社号 | 大鳥神社 |
読み | おおとり |
通称 | 大鳥大社、大鳥さん |
旧呼称 | |
鎮座地 | 大阪府堺市西区鳳北町 |
旧国郡 | 和泉国大鳥郡大鳥村 |
御祭神 | 日本武尊、大鳥連祖神 |
社格 | 式内社、旧官幣大社、和泉国一宮 |
例祭 | 8月13日 |
大鳥大社の概要
大阪府堺市西区鳳北町に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、また中世以降は和泉国の一宮とされ、大阪府でも有数の有力な神社です。
当社の創建は中臣氏の一族である「大鳥氏」が祖神を祀ったことによると考えられています。
『新撰姓氏録』和泉国神別に天児屋根命の後裔であるという「大鳥連」が登載されており、この氏族が奉斎したものと思われます。
同様に『延喜式』神名帳の和泉国大鳥郡において「大鳥」と名乗る神社、すなわち「大鳥神社(現在の大鳥北浜神社)」、「大鳥美波比神社(当社境内社 / 後述)」、「大鳥井瀬神社」、「大鳥浜神社」と併せ、「大鳥氏」が大鳥郡において大きな勢力を持ちこれらの神社を統括していたことが推測されます。
なお、当社とこれら四社を併せて「大鳥五社」と呼ばれています。
一方で当社は古くから「日本武(ヤマトタケル)尊」に関する神社とされ、社伝によれば「ヤマトタケル」の薨去の後、伊勢の能保野陵で葬られたところ白鳥となって飛び立ち、大和国の琴弾原、そして河内国の古市に舞い降り、さらに当地に留まったので社を建てて日本武尊を祀ったのが創建であるとしています。
記紀では白鳥となった「ヤマトタケル」は古市から先のことについて書かれていません。当地に留まって日本武尊が祀られたとする伝承は当社の「大鳥」の社名から関連付けられて発生したものであると思われ、長らく当社の御祭神とされていました。
この伝承は相当根強かったようで、明治年間に当社の祭神が「大鳥連祖神」に決定された後も神社側は「ヤマトタケル」を祀ることを強く要請し、一旦は通達により取り下げられましたが昭和三十二年(1957年)に許可が出て「日本武尊」と「大鳥連祖神」の二柱を祀ることとなり現在に至っています。
当初は「大鳥氏」の奉斎した名神大社だったとはいえ、中世以降も和泉国一宮として地位を保ったのは、「ヤマトタケル」を祀るとする伝承が生まれ、武神として信仰されたからだとも言えるかもしれません。
平清盛・重盛父子が熊野詣の際に当社に立ち寄り和歌を詠んだことが知られ、さらに織田信長、豊臣秀頼といった権力者も当社を庇護しました。
その一方で和銅元年(708年)に行基により創建された神宮寺、「大鳥山勧学院神鳳寺」も当社と軌を一にし、特に江戸時代の寛文年間に当社と神鳳寺が再建されてからは大いに栄えたと言われています。この神鳳寺も明治の神仏分離により廃寺となりました。
大鳥美波比(オオトリミハヒ)神社
「大鳥大社」の境内に鎮座する式内社です。御祭神は「天照大神」。上述の通り「大鳥五社」の一社。
社伝によれば、垂仁天皇の十八年に天照大神が白鳳となって上野峯(鉢峰)に始現し、景行天皇二十四年に託宣により武内宿禰が祠を建てたと伝えています。
この「上野峯(鉢峰)」とは不明ながら、一説に現在の堺市南区鉢ヶ峯寺に鎮座する「国神社」の地であるとも言われています。
後に当社は遷座したようで、大鳥大社の南方、鳳南町地区(旧・北王子村)の個人宅に鎮座していましたが、明治十二年(1879年)に大鳥大社境内の旧・神鳳寺五重塔跡に、昭和九年(1934年)に現在地である旧・神鳳寺本堂跡に遷座しました。
押別(オシワケ)神社
「大鳥美波比神社」に合祀された式内社です。御祭神は不明ながら、景行天皇の皇子「押別命」であるとする説があります。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
