社号 | 葛木水分神社 |
読み | かつらぎみくまり |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県御所市関屋 |
旧国郡 | 大和国葛上郡関屋村 |
御祭神 | 天水分神、国水分神 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 12月20日 |
葛木水分神社の概要
奈良県御所市関屋に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社とあり、古くは非常に有力な神社だったようです。
当社の創建・由緒は不明ですが、『延喜式』神名帳では「吉野水分神社」(論社は吉野町吉野山に鎮座)、「宇太水分神社」(論社は宇陀市菟田野古市場、同市榛原下井足、同市菟田野上芳野に鎮座)、「都祁水分神社」(論社は奈良市都祁友田町に鎮座)と共に大和国の四社ある水分神社の一つとなっています。
中でも他の三社は大社であるのに対し、当社のみが名神大社となっており、朝廷から特段に厚く崇敬されたことが窺えます。
当社の御祭神は「天水分神」「国水分神」。この二神は記紀の神産みの段でハヤアキツヒコ、ハヤアキツヒメの御子として登場しています。
「水分(みくまり)」とは「水配り」の意で、河川や水路の流水を分配して土地を潤し、豊かな土壌を維持する灌漑の神として信仰されています。
特に大和国の水分四社は山口神社十四社と共に朝廷により国家的に祭祀されたものと思われ、大和国内の水流の安寧、そして豊かな実りを祈願したものと考えられます。
『延喜式』臨時祭の祈雨神祭八十五座にも大和国の水分四社が含まれ、水分神は降雨を司る神としても信仰されたようです。
当社から背後の水越峠を越えて大阪府千早赤阪村水分には「建水分神社」が鎮座しており、水越峠を挟んで大和側・河内側の両方に水分神社の式内社があることになります。
これは葛城山・金剛山が特に重要な水源と見做されたものと思われ、当社にのみ名神大社に列せられているのもその表れでしょう。
この水越峠では江戸時代中期の元禄年間に大和側・河内側で水争いがあり、堰を設けたり水を切り落としたりするなど激しい争いとなりましたが、訴訟の末に大和側に有利な判決となりました。
現在の祭日である12月20日はこの判決が出た日ともされており、当地における水事情が死活問題であったことが偲ばれます。
奈良盆地は山に囲まれている地形により降雨が乏しく、「大和豊年米食わず」という言葉があるほどです。つまり奈良盆地で米が豊作になるほど雨が降った年は、他地域では洪水や日照不足のため米が穫れず結果的に米が食えなかったということです。
このために水源の地であった当地が古くから重視され、水の分配を司る神が祀られたのも至極当然の流れだったのでしょう。
境内の様子
境内入口。当社は葛城山と金剛山の間の峠である水越峠へ続く道の途中に鎮座しています。
関屋の集落の背後、峠への道から分岐した森の中が当社の境内です。
入口から森の中を進んでいくと鳥居が東向きに建っています。
鳥居の両脇に配置されている狛犬。砂岩製の古めかしいものです。
鳥居をくぐった様子。奥の石段上の高台が社殿の建つ空間となっています。
石段上に拝殿が東向きに建っています。桟瓦葺・平入切妻造の割拝殿で、簡素な建築ながら前面に無地の壁が張られており圧迫感が感じられます。
拝殿を裏側から見た様子。こちら側には壁が張られておらず、内部の様子がよくわかります。
拝殿の通路をくぐって正面に石垣があり、その上に銅板葺・一間社春日造の本殿が東向きに建っています。
本殿は彩色が施された形跡があり、現在は色褪せているものの往時は派手な極彩色だったことが窺えます。
当地は水越峠への道の途中であり、標高の高い地です。当地からは東方の竜門岳などの山々まで見渡せると共に、谷底の僅かな平地に棚田が並び、非常に美しい景色を楽しむことができます。
当地は急峻な峠道にあるため、当社の氏子である関屋地区の集落も斜面にへばりつくようにして形成されています。
地図
関係する寺社等
建水分神社 (大阪府南河内郡千早赤阪村水分)
社号 建水分神社 読み たけみくまり 通称 水分神社、上水分社 等 旧呼称 水分大明神 等 鎮座地 大阪府南河内郡千早赤阪村水分 旧国郡 河内国石川郡水分村 御祭神 天御中主神、天水分神、国水分神、罔 ...
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