社号 | 垂水神社 |
読み | たるみ |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 大阪府吹田市垂水町1丁目 |
旧国郡 | 摂津国豊島郡垂水村 |
御祭神 | 豊城入彦命 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月21日 |
垂水神社の概要
大阪府吹田市垂水町1丁目に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、古くは極めて有力な神社でした。
当社に関連する氏族として、『新撰姓氏録』に次の二氏族が登載されています。
- 左京皇別「垂水史」(豊城入彦命の孫、彦狭島命の後)
- 右京皇別「垂水公」(豊城入彦命の四世孫、賀表乃真稚命の後)
いずれも同じ氏族と思われ、さらに「垂水公」の記事には次の記述があります。
『新撰姓氏録』(大意)
六世孫は阿利真公という。孝徳天皇の御代に旱魃が発生し、川や井戸が涸れた。この時阿利真公は高樋を作り、「垂水岡」の水を宮内に通し、御膳に供奉した。天皇はこれを賞し、「垂水公」の姓を授けた。垂水神社を司っている。
このように「垂水岡」と呼ばれた当地から水を皇居に通したため「垂水公」の姓を授けられ、当社を奉斎したことも記載されています。
ただ、孝徳天皇の皇居は大阪の上町台地にあった「難波長柄豊碕宮」であり、上町台地と当地の間には当時海があったと考えられ、樋で水を皇居へ通したのは現実的でありません。このような故事があったとしても、実際には船で水を運んだのでしょう。
当社の御祭神は「豊城入彦命」で、崇神天皇の皇子であり、『新撰姓氏録』にも記載されているように当社を奉斎した垂水氏らの祖です。豊城入彦命は東国を治めた人物ですが、その子孫は垂水氏のように一部が畿内に定住していたようです。
その一方で、社名の「垂水」とは「滝」「崖から流れ落ちる水」を意味します。当地は千里丘陵の南麓の崖下であり、ここは古くから湧水地となっていたようで、今でも非常に小規模ながら小さな滝があります。
『新撰姓氏録』にある「垂水岡」とは当社背後の千里丘陵であり、その水とは当社に流れ落ちる滝だったのでしょう。
このことから当社は本来は当地の滝の水神として祀られたことが考えられます。元々はこのような自然神を祀っていたところ、垂水氏が当社を奉斎するにあたり祖である豊城入彦命を祭神に充てたことが推測されます。
国史では『続日本後紀』の承和三年六月の条に祈雨の奉幣を行なった神社の中に当社が見えるのを始め、その後も旱魃の際に幾度も当社に祈雨の祈願が行われています。朝廷における当社への厚い崇敬が窺えると共に、当社の水神としての神格が強く表れています。
また新たに天皇が即位した際に行われる「八十島祭」では、住吉大社、大依羅神社、中臣須牟地神社と共に当社にも幣帛が供えられるなど、国家祭祀の上でも極めて重要な役目を果たしました。当社が名神大社に列せられていることも併せて、如何に朝廷が当社を重んじたかがわかります。
一方で『住吉大社神代記』には記載が無いものの、『新抄格勅符抄』では「住吉垂水神」の名で記載されており、住吉大社と関係があったことも考えられます。
このように平安時代以前は非常に重視された当社も中世以降は記録が乏しくなり、動向は詳らかでありません。戦火で衰微したと思われ、近世に至って社殿を造営したことが記録されています。
現在は「垂水」の由来となったと思われる滝も極めて小さなものとなっていますが、周辺は大規模な宅地となり、地域の氏神として再び多くの人の信仰を集めています。
境内の様子
一の鳥居は境内からおよそ100mほど南方の住宅地に南向きに建っています。
一の鳥居をくぐった様子。樹木は乏しいながら整備された広い参道が続きます。かつては馬場だったのでしょうか。
参道を進み、道を挟んだところが境内入口となります。小さな水路を跨いだ先に注連柱が建ち、神域の境界となっています。
注連柱をくぐって左側(西側)に手水舎があります。
当地は千里丘陵の南端にあたり、社殿はこの丘陵の中腹にあるため石段が続いています。
石段下の傍らには大きなクスノキが聳えており御神木となっています。
石段を上っていくと二の鳥居が南向きに建っています。この先は広い空間となっており、正面に社殿が並んでいます。
石段上の社殿は南向きに建っています。社殿は古いものでなく、昭和49年(1974年)に造営されたもののようです。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に千鳥破風と大きな唐破風が付いています。
拝殿前の狛犬は花崗岩製。こちらもそう古いものではなさそうです。
後方の本殿は銅板葺の流造。拝殿と接続しています。
境内東側の様子