元は大鳥大社の南方、現在の鳳駅の東側のある商店街の辺りに鎮座していたようですが、明治四十二年(1909年)に神社合祀政策により「大鳥美波比神社」に合祀されました。
別名として「別松宮」とも呼ばれていたようです。
境内の様子
境内入口。現在は境内の西側に表参道があり、一の鳥居が西向きに建っています。
鳥居前の両脇に配置されている狛犬。花崗岩製。
参道はやや複雑で、鳥居から真っすぐに進んだ後、突き当りから右へ曲がり「コ」の字型に進んで社殿のある空間へ入る形になります。
なお、当社境内の森は非常に鬱蒼としており、「千種(チグサ)の森」と呼ばれています。社伝では、白鳥となった日本武尊が当地に留まった際、一夜にして樹木が生い茂り森となったと伝えられています。
石畳の敷かれた参道を進んでいくと社殿の建つ空間へと至り、その前にいかにも官幣大社らしい木製の神明鳥居である二の鳥居が南向きに建っています。
この鳥居は柱が六角柱であることが特徴。
二の鳥居前の空間左側(西側)に手水舎があります。
二の鳥居をくぐると正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は檜皮葺の妻入切妻造に庇の付いたもので、壁の無い吹き放ちの構造。
拝殿後方、中門と透塀に囲まれて建つ本殿はよく見えないものの「大鳥造」と呼ばれる当社独特の造りです。
大社造によく似た妻入の切妻造ですが、屋根は直線で扉は中央に設けられている等の違いがあり、古い形式を残しています。
拝殿や本殿などの社殿は明治三十八年(1905年)に落雷によって焼失し、現在のものは明治四十二年(1909年)に再建されたものです。
なお、江戸時代の地誌『和泉名所図会』の挿絵は現在と様子が異なっており、拝殿が割拝殿形式だったと思われる他、参道の配置等から本来は南向きでなかった可能性があります。
社殿前の「おがたまの木」。いずれも堺市指定保存樹木となっています。
当社は上記「千種の森」が玉垣で隔てられており、樹木の密集する空間と人の通行する空間が比較的厳密に分離されていますが、後者にもこのように貴重な樹木がところどころで見られます。
境内社等
本社社殿の前方東側には式内社の「大鳥美波比神社」が西向きに鎮座。式内社「押別神社」はこちらに合祀されています。この地は元々は神宮寺「神鳳寺」の本堂跡だったと言われています。
鳥居が建ち、奥に拝殿と本殿の建つ本格的な造りとなっています。
大鳥美波比神社の鳥居前の狛犬。見るからに古そうなものです。本社に配置されていたものが転用されたのでしょうか。
鳥居をくぐって正面奥に建つ拝殿は銅板葺の平入入母屋造、さらにその後方の本殿は銅板葺の一間社流造です。
大鳥美波比神社の手前左側(北側)に境内社が南向きに鎮座。御祭神は「織姫大神」「稲荷大神」「宗像大神」「火鎮大神」。
近隣に鎮座していた神社をここに合祀しているようです。
社殿は銅板葺、真っすぐな屋根の妻入切妻造で庇の付いたもの。「大鳥造」を小型化したものと言えそうです。
境内にある「日本武尊」の銅像。
当社は中臣氏の一族「大鳥氏」が祖神を祀ったと考えられる一方、古くから「日本武尊」を祀るとされてきました。
当社における「日本武尊」への信仰は根強く、明治年間に当社が「大鳥連祖神」を祀ることになった時も当社は「日本武尊」を祭神とするよう強く働きかけたほどです。
境内西側にある絵馬殿兼休憩所。本瓦葺の入母屋造で、本社社殿側(東側)は完全に吹き放ちになっています。
当社は先述の通り明治の落雷により社殿が建て替えられ、境内は比較的新しい建築ばかりですが、この建築は古いもののように感じます。恐らく江戸時代からある何らかの建物を転用したのではないでしょうか。
