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岐尼神社 (大阪府豊能郡能勢町森上)

社号 岐尼神社
読み きね
通称
旧呼称 枳根大明神、杵宮 等
鎮座地 大阪府豊能郡能勢町森上
旧国郡 摂津国能勢郡今西村
御祭神 瓊瓊杵尊、天児屋根命、枳根命、多田満仲
社格 式内社、旧郷社
例祭 4月15日

 

岐尼神社の概要

大阪府豊能郡能勢町森上に鎮座する式内社です。

社伝によれば、当社の南方にある小丘に神が降臨し、土地の人々は臼の上に杵を渡し荒菰を敷いて神を迎えたと伝えられています。これに因み当社は「杵宮」と称したと言われ、神が降臨した山を今も「天神山」と称しています。

当社の御祭神の内、「枳根命」は紀氏の祖である大名草彦命の子とされています。ただし記紀にはこのような神は登場せず、『新撰姓氏録』に和泉国神別の大村直の祖として大名草彦命の子、「枳弥都弥命」が記載されており、この神(人物)と混同されたものである可能性があります。しかし同じく『新撰姓氏録』には「君積命」の表記もあることから、「枳弥」は「キミ」と読み、「キネ」「キニ」でないことは明白です。

一方で「瓊瓊杵尊」については、当社に伝えられる神像の背後に「奉勧請瓊々杵大明神至元五卯九月吉日」とあり、中国の元朝の元号「至元」を用いてる点が特異であると指摘されています。至元という元号は二度採用されていますが、五年で卯になるのは二度目の時であり、西暦1339年にあたります。

少なくともこの時期には瓊瓊杵尊が祀られており、古くからの御祭神であったことが確かめられます。

また、当地は清和源氏が拠点を置いた摂津国川辺郡の多田荘(現在の兵庫県川西市を中心とする一帯)の上流側にあたり、当地も早くから清和源氏の人々が開発にあたったと言われています。その功績を子孫に伝えるために「多田満仲」を祀ったと伝えられています。

中臣氏・藤原氏の祖神である「天児屋根命」はいつ頃勧請したのか不明です。

『延喜式』神名帳には座数についての表記が無いことから当時は一柱のみ祀られていたと思われます。いずれの神が祀られていたのは不明ですが、先述の通り瓊瓊杵尊が南北朝時代には祀られていたことからこの神だった可能性がやや高いと言えます。しかし「杵」からの連想で付会された可能性もあり、当社の神格を明らかにするのは難しいでしょう。

参考として、当社の南西には「三草山」が聳え、これは『摂津国風土記』逸文に神功皇后にここの杉の木を使って船を造るよう勧めたとある「美奴売山」とされています(詳しくは「敏馬神社」の記事を参照)。

美奴売山は木材の産地だったと考えられ、また当社の神が降臨したと伝えられる丘とも近いことから、当社の神も木の神だったのかもしれません。

ただし上代特殊仮名遣では社名の「キネ」の「キ」は甲類なのに対し「木(キ)」は乙類なので、少なくとも社名が木に由来すると考えるのは難しいでしょう。

一方で社伝に登場する臼と杵は生殖を象徴する道具であることから、当社は豊穣や子孫繁栄の神としても信仰されたのかもしれません。

いずれにせよ当社は能勢郡でも有数の神社として知られ、古くから崇敬を集めた神社だったことは間違いありません。

 

境内の様子

岐尼神社

境内入口。境内の南側に鳥居が南向きに建っています。

 

岐尼神社

鳥居をくぐった様子。広い空間の後方に城郭のような石垣があり、その上に社殿が建ち並んでいます。石垣の上は杉などの木々で鬱蒼としています。

 

石垣下の右側(東側)に手水舎があります。

 

石段下の両側に狛犬が配置されています。石材はよくわかりませんが凝灰岩でしょうか。

 

岐尼神社

石垣中央の石段を上ると正面に社殿が南向きに建っています。

拝殿は瓦葺・平入の入母屋造。

 

拝殿は入口が広く取られ、前半分まで立ち入ることができます。

 

拝殿内に配置されている狛犬。こちらは砂岩製でしょうか。こちらの方がずっと古いものでしょう。

 

拝殿内には随身像も配置されています。

 

拝殿内の上部には三十六歌仙の像も掲げられています。

 

後方に建つ本殿は流造で、平入切妻造の覆屋の中に納められています。享保十二年(1727年)に修復した建築。

 

