社号 | 竈山神社 |
読み | かまやま |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 和歌山県和歌山市和田 |
旧国郡 | 紀伊国名草郡和田村 |
御祭神 | 彦五瀬命 |
社格 | 式内社、旧官幣大社 |
例祭 | 10月13日 |
式内社
竈山神社の概要
和歌山県和歌山市和田に鎮座する式内社です。
当社の御祭神は「彦五瀬(ヒコイツセ)命」で、初代天皇である神武天皇の兄にあたる伝説的人物です。
当地には彦五瀬命の墓である「竈山墓」があり、この地に被葬者である「彦五瀬命」を祀ったのが当社であると考えられます。
「(彦)五瀬命」の事跡および「竈山墓」については記紀に記されており、『古事記』神武東征の段には次のように記されています。
『古事記』(大意)
神倭伊波礼毘古(カムヤマトイハレビコ)命(後の神武天皇)はその兄の五瀬命と高千穂宮で「どこの地にいれば天下の政を行うことができるだろう。やはり東へ行きたい」と相談し、日向より出発した。
(中略)
神武天皇ら一行は白肩津に船を留めたとき、ナガスネヒコと戦になった。その際に五瀬命は手に矢を受けて深い傷を負った。
そこで五瀬命の言うには「日の御子であるのに日に向かって戦ったから敗れたのだ。遠回りして日を背にして攻撃しよう」として、南の方から回って進むことにした。
その時海の水で血を洗ったのでその海を「血沼海(チヌノウミ)」という。
そこからさらに回って紀伊国の男之水門(ヲノミナト)に至り、五瀬命は雄叫びを挙げながら亡くなった。それでその水門を名付けて「男之水門」という。
御陵は紀伊国の竈山にある。
このように五瀬命は弟の神武天皇と共に東征するもナガスネヒコの矢に当たって負傷し亡くなったとしており、『日本書紀』でも同様に描写しています。
五瀬命が雄叫びをして亡くなったという「男之水門」の比定地は、現在の和歌山市小野町とする説、大阪府泉南市男里とする説があります。
『古事記』には「男之水門」は紀伊国にあるとしているため、これに従えば前者となりますが、後者には「彦五瀬命」を祀る式内社「男神社」が鎮座することからこちらの説も有力です。
そしてその陵墓は「竈山」にあるとしており、『延喜式』諸陵寮には「竈山墓」として記され紀伊国唯一の陵墓となっています。この「竈山墓」は現在は宮内庁によって当社背後にある直径約6m、高さ約1mの円墳に治定されています。
なお江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』は当社社殿のある丘自体を「竈山墓」としており、陵墓の上に社殿があるのは類例が無く不審としつつ、かつては海が迫っていたため平野が無かったとし、後に陵墓の上に神社を遷座したのではとしています。
当地の丘自体も巨大な円墳状ですが、現在ではこれが古墳であるとする見解は特に無いようです。
当社の社家は明治年間まで「鵜飼氏」が務めていたといい、この氏族は記紀に登場する「贄持之子(ニヘモツノコ)」の子孫であると伝えられています。
贄持之子とは記紀においてイワレヒコが熊野を経由して吉野に至った際に出会った国津神で、阿陀の鵜飼の祖とも記されています。(詳細は「阿陀比賣神社」(奈良県五條市原町に鎮座)の記事を参照)
『延喜式』諸陵寮には竈山墓に守戸三烟があったと記しています。つまり墓守をする者が三戸あったといい、この三戸が「鵜飼」「木野」「笠野」の三家を指したとされています。
この墓守を担った内の鵜飼氏が当社の社家として彦五瀬命の神霊を代々祀ってきたのが当社だったのでしょう。
ただ『延喜式』神名帳には当社は小社に留まっており、初代天皇の兄を祀っていながらも朝廷からはさほど重要な神社と見做されていなかったようです。