境内の南側には菖蒲園があります。毎年6月上旬頃は美しい花菖蒲が一面に咲き誇り、参拝客の目を楽しませてくれます。
※2018年の台風21号で被害を受けたため、菖蒲園は2023年現在公開を停止しています。
タマ姫
和泉国の一宮だけあって大きな神社だね!日本武尊の銅像があるし、日本武尊にゆかりの神社なのかな。
神社の由緒としては古くからそのように伝えられているわ。でも元々は中臣氏の一族の大鳥氏が奉斎したと考えられているのよ。
トヨ姫
御朱印
由緒
案内板
大鳥大社由緒
+ 開く
祭神
日本武尊
大鳥連祖神
例祭
八月十三日
御増祀記念大祭
三月十五日
当社はその起源古く古来大鳥大明神と称せられ延喜式名神大社であり和泉国一の宮である
日本武尊は景行天皇の皇子にして勅を奉じ熊襲並に東国を平定、帰途伊吹山の賊を平げたとき病を得て伊勢国熊褒野に薨じ給うたが御屍は白鳥と化し御陵を出て大和国琴引原、次に河内国古市にとび最後に此の地に留り坐したので社を創建、之が当社の起源と伝える
又、大鳥の連祖神は大中臣と元を一にし祖先は天の岩戸開きに功を立てた天児屋根命である
聖武天皇の御世には僧行基が勅願により神宮寺としてこの地に勧学院神鳳寺を建立したが明治の神仏分離により廃寺となり当社は明治四年五月官幣大社に列格
社殿は大鳥造と称して神社建築史上貴重な様式を今に伝えている
案内板
大鳥大社
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御祭神は、日本武尊と大鳥連祖神の二柱であり、和泉国一宮にあたる延喜式内社です。同じく式内社の大鳥北浜神社・大鳥美波比神社・大鳥井瀬神社・大鳥羽衣浜神社と併せて、大鳥五社明神と呼んでいます。
本殿は、神社建築史上、大社造につぐ古い形式で、大鳥造と呼ばれている切妻造の妻入り神社建築ですが、明治38年に焼失し、同42年に造営されたものです。
神域は千種の森といわれ、樹木が密生しています。白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったという伝説もあります。
平清盛・重盛父子も、平治元年(1159)熊野参詣の途中当社に参拝し、清盛は
「かひこぞよ かへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神」
と詠み、のちに、富岡鉄斎(当社大宮司)の筆による石碑が建てられました。
境内には、与謝野晶子歌碑もあります。
由緒書
大鳥大社由緒略記(通称大鳥さん)
+ 開く
一、神社名
大鳥大社
一、鎮座地
大阪府堺市西区鳳北町一丁目一番地
一、御祭神
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
大鳥連祖神(オオトリムラジノミオヤノカミ)
一、例祭
八月十三日
一、由緒沿革
当社は醍醐天皇延喜式神名帳所載の名神大社であり、月次新嘗の官幣に預かり、和泉国の一の宮として、歴代皇室の御尊崇極めて篤く殊に防災雨祈の御祈願社八十五社の一であって、縷々臨時奉幣に預かり、御神階も清和天皇貞観三年七月には十三位に叙せられ、後正一位に御昇階になりました。
御祭神日本武尊様は景行天皇の第二皇子で、その武勇は広く知られているところでありますが、社伝によりますと日本武尊が東夷御征討の帰途、俄に病にお罹りになり、伊勢国能褒野に於て薨去遊ばされ、その御屍は白鳥と化して飛び去り給ひ、最後に当初に来り留まられましたので、社を建立して尊様をお祀りしたのが当社の起源であって今から約一、八五〇有余年前であります。