社殿の建つ石垣の手前左右に一段低い石垣がそれぞれ設けられており、双方に一社ずつ境内社が南向きに鎮座。さながら城郭の櫓のような格好となっています。

こちらは左側(西側)の石垣に建つ境内社。立札が掠れてほぼ読めませんが、辛うじて残る筆跡から恐らく「大国主神社」かと思われます。

 

こちらは右側(東側)の石垣に建つ境内社。こちらは立札の文字が完全に読めません。何となく「恵美須神社(?)」と書いてあるようにも思えます。

 

本社拝殿の右側(東側)に「住吉神社」が西向きに鎮座。

 

本社本殿の右側(東側)に「稲荷神社」が南向きに鎮座。唐破風付きのしっかりとした流造の社殿で、他の境内社とは別格扱いの印象です。

 

タマヨリ姫
神様が山に降りて、村人が石臼と杵でお迎えしたんだってね。だからキネ神社っていうんだ!
そのように伝えられているわね。でもどのような神様だったのかはよくわからないわ。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板「岐尼神社」

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岐尼神社

当社は、旧来枳根庄内にあって、能勢町森上の地に鎮座し、『延喜式神名帳』能勢郡の条には「岐尼神社」と見える。祭神は、「天孫瓊々杵尊」、中臣氏の祖神である「天児屋根命」、大名草彦命の子「枳根命」と「源満仲」で、「岐尼・枳根・枳禰・杵宮」、或は「杵大明神」と称していた。

「瓊々杵尊」といえば、天孫降臨の神話にある神であるが、ここにも天孫降臨の説話がある、すなわち、岐尼神が南の小丘に降臨し給うたとき、土民は臼の上に杵を渡し、荒菰を敷いて迎えたという。「杵」、「杵尊」のひびきは社名の起因と考えられる。また、天降った丘を今も「天神山」と呼んでいる。

社記によると、延暦元年(七八二)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また将軍家代々の御祈願所であったという。また、祭神に加わった「源満仲」については、多田の地に入部以来家臣の多くが当地に入り、開発治世にあたったその君恩を、子孫に伝えるためといわれている。

当社で特筆すべきは、主神である「瓊々杵尊」の座像背後に、「奉勧請瓊々杵大明神至元五卯九月吉日」の墨書である。「至元」という年号は中国元代のもので、我が国では南北朝時代の延元四年(南朝一三三九)、暦応二年(北朝一三三九)に当り、在銘神像として稀に見る貴重な神像である。また「延文二年(一三五七)藤原元輔女 清原 大般若経 奉納」と古記にある。

当社の北側背後には、中世の山城が並び築かれ、時に天文十八年(一五四九)九月十七日、山下城主塩川伯耆守と、それを迎え撃つ、枳根城主能勢小重郎との「岐尼の宮合戦」、ついで元亀二年(一五七一)十二月二日、織田信澄の乱入など、度重なる社殿の炎上によって古書類が焼失してしまった。しかし、戦乱のほとぼりがようやく去った慶長十年(一六〇五)九月、太田和泉守が社殿の再建をなしとげ、その後享保十二年(一七二七)にも修復、この時の修復費用は「銀五貫八百八拾八匁壱分六厘、氏子=千九百四十八人」とあり、これが今に残る社殿である。

神宮寺であった白雲山神宮寺は、かつて十坊を数えたが、天正年間(一五七三~九一)の戦乱期に多くが断絶し、かろうじて成就坊のみが残り、ありし坊舎の面影を明治維新まで伝えたという。なかでも、江戸時代も後期になった天保八年(一八三七)七月に、当社の社庭は能勢騒動打毀しの発起点となり、そのときに各村々にひびき渡った早鐘は、この成就坊の釣鐘であった。

明治維新による神仏分離、続いて一村一社の神社統一により、同四十年十か村の氏神が岐尼神社に合祀された。また大正期にはいって、当社の社司を尋ねた御歌所寄人の阪正臣氏の歌碑が木陰の中に建っている。また、『歌枕名寄』に「枳根社」とあり、次の和歌が出ている。

「おのつから 神の心に ならわしの きねか宮居の 月そさやけき」

祭日
一月十日 恵美須祭り
四月□日 例祭
八月十二日 夏祭り・盆の市
十月□日 秋祭り

悠久の古代より、社名、荘園名(「枳根の荘」)、さらに近代に至っては、村名、学校名、字名などと地域に深くなじみ、とけ込んだ「岐尼の郷」である。

能勢町教育委員会

 

地図

大阪府豊能郡能勢町森上

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