の集落東方の寺川沿いに鳥居が建っており、そこが一の鳥居となっています。(未訪)
入口から参道を進んでいくと木星の鳥居が南向きに建っており、これが当社の二の鳥居にあたります。
二の鳥居には「正一位勲一等多大明神」と揮毫された扁額が掲げられています。
正史には当社が正一位に叙せられた記録はありませんが、永治元年(1141年)の『多神宮注進状草案』から当時当社が正一位となっていたことが知られています。
二の鳥居の先は社殿までまっすぐの参道となっており、この参道の右側(東側)は灯籠がびっしりと並んでいます。
途中に灯籠の切れ間があり、そこに手水舎が建っています。
参道を進むと正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造りに妻入切妻造の向拝の付いたもの。比較的新しい建築です。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製のやや大きなもの。
拝殿には多氏から輩出した太安万侶に因むものと思われる「まろちゃん」なるゆるキャラの看板が立てかけられています。
拝殿後方の石垣上に瑞垣・塀に囲まれて四棟の一間社春日造の本殿が並んでいます。また瑞垣の中央に建つ鳥居は中門を兼ねています。
それぞれの本殿の御祭神は次の通り。
- 第一殿 「神武天皇」
- 第二殿 「神八井耳命」
- 第三殿 「神沼河耳命」
- 第四殿 「姫御前」
第一殿と第二殿は棟木の墨書から享保二十年(1735年)の再建であると推測され、第三殿と第四殿についてもほぼ同時期かやや遅れて建立されたものと見られ、貴重な建築として奈良県指定有形文化財となっています。
境内社
当社の境内社は参道に沿っていくつか鎮座しています。本社社殿に近い側から紹介していきます。
本社拝殿前の右側(東側)に境内社が西向きに鎮座。社名・祭神は不明。
社殿は銅板葺の流見世棚造。
上の境内社の立地はこのような感じ。
参道の東側に灯籠が建ち並んでおり、その奥に境内社が鎮座しているため目立たないものとなってしまっています。
さらに南側、手水舎の右隣(南側)に鎮座する境内社。社名・祭神は不明。
社殿は西向きで、鉄板葺の春日見世棚造。
上の境内社の右側(南側)に鎮座する境内社。こちらも社名・祭神は不明。
社殿は西向きで、銅板葺の流見世棚造。基壇が単管パイプで組まれた簡易なものとなっています。
上の二社の立地はこのような感じ。
やはり参道東側の奥まったところにあり目立たない存在となっています。
さらに参道を南へ戻り、二の鳥居の手前右側(東側)に三社の境内社が一つの基壇上に西向きに並んでいます。
中央の神社は「春日神社」、右側の神社は「石上神社」と辛うじて社名を記した札が読めますが、左側の神社は不明。
社殿はいずれも鉄板葺の春日見世棚造。
上の三社の立地はこのような感じ。
上の三社の向かい側、二の鳥居手前の左側(西側)に「八幡神社」が東向きに鎮座。
社殿は鉄板葺の春日見世棚造。
上の八幡神社の立地はこのような感じ。
この神社のみ参道の西側に鎮座しています。
当社周辺には当社と関係の深い神社が数多く鎮座しています。これらは別記事にて紹介する予定です。
由緒
案内板
多坐弥志理都比古神社(多神社)
案内板
多座彌志理都比古神社
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