社号 | 賀茂別雷神社 |
読み | かもわけいかづち |
通称 | 上賀茂神社 等 |
旧呼称 | |
鎮座地 | 京都府京都市北区上賀茂本山 |
旧国郡 | 山城国愛宕郡上加茂村 |
御祭神 | 賀茂別雷神 |
社格 | 式内社、山城国一宮、二十二社、旧官幣大社 |
例祭 | 5月15日 |
賀茂別雷神社の概要
京都府京都市北区上賀茂本山に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳に名神大社に列せられているのみならず、山城国一宮であり、また二十二社の上七社にも列せられているなど、国内でも有数の極めて格の高い神社です。「上賀茂神社」の名で非常に有名で、現在でも多くの参拝客で賑わう神社です。
当社の由緒は、社伝によれば、当社の北方に聳える「神山(コウヤマ)」に「賀茂別雷神」が降臨し、天武天皇の御代である白鳳六年(678年)に社殿が造営されたと伝えられています。
神山は禁足地であり立入できませんが磐座があると言われています。当社の非公開の重要神事である「御阿礼(ミアレ)神事」は現在当社に近い丸山で行われていますが、古くは神山で行われていたものと考えられています。ミアレとは神の顕現を意味し、御阿礼神事は賀茂別雷神の降臨を再現する神事であると考えられます。
一方で『山城国風土記』逸文にも当社の創建に関する伝説が記されています。それによると以下の通りです。
『山城国風土記』逸文(大意)
日向の曽の峯に天下った賀茂建角身命は神日本磐余彦の御前に立ち、大和の葛城山の峯に宿り、そこから遷って山城国の岡田の賀茂に至り、木津川の沿って下り、桂川と鴨川の合流するところに至って鴨川を見まわして言うには「小さいが石川の清川(スミカワ)である」と。これによって「石川の瀬見の小川」と名付けられた。
その川から上って久我国の北の山基(ヤマモト)に鎮まり、その時から賀茂と名付けられた。
賀茂建角身命と夫婦になった丹波国の神である神伊可古夜日女は、玉依日子、玉依日売を生んだ。玉依日売が石川の瀬見の小川で遊んでいたところ、丹塗矢が川上から流れ下ってきた。これを取って寝床の辺に挿して置いていたところ懐妊して男子を生んだ。
やがて成人し、建角身命が八尋屋を造って酒を醸し神々を集めて宴会した際に、祖父である建角身命が「お前の父と思う者にこの酒を飲ませよ」と問うと、男子は盃を挙げ、屋根を貫いて天に昇った。これによって建角身命の名により男子は可茂別雷命と名付けられた。
丹塗矢は乙訓郡の社に坐す火雷神である。
『山城国風土記』逸文は、賀茂建角身命の鎮まる過程を記す前半と、丹塗矢伝承の後半に分かれています。
前半部分は賀茂建角身命を祖神とする賀茂氏が大和から山城へ至る過程を神話に託したものと言えるでしょう。当初は大和の葛城(現在の奈良県御所市付近)に居住していた賀茂氏は、山城国の岡田(現在の京都府木津川市加茂町:「岡田鴨神社」が鎮座する)を経由し、木津川を遡って桂川と鴨川の合流地(「久我神社」が鎮座する)から鴨川を遡上、「久我国の北の山基」(現在の当社付近か)に定住したことを示しています。
『新撰姓氏録』にはいくつかの系統の賀茂氏が登載されていますが、当社に関わる賀茂氏は神魂命-賀茂建角身命を祖とする系統の氏族です。以下が関係氏族です。
- 山城国神別「賀茂県主」(神魂命の孫、武津之身命の後)
- 山城国神別「鴨県主」(賀茂県主同祖)
また、同じく山城国神別に「矢田部」「丈部」「西泥土部」「祝部」も同祖として登載されています。
神日本磐余彦(神武天皇)が紀伊から大和へ入る時に先導した八咫烏は賀茂建角身命が大烏に化身したものといい、賀茂氏は神武東遷において功績を果たした人々の子孫であることが示唆されます。彼らが山城へ進出したのは、このような忠臣であったために朝廷から命を受けて開発の任務を担っていた可能性が考えられるかもしれません。
『山城国風土記』逸文の後半は有名な丹塗矢の伝承です。こちらの詳細は、丹塗矢(火雷神)の鎮まったとされる「角宮神社」の記事に書いているので併せてご覧ください。
さて『山城国風土記』では賀茂建角身命が当地に鎮まったとする一方で、賀茂別雷命は丹塗矢伝承により生まれた孫としています。ところが現状では当地には社名にもあるように賀茂別雷命を祀り、賀茂建角身命および玉依姫命は当社と対になる神社である「賀茂御祖神社」で祀っています。賀茂御祖神社は後に創建された神社であると考えられており、恐らく当社創建当初は三代の神を祀っていたところ、いつの頃か賀茂建角身命と玉依姫命を遷座したことが考えられそうです。
