社号 | 治田神社 |
読み | はるた |
通称 | |
旧呼称 | 八幡 等 |
鎮座地 | 奈良県高市郡明日香村岡 |
旧国郡 | 大和国高市郡岡村 |
御祭神 | 品陀別天皇、素盞嗚尊、大物主神 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月10日 |
治田神社の概要
奈良県高市郡明日香村岡に鎮座する式内社です。
室町時代の文書である『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば、式内社「治田神社」について、次のように記しています。
- 逝回郷小墾田村にある。今は豊浦村という。
- 御祭神は「大地主(オオトコロヌシ)神」である。
- 旧記によれば次のようにある。安康天皇の御代、武内宿禰の曽孫である「石川俣合祖楯(石河楯 / イシカワノタテ)」なる人物が甘橿丘を開墾し田地を営んだが、農夫が牛を剥いで肉を食ったために蝗害が発生した。憂えた石河楯が御歳神に祈祷し水口祭を行ったところ再び作物が実るようになったので、その地は楯田成小治田と俗に呼ばれ、後に石河楯は神殿を建て大地の神を祀り小治田神社と名付けた。
- その小治田神社は今の豊浦神社である。
- 雄略天皇の御代、石河楯は故あって遠国へ流され、その地は蘇我韓子宿禰が賜った。
石河楯なる人物は『日本書紀』雄略天皇二年七月の条に登場し、石河楯は旧記に石河股合首の祖とあること、百済から貢進された池津媛を犯したため天皇が大いに怒り、大伴室屋大連に命じて四肢を木に張りつけ火刑にされたとことが記されています。
国史には見えないものの、どういうわけかこの石河楯なる人物は甘橿丘を開墾したとする伝承があるようで、『五郡神社記』ではこれに関して式内社「治田神社」の創建を石河楯によるものとしています。
さらに『五郡神社記』は当時豊浦神社と呼ばれていた神社が(小)治田神社であるとし、鎮座地も豊浦村であるとしています。
この豊浦村は現在の明日香村豊浦にあたり、現在地とは北西1.5kmほど離れていることになります。
一方『日本書紀』などによれば、推古天皇十一年(603年)に皇居が豊浦宮から「小墾田宮(オハリダノミヤ)」へ遷され、さらに150年ほど経って奈良時代の淳仁天皇・称徳天皇の御代に行宮として「小治田宮(オハリダノミヤ)」があったことが知られています。
この推古天皇の「小墾田宮」と淳仁天皇・称徳天皇の「小治田宮」の関係ははっきりしないものの、雷丘の南方に六世紀~七世紀頃の苑池・石敷の一部が発掘されており、これが推古天皇の「小墾田宮」ではとも考えられています。また雷丘南東には「小治田宮」と書かれた奈良時代の土器片が発見されており、これは淳仁天皇・称徳天皇の「小治田宮」の痕跡と考えられています。
いずれにせよ現在の明日香村雷・豊浦付近に「小墾田宮」「小治田宮」があったと考えられており、その付近がかつて「ヲハリダ」と呼ばれていたことが推定されます。
現在の雷・豊浦地区がヲハリダと呼ばれたことは『五郡神社記』の記述とも合致し、式内社「治田神社」が石河楯による創建なのかはともかく、この「ヲハリダ」に鎮座していた神社だったのは確実性が高いと言えましょう。
さらに『新撰姓氏録』には物部系氏族の「小治田氏」や蘇我系氏族の「小治田氏」が登載されており、或いはこうした氏族がヲハリダに居住し式内社「治田神社」を奉斎したのかもしれません。
一方、現在その式内社「治田神社」とされている当社は先述のように「ヲハリダ」から全く離れた岡地区に鎮座する神社であり、『五郡神社記』と大きく矛盾しています。
式内社「治田神社」を初めて当社に比定したのは恐らく江戸時代中期の地誌『大和志』であると思われ、当時は「八幡」と称していたと記していますが、当社を式内社とした根拠は全く不明です。
当社境内は白鳳時代の瓦が出土していることからかつて岡寺の伽藍があったとされており、岡寺が現在地に遷ってから当社が当地へ遷ってきたと考えられているものの、いつ、どこから遷ってきたかははっきりしません。一説には岡寺の鎮守社だったともされています。
もし室町時代以降にヲハリダから現在地へ遷ってきたとするならば整合性がありますが、少なくとも現在はそのような伝承も記録も無く、また「鷺栖神社」の事例とは逆に川下から川上へ遷座するのは不自然さがより大きいと言わざるを得ません。
式内社「治田神社」については特段の理由が無い限りはやはり雷・豊浦地区に求めるべきです。しかし現在当該地区にある神社は「甘樫坐神社」くらいしかなく、あいにく式内社「治田神社」は廃絶してしまった可能性が高いと思われます。(或いは現在の「甘樫坐神社」が本来の「治田神社」か?)