又、大鳥連祖神様は、此の和泉国に栄えた神別であられ大中臣と祖先を一にする。大鳥氏と言う部族の先祖をお祀りしたもので、新撰姓氏録には天児屋根命を祖先とすると伝えられて居ります。当社は明治四年五月祭神日本武尊として官幣大社に列格になりましたが、明治九年一月天覧に供しました官社祭神考証に於ては、祭神大鳥連祖神とせられ、明治九年以来この説が公のものとせられていたので、爾来当社歴代の宮司は度々御祭神の御変更方を稟請致しましたが、遂に明治廿九年十月三日 付を以て、「上奏相成候官社祭神考証に於て大鳥連祖神と確定相成居候条左様御承知有度」との時の内務省社寺局長の通達回答がよせられて、当時としてはこれ以上は神社側の主張を通す方法はなかったのでありましたが、偶々昭和三十二年六月廿八日付にて、祭神日本武尊増祀の御充許を得ることになり、茲に御祭神に関する問題も決裁し日本武尊様を主祭神とする弐座の御社となり、御神慮に御応へ申すことが出来たのであります。
御祭神の御神徳は文武の神として、累代の武家の崇敬が篤く、平清盛、同重盛父子が熊野参詣の途次、当社に祈願し、和歌及び名馬を奉献したのを始めとして、織田、豊臣、徳川の三武将も社領の寄進、社殿の造営等を再度に亘って奉仕して居ります。又、聖武天皇の御宇には、僧行基が勅願を奉じて、この地に勧学院神鳳寺を建立しましたが、明治維新の神仏分離によって廃寺となりました。
一、社殿
本殿は大鳥造と申しまして、神社建築史上一種の様式を保っており、その構造は出雲の大社造に酷似しており、切妻造、妻入社殿で出雲大社造に次ぐ古い形式を今日に伝えております。
社殿は天正年間の兵乱によって炎上し、慶長七年豊臣秀頼によって再興せられましたが、更に寛文二年には徳川家綱の命によって堺町奉行石河土佐守の手によって再建され、明治三十五年には特別保護建造物に指定されましたが、同三十八年八月に雷火の為に再度炎上し、現社殿は明治四十二年に従来の形式通りに再建されたものであります。
昭和九年国費で御屋根替、更に昭和三十六年御祭神日本武尊御増祀の為、造営奉賛会の手に依って内部の模様替と原型解体に近い大修理が行はれました。
一、鳳仙園及び菖蒲苑由緒
右は昭和三十一年七月当大社中の島附近の沼沢地帯を利用し、花菖蒲を植栽した時をきっかけに現在の様に整備拡充し、更に四十五年二月大池の埋立地を卜して造園を計画し、村木、小西両氏合作、施工の許に四十六年六月初旬完成したので御座います。
一、境内
面積一万五千坪、種々の樹木繁茂して洵に鬱蒼たる森で、往古白鳳が飛来して、この地に止まり、一夜にして種々の樹木が繁茂したとの伝へから、千種の森の名があり、珍らしい木が祖だっております。
その外、境内には平清盛が熊野参詣の途次、平治元年十二月当社に祈願して詠んだ
かひこぞよ かへりはてなば 飛びかけり かぐくみたてよ大鳥の神
の、歌碑があり、明治初年当社の大宮司であった富岡鉄斎翁の筆になるものです。
境内は千種の森の名に違はず、種々の樹木繁茂して、殊に春は吉野桜を始め、全国より集めた岡山、天の川等の里桜が、五月は平戸つゝじが真紅に社頭を彩り、六月中旬には菖蒲苑に明治神宮並に下坂氏の御寄贈の花菖蒲約百余種妍を競いて妙趣ありとの評を頂いております。
一、境内神社
摂社 美波比神社
御祭神 天照大神
相殿 菅原道真公
(由緒)
本社の境内東側に鎮座、もと当社は北王寺村御鎮座であったのを明治十二年に現在地に御移ししたものであります。主神の外七柱を合祀申し上げています。
摂社 大鳥北濱神社(堺市浜寺元町三丁鎮座)
御祭神 吉備穴戸武媛命(景行天皇の妃)
摂社 大鳥濱神社(高石市羽衣鎮座)
御祭神 両道入媛命(日本武尊の妃)
摂社 大鳥井瀬神社
御祭神 弟橘姫命
(由緒)
もと、当社は大鳥郡八田荘村大字堀上大明神山に鎮座されていたが、明治四十一年に堺市宿院にある本社の御旅所にお遷しし、今日に至っています。