社殿の建つ空間は東側に広く開けており、こちらに境内社が秩序正しく並んでいます。
社地が千里丘陵の南端であることから背後が崖になっている様子も確認できます。
本社本殿の右側(東側)に「玉之井の井戸」と呼ばれる井戸があります。由緒ある井戸なのでしょうか。詳細は不明です。
玉之井の右側(東側)に「皇大社」が鎮座しています。御祭神は「伊佐那岐命」「伊佐那美命」「天照大神」。
皇大社の右側(東側)に「祓戸社」が鎮座。御祭神は「息吹戸主命」「瀬織津比売命」「速開津比売命」「速佐須良比売命」。
祓戸社の右側(東側)に「戎社」が鎮座。御祭神は「金山比古命」「金山比売命」「豊宇気姫命」「事代主命」。
境内の東端に非常に立派な「祭祀庫」があります。
当社の神宝や神輿等が納められているのでしょうか。
祭祀庫から本社社殿の方を眺めた様子。広々とした空間であることがわかります。
境内西側の様子
続いて本社社殿の左側(西側)の様子を見ていきます。石段を下り、鬱蒼とした森の中へ入っていきます。
石段を下りたところはこのように祠やお塚等が並んでいます。右側から見ていきましょう。
石段を下りてすぐ右側の奥にこのような小さな滝があります。当社境内には二つの滝があり、その内の一つであるこちらは「小瀧」と呼ばれています。
当社の崖から流れ落ちる滝が「垂水」と呼ばれ、信仰の対象になったことが考えられています。非常に小さな滝ですが、当社の信仰の根本になったものと言えましょう。
小滝のすぐ左側(西側)に並ぶお塚。「金伯白龍」「多美姫龍神」「朝日大神」などと刻まれています。
先のお塚の左側(西側)に「楠明神社」が鎮座。御祭神は「大綿津見命」「市杵島姫神」。
楠そのもの、或いは楠に住まう龍蛇の類を神格化したものでしょうか。
楠明神社の左側(西側)に石祠が建っています。鳥居の扁額には「大神社」とありました。
御祭神は不明。
楠明神社等の前(南側)には石造の地蔵菩薩が祀られています。
ここまで見てきてもわかる通り、開放的でよく整備された境内東側に対して、こちら境内西側は鬱蒼としており、様々な信仰の綯交ぜとなった混沌とした空間となっています。
境内の東西でここまで明瞭に雰囲気の差があるのは珍しいと言えそうです。
楠明神社等の左側(西側)の区画に「金白龍王」と刻まれたお塚があります。
このお塚だけ独立しており、何か特別な地位にあるのかもしれません。
金白龍王のお塚の左側(西側)には「津くよみの池」と呼ばれる池があります。月読命と関係があるのでしょうか。
池には鯉が泳いでいました。
津くよみの池の奥(北側)にあるお塚。「白菊大明神」「不動明王」「光長大明神」と刻まれています。
一般にお塚に刻まれる神名は独自の名が付与されますが、ここでは珍しく不動明王という著名な明王号が刻まれています。
さらに津くよみの池の奥(北側)へ進んでいくと「垂水の瀧」があります。先の「小瀧」に対してこちらは「本瀧」とも呼ばれています。
先述の通り千里丘陵の崖から流れ落ちるこの滝が「垂水」であり、当社の信仰の根本となっているものと考えられます。
『摂津名所図会』には清涼で甘く諸々の病に験があると記されています。
ただしこちらもやはり小さな滝で、名神大社に列せられ朝廷から祈雨に厚く信仰を寄せた割にはいささか寂しい印象です。時代と共に流量が減少したのかもしれません。
さらに西側へ進んでいくと二基の鳥居が建っています。
右側(北側)の鳥居をくぐり石段を上がると、簡易な屋根のある空間の奥に多くのお塚が並んでいます。
鳥居の扁額には「高登社」と刻まれており、これらのお塚の一つに「高登大明神」があります。
左側(西側)の鳥居をくぐると広い空間があります。かつてこの空間には「標榜山栽松寺」がありましたが、明治の廃仏毀釈により廃寺になりました。
栽松寺はさらに古くは「伊和寺」とも呼ばれたと言われています。
先の鳥居をくぐってすぐ右側(北側)に「政高大明神」のお塚があります。
境内の最西端に「垂水不動社」が鎮座しており、「不動明王」が祀られています。神社のように拝殿と本殿が建てられていますが、本殿は宝形造となっており仏教的要素が残されています。
栽松寺の本尊は観世音菩薩でしたが、廃寺になってその跡地に不動明王が祀られるようになったようです。
栽松寺は禅寺だったと伝えられているものの、現在はこのように不動明王やお塚など密教的な印象の強い空間となっています。
当社周辺の地形
最後に当社の地形を見ておきましょう。国土地理院の提供する色別標高図を見ると、黄緑色で表されている千里丘陵の南端に当社が立地していることがわかります。
この千里丘陵に涵養された水が当地で湧き出て滝となったのが当社の「垂水」であり、当社の信仰の大本であると考えられます。
御朱印
由緒
石碑
式内大社 垂水神社御由緒
案内板
垂水弥生遺跡
『摂津名所図会』
地図