なお式内社「治田神社」の奉斎氏族を彦坐命の後裔である皇別氏族「治田氏」とする説もありますが、当社の社名は地名「ヲハリダ」に因むものであり、『新撰姓氏録』に近江国浅井郡を開墾したゆえに治田の姓を授けられたとある治田氏が式内社「治田神社」を奉斎したとはやや考えにくいように思われます。
現在の当社は案内板に治田氏の祖神が奉祀されていたとあるものの、『大和志料』に当社を式内社とすることについて「甚タ謂レナシ」とあり、そのような伝承があったかは疑わしいところです。少なくとも現在は治田氏の祖は祀られていません。
現在の当社の御祭神は「品陀別天皇」「素盞嗚尊」「大物主神」の三柱で、当社がかつて八幡と呼ばれていたことから品陀別天皇(応神天皇)を祀るのは順当です。
大物主神については案内板に文安年間の古書に一時この神を祀っていたとある旨が記されています。「文安年間の古書」が何なのか不明ですが、『五郡神社記』も文安三年(1446年)のものであり、仮にこの文書を指しているのならば上述のように治田神社の祭神は大物主神でなく「大地主神」であり不審です。
また素盞嗚尊については近隣の城山と呼ばれる地に鎮座していた八阪神社を合祀したもののようです。
当社が式内社であるかは大いに疑問があるものの、岡寺の参詣道の起点に当社の鳥居があり、古くから岡寺や「飛鳥坐神社」と共に飛鳥地域における重要な信仰の拠点となっています。
境内の様子
当社の鳥居は境内の南西350mほど、岡地区の集落の中心となる地点に西向きに建っています。
ここから東へ伸びる参道は真言宗豊山派の寺院「東光山龍蓋寺(岡寺)」の参道も兼ねています。
鳥居の手前に建っている灯籠には当社の旧称である「八幡宮」と刻まれています。
鳥居から300mほど進むと左側(北側)の斜面上に石段が伸びており、これが境内入口となります。
石段を上っていった様子。鬱蒼とした社叢の中をくねくねと折れ曲がりながら登って行きます。
この丘は御破裂山の西麓に伸びる舌状の台地となっており、当社はこの上に鎮座していることになります。
石段を上っていくと桟瓦葺・平入切妻造の割拝殿が南向きに建っています。
何故かこの割拝殿の手前左側(西側)に、「拝殿改築記念」と刻まれた石碑の上に二宮金次郎像が建っています。
割拝殿内部は左右に床が張られており、通路とを隔てる壁などが無いため長床のような構造となっています。
割拝殿の後方に社殿が南向きに並んでいます。
通路をくぐってすぐのところには桟瓦葺・妻入切妻造の建物があります。床や壁の無い開放的かつ簡素な建築で、鈴の緒と賽銭箱が設置されています。
この建物が当社で何と呼ばれているかは不明ですが、機能的にはこの建物が拝殿に当たることになります。
妻入建物の後方に神明鳥居、中門および瑞垣、そして本殿の順に並んでいます。
本殿は銅板葺の三間社流造で千鳥破風と軒唐破風の付いたもの。
割拝殿の右側(東側)に船形の大きな手水鉢が配置されています。ただし導水施設は無く、参拝の動線からも大きく外れた場所にあり、手水鉢としては全く機能していません。
割拝殿と妻入建物の様子を本殿東側から見た様子。
奈良県の神社としてはやや変わった配置の境内となっています。
当社境内を引きで見た様子。
丘の上に立地するものの社殿の建つ空間は広く平らになっており、この地にかつて岡寺の伽藍があったとされるのもよくわかります。
境内の東側は開けており、そのまま岡寺へ参拝することができます。
当社の東方にある真言宗豊山派の寺院「東光山龍蓋寺」。飛鳥地域を代表する寺院で、一般的には「岡寺」の名で知られています。
法相宗の僧である義淵僧正による開基で、国内最大の塑像である如意輪観世音菩薩を本尊としています。
上述のように岡寺は元々は当社境内にあったと考えられ、いつの頃か東方の現在地に遷ったようです。
当社は岡寺の鎮守社だったとする説もありますが、当社と岡寺との関係ははっきりしません。しかしその立地から何らかの関係はあってもおかしくないでしょう。
由緒
案内板
治田神社
案内板
治田神社
地図