当社は紀伊国の他の神社と同様、天正十三年の豊臣秀吉による紀州攻めで兵火を受け、神領も没収されたといい、後に紀州藩によって再興されたものの衰微していったようです。
しかし明治に至り天皇を頂点とする近代国家を構築していく中で、当社は神武天皇の兄を祀ることが評価されていきます。近代社格制度では当初村社だったのが、明治十八年(1885年)には官幣中社、大正四年(1915年)には官幣大社にまで昇格し、昭和年間には現在の大規模な社殿が整備されました。
大正五年(1916年)には「日前神宮・國懸神宮」(秋月地区に鎮座)、「伊太祁曾神社」(伊太祈曽地区に鎮座)と共に「三社参り」を行うための参詣鉄道として山東軽便鉄道(現在の和歌山電鐵貴志川線)が開業し、当社はますます賑わいを見せることとなります。
現在は和歌山電鐵による沿線活性化と利用促進へ向けた努力の甲斐もあり、今なお和歌山における有数の神社の一つとして存在感を放っています。
境内の様子
当社は和歌山電鐵貴志川線の竈山駅の南方800mほどのところに鎮座しています。
竈山駅から当社へ向かう途中、和田川を渡ったところに当社の一の鳥居が北向きに建っています。
当社境内の森を右(西側)に見つつ道を突き当りまで進み、そこで右側へ回り込むと当社の境内入口となります。
入口には真っ白なコンクリート製の二の鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。鬱蒼とした森の中を広々とした参道が伸びています。
森を抜けると開けた空間となり、その奥に方角を変えて神門が南東向きに建っています。
神門は銅板葺の平入切妻造の八脚門で、左側(南西側)には廻廊が、右側(北東側)には授与所が設けられています。
神門の手前左側(南側)には手水舎が建っています。
神門をくぐると正面奥に社殿が南東向きに建っています。
拝殿は銅板葺の平入切妻造の正面に庇の付いたもので、いわば巨大な三間社春日造に近い構造。(和歌山県神社庁HPには流造とあるが手違いであろう)
三間四方とはいえ官幣大社らしいかなり大規模な建築です。
拝殿後方のやや高い所に檜皮葺・流造の幣殿が、さらに後方の高いところに檜皮葺・流造の本殿が段々に連なって建っています。
本殿はかなり後方にあり、幣殿や木々に遮られているため殆ど見ることができません。
本社社殿の右側(北東側)に瑞垣が凸型になっている区画があり、ここに三社の境内社が南東向きに並んでいます。
これらの内、最も左側(南西側)に「合祀社」が鎮座。詳細不明ながら恐らく近隣の神社を合祀しているのでしょう。
社殿は銅板葺の流見世棚造で、他の二社よりやや大きなものとなっています。
合祀社の右側(北東側)に隣接して「結社」が鎮座。
社殿は銅板葺の流見世棚造。
結社の右側(北東側)に「子安社」が鎮座。
社殿は銅板葺の流見世棚造。安産祈願の絵馬が多数奉納されており、根強い信仰があるようです。
本社拝殿の建つ空間の南西側に外側へ出られる銅板葺平入切妻造の薬医門があります。
この門を抜けて右側(北西側)に「青葉神社」が南東向きに鎮座。
社殿は銅板葺の神明造。
当社社殿を引きで見た様子。いかにも官幣大社といった佇まいですが、神門と拝殿とを結ぶ石畳には紀ノ川南岸で採れる結晶片岩が用いられるなど当地の地方色の窺える設えも施されています。
当社の鎮座する丘の北麓に直径約6m、高さ約1mの円墳があり、宮内庁により彦五瀬命の「竈山墓」に治定されています。
なお『紀伊続風土記』は当社の鎮座する丘全体を「竈山墓」としているものの、現在ではこの丘自体が古墳であるとする見解は無いようです。
御朱印
由緒
貼紙
竈山神社由緒
地図
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