こうして賀茂氏の京都盆地における拠点として鎮座した当社は、その後延暦十三年(794年)に平安京遷都が行われてから朝廷より非常に厚い信仰を受けるようになっていきます。早くも貞観二年(807年)には正一位の神階を授けられ、当社の例祭である「賀茂祭(葵祭)」は勅祭とされました。また平安時代以降は内親王や女王が「斎王」として奉仕するなど、斎宮を設けた伊勢神宮に次ぐ扱いを受けました。
その後は斎王や賀茂祭の断絶などがありましたが、江戸時代には賀茂祭が再開され、朝廷のみならず庶民からの崇敬も集めました。現在は京都はもちろん全国的にも、また世界的にも知られる神社となっています。
境内の様子
境内入口。色鮮やかな朱鳥居が南向きに堂々と構えています。山城国一宮としての貫禄が感じられます。
鳥居をくぐった様子。参道の両側には芝生が広がっており、広々として開放的な空間となっています。それでいてその背後には鬱蒼とした森があり、それぞれの空間の対比が見て取れます。
参道の途中、右側(東側)には「外幣殿」と呼ばれる建物があります。天皇・上皇の行幸や摂関家の参詣の際に衣服を着替える等の準備をしたり、また葵祭等の神事にも使われる建物です。寛永五年(1628年)の造営で国指定重要文化財。
案内板
外幣殿
また、参道の左側(西側)には「神馬舎」があり、タイミングが合えば中に神馬がいます。
さらに参道を進むと二の鳥居が建っています。こちらも鮮やかな朱鳥居で風格があります。ここをくぐると社殿の建つ空間です。
二の鳥居をくぐると正面に南西向きの「細殿(ホソドノ)」と呼ばれる平入の入母屋造の建物が建っています。一般的な神社では拝殿にあたる建物ですが、こちらでも天皇・上皇、斎王の参詣の際に装束を着替える等の準備を行ったようです。寛永五年(1628年)の造営で、国指定重要文化財。
案内板
細殿
細殿の前には左右二つの「立砂(タテスナ)」があります。砂を円錐形に盛ったもので、当社の象徴的なものです。当社の御祭神である賀茂別雷神が降臨したという当社後方の「神山」に因んだものといわれ、神籬であるとされています。「清めのお砂」の起源であるとも。
案内板
立砂
当社の手水舎は細殿の裏にあり、やや珍しい立地です。この手水舎の水は当社の御祭神が降臨した「神山」のくぐり水を汲み上げたもので、飲用にも適しています。
二の鳥居のすぐ東側に「楽屋」と呼ばれる建物があります。神仏習合が行われていた時代に社僧が使っていた建物です。寛永五年(1628年)の造営で国指定重要文化財。
案内板
楽屋
細殿の右側(東側)に「舞殿」が建てられています。当社境内を流れる「ならの小川」の上に架かるように建てられており、「橋殿」とも呼ばれています。文久三年(1863年)の建立で国指定重要文化財。
案内板
舞殿(橋殿)
舞殿の右側(東側)には「土屋」があります。神主や社司の装束を整えるところとして使用されていましたが、現在は祓所として使用されているようです。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財。
案内板
土屋
舞殿の両脇にかかる石橋を渡ると正面に「岩上(ガンジョウ)」と呼ばれる注連縄の張られた岩があります。葵祭の際には宮司がこの上で蹲踞し、勅使と対面して神の御意思を述べる神事「返祝詞」が行われます。恐らく神山における祭神の降臨をここで再現したものなのでしょう。この場面は葵祭において最も重要な一幕であり、この岩は当社の祭祀において極めて重要な意味を持つ磐座、影向石であると言えます。
当社は本来は神山にある磐座で祭祀が行われたと考えられますが、いつしかこの岩で祭祀が行われ、後に現在地に社殿が造営されたとも言われています。この岩は古代の祭祀と現代の祭祀を繋ぐものであると言えるかもしれません。
案内板
岩上
案内板
岩上
岩上を脇目に進んでいくと朱塗りの鮮やかな三間一戸の平入入母屋造の楼門が建っています。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財。
楼門前には「玉橋」と呼ばれる木造の反橋が架かっていますが、注連縄が張られており通常参拝者は渡ることができません。国指定重要文化財。
参拝者は反橋の右側(東側)にある「片岡橋」を通って楼門の建つ空間へ渡ります。片岡橋は向唐破風の屋根の付いた橋となっています。国指定重要文化財。
楼門をくぐると正面に幣殿が建っています。一般の参拝客はここで参拝することになっており、実質的にはここが拝殿的な機能を持っています。寛永五年(1628年)の建立で国指定重要文化財。
幣殿の後方には三間社流造の本殿が建っています。写真を撮ることはできませんが