一、恒例祭
一月一日 元旦祭
一月三日 元始祭
一月の第二月曜日 成人祭
二月三日 節分祭
二月十一日 紀元祭
二月十七日 祈年祭
三月五日 火鎮社祭
三月十五日 増祀記念祭
三月二十日 春分祭
四月十三日 花摘祭
五月三日 憲法記念祭
五月五日 子供の日祭
六月中旬 菖蒲祭
六月三十日 大祓式
七月三十一日 夏祭
九月二十三日 春分祭
十月五日 摂社例祭
十一月三日 明治祭
十一月酉の日 酉の市神事
十一月二十三日 新嘗祭
十一月二十八日 冬季祭
十二月二十三日 天長祭
十二月三十一日 除夜祭
同 大祓式
毎月一日・十五日 月次祭
『和泉名所図会』
+ 開く
大鳥大明神社
大鳥村にあり。延喜式神名帳曰、名神月次新嘗。和泉国一宮と賞す。例祭八月十三日。
祭神日本武尊 三代実録曰、貞観元年春正月和泉国大鳥神に従四を授く。同九月八日大鳥の神に詔して幣を奉り風雨の為に祷る。同三年秋七月二日大鳥の神に従三位を授く。
大鳥社流記云、
第一天太日孁尊 祭神、天照太神
第二大鳥爾波比神社 祭神、日本武尊
第三中津尼浜神社 祭神、両入媛命
第四大鳥鍬靫神社 祭神、穴戸武媛命
第五大鳥井瀬神社 祭神、弟橘媛命
大鳥社伝云、当社は景行天皇の皇子、日本武尊なり。同帝廿七年、日本武尊を遣して熊襲を撃しむ。御歳十六歳也。其勲功偉にして、又、同帝四十年、尊をして東夷を討しむ。出陣の時、道を抂て、伊勢皇太神宮に詣、斎宮倭姫命に草薙剣を授り、其より東夷を安く平げ、凱陣の時、伊勢国能褒野にて崩し給ふ(御歳三十)。即、其地に葬し奉る。陵より八尋の白知鳥に化し、倭国に飛去給ふ。群臣、其棺槻をひらいて見れば、明衣空く留て屍骨なし。使者を遣して、白鳥を尋しむ。則、倭国琴弾原にとゝ゛まる。又、こゝに陵をいとなむ。白鳥、更飛んで、河内国古市郡に至る。又、其地に陵を造りて、此三陵を時の人白鳥といふ。遂に、高く翔て、天に上り給ふ(已上日本紀)。其後、宮殿を同国大野里に建て、鎮座し給ふ。今の大鳥社、これ也。八尋の白知鳥を以て、大鳥大明神と号し奉る。むかし、白鳳飛来って、こゝにとゝ゛まる。これ、天照太神の所化なり。
羅山本朝地理志略云、和泉国大鳥社は、むかし、神化して白鳳と成来て、こゝに集る。故に、社を建て、これを祭る。号て大鳥といふ。
平治物語云、平清盛、同重盛、熊野に詣けるに、洛陽の兵乱を聞て、半途より帰る。和泉国大鳥ノ神社に至って、重盛、平日愛する飛鹿毛といふ名馬を神馬に奉る。清盛和歌を収む。
かひ子そよかへりはてなはとひかけりはこくみたてよ大とりの神 清盛
神宮寺 大鳥山勧学院神鳳寺といふ。本地堂には、釈迦、薬師、阿弥陀を安す。初は行基菩薩の開く所也。星霜累りて荒廃に及びしを、寛文の初め、真政円忍律師、真言律院を建て、当国の学校とす。社頭は、慶長七年十一月、豊臣秀頼公、泉州五社を復興す。其後、大坂一乱に、大鳥社、兵火に罹て破滅し、纔に、塔一基遺て荒野となりしを、寛文二年三月、堺の先刺史、石河土佐守源利政、石柱の鳥居を建て、再興に及ぶ。其時、神宮寺律院も、今の如く創建ある也。
行基井 神宮寺厨の前にあり。清泉、甘味也。
千種杜 当社の森をいふ。
明神影向石 本社の北にあり。此神石、回禄の後、叢に圧れありしを、石河土佐守、穿ち起して持帰り、庭前に置けり。時に、其夜、霊夢ありて、神祟たゝ゛ならねば、大に驚き、元の地へ帰し送らる。なを、神怒を宥めんが為、石の鳥居、杉千本を植させて、和歌二首を奉らる。
玉籬に岩きり多く動なき国をまつりの大鳥の神 利政
いつみなるちくさの杜に跡たれてちかひつきせし万代まてに 仝
地図
大阪府堺市西区鳳北町
最寄り駅
JR阪和線「鳳」駅
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