社号 | 朱智神社 |
読み | しゅち/すち |
通称 | |
旧呼称 | 牛頭天王社 等 |
鎮座地 | 京都府京田辺市天王高ケ峰 |
旧国郡 | 山城国綴喜郡天王村 |
御祭神 | 迦爾米雷王命、建速須佐之男命、天照国照彦火明命 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月18日 |
式内社
式内社
朱智神社の概要
京都府京田辺市天王高ケ峰に鎮座する式内社です。
社伝によれば、仁徳天皇の御代に現在地の西方の西峯の頂上に社殿を建て、当地付近を勢力とした息長氏の祖である「迦爾米雷王(かにめいかづちのみこ)命」を祀って「朱智天王」と号したと伝えられています。
その後桓武天皇の御代に「建速須佐之男命」を相殿に祀って「大宝天王」と号したと言われ、清和天皇の御代には当社の大宝天王(建速須佐之男命)を京都の八坂神社へ勧請し、かつては毎年「榊遷し」の行事が行われていたと伝えられています。
ただし、当社は江戸時代後期に椿井政隆という人物が数多の寺社のデタラメな由緒を捏造・作成した「椿井文書」の影響を多大に受けており、上記の社伝もこれに基づくもので、古くからこのような伝承があったと見ることは出来ません。
そもそも式内社「朱智神社」は江戸時代には全くの所在不明となっていました。椿井政隆はその式内社「朱智神社」を当社であるとして様々な偽文書を捏造し現在にまで甚大な影響を及ぼしています。
現在、式内社「朱智神社」を当社とする旨を記す古文書らしき史料はほぼ全て椿井文書と見られており、当社の古い由緒および式内社「朱智神社」について知ることは極めて困難となっています。
ただし式内社「朱智神社」の祭神を「迦爾米雷王」と考察したのは度会延経の著した『神名帳考証』が最初と思われ(ただし所在地は明らかにしていない)、椿井政隆はこれを参考にしたものと考えられます。
参考までにこの「迦爾米雷王」について詳しく見てみます。この人物は神功皇后の祖父であり、また開化天皇の三代後裔にあたります。『古事記』によれば、
開化天皇 - 日子坐王 - 山代大筒木真若王 - 迦爾米雷王 - 息長宿禰王 - 神功皇后
の系譜が見えます。
迦爾米雷王の父は山代大筒木真若王という人物で、その名から当地付近、山城国(山代)の綴喜郡(筒木)を拠点としていたことが推測されます。
また、木津川の対岸の相楽郡に蟹幡郷があったこと、白鳳時代の釈迦如来坐像(国宝)を今に伝える蟹満寺があることなど、近隣に「カニ」に関する地名が多い点から、迦爾米雷王の名もこれに関係するものである可能性があります。
一方で、椿井文書に基づく社伝では迦爾米雷王を息長氏の祖と位置付けていますが、一般に息長氏の祖とされる人物は「意富富杼王」です。
仲哀天皇と神功皇后 - 応神天皇 - 若野毛二俣王 - 意富富杼王
意富富杼王はこのような系譜となっています。
迦邇米雷王から見ると神功皇后で女系となっており、一系の子孫とは言い難いものの、迦邇米雷王の子の名が息長宿禰王であり、息長氏としての萌芽はこの頃にあったと言えなくもないのでしょう。
椿井政隆は近江国において特に精力的に活動し、その中で近江国坂田郡を本貫とする息長氏の知識を得たと思われます。これを元に、山代大筒木真若王や迦邇米雷王など当地に関わりのあるかもしれない人物が息長氏に連なることから着想を得て、当地一帯の寺社の由緒に息長氏をねじこむことでより由緒正しく見えるよう細工したのかもしれません。
事実、近隣の普賢寺地区にある観音寺(前身は普賢寺)はその山号を「息長山」と称し、息長氏との関連を示唆しているものの、これもまた椿井文書に基づくものであり古い時代に「息長山」と称した資料はありません。(詳細は地祇神社の記事を参照)
一方、当社は江戸時代には「牛頭天王社」と称し、当地の地名を「天王」と呼ぶのはこれに因みます。
平安時代後期の作とされる京都府指定文化財の木造牛頭天王立像が伝えられており、古くから牛頭天王として祀られていたことは確実です。
ただ、椿井文書に基づく社伝では当社から京都の八坂神社へ勧請したとしていますが、当然ながら八坂神社ではそのような由緒を伝えておらず、「榊遷し」も記録がありません。
現状、式内社「朱智神社」が当社である可能性は全くのゼロとまで言い切ることはできませんが、当社であるとする根拠のほぼ全てが椿井政隆という人物による恣意的な作為と見られ、比定を再検討する必要があるでしょう。
椿井文書の内容の中には実際にあった伝承も組み込まれているとの指摘もあり、これが話を更にややこしくしています。
椿井文書が偽書として知られるようになったのは近年のことで、それまでは郷土研究において重要な史料として参照されてきました。
一人の男が行った意図的な捏造が現在にまで甚大な影響を及ぼし郷土研究に暗い影を落としてしまったのは本当に残念でなりません。
悲しいことに当社は特に椿井文書の影響の大きい神社だと言え、当社の位置付けについても再考が迫られるべきでしょう。
補足
当記事では当初、筆者の勉強不足により椿井文書に基づく社伝を元に若干の考察を展開していました。
近年椿井文書の存在が明るみになったことで新たな知見を得ることができ、当記事の内容も訂正致しました。
椿井文書についての詳細は松尾神社の記事も併せてご覧ください。
境内の様子
境内入口。生駒山地北部の山間であり、天王の集落の奥地にあります。山間らしく非常に鬱蒼とした境内。石段の上に建つ一の鳥居は南東向きです。
一の鳥居をくぐると参道は左に折れ、南西方面へ長い石段が続きます。その途中には両部鳥居の二の鳥居が建っています。
石段下の灯籠は宝暦五年(1755年)のもので、大きく立派なものです。
二の鳥居をくぐった様子。鬱蒼とした境内に長い石段。まさに山間の神社です。
石段を上ると広い空間に出ます。奥に再び石段があり、その上が社殿の建つ空間となります。
この空間の左側(南東側)に手水舎があります。
また、この空間の右側(北西側)に神庫があります。
空間の広さの割に建築物が乏しく、古くはここに神宮寺でもあったのではと思わせられます。
奥の石段下の右脇に牛の石像が配置。かつて牛頭天王社と呼ばれ牛頭天王を祀っていたことに因むのでしょう。
石段を上ると正面に北東向きの社殿が建っています。拝殿は無く、拝所としての向唐破風の中門と瑞垣に囲まれて檜皮葺の一間社流造の本殿が建っています。
朱で彩色が施されており、慶長十七年(1612年)に再建された貴重な建築で京都府登録文化財。国重文に昇格しても良さそうな美しい建築です。
山奥の地にこれほど立派な社殿を持つ神社があるとは何とも感慨深いもの。
本殿の左右に非常に多くの境内社が鎮座しています。こちらは本殿左側(南東側)の境内社群。手前から順に「住吉神社」「大高神社」「三社大神社」「朝日神社」「大土神社」「白山神社」「稲生神社」が祀られています。どういうわけか住吉神社だけ一回り大きな社殿で朱が施されています。
こちらは本殿右側(北西側)の境内社群。手前から順に「天津神社」「皇大神宮」「春日神社」「鎮火神社」「祈雨神社」「金神社」が祀られています。
こちらは天津神社の社殿が一回り大きめ。そして何故か皇大神宮のみ春日見世棚造です(他は全て流見世棚造)。普通なら神明造で建てられそうなものですが何か理由があるのでしょうか。
当社の鎮座する天王地区の集落。生駒山地北部の中腹の斜面上に立地しています。このため眺めが良く、木津川の対岸の山々を見渡すことができます。
このようないかにも田畑が作りにくく住みにくそうな地に古くからの集落があるのは不思議です。
ただし、戦後すぐ頃の航空写真を見てみると周囲には非常に多くの棚田があったことがわかります。
生駒山地にはしばしば天王地区のような山間の斜面に立地する集落があり、他には大阪府柏原市青谷、同市雁多尾畑、同市本堂、大阪府大東市龍間、奈良県平群町久安寺、同町福貴畑などがあります。
由緒
案内板
朱智神社
案内板
朱智神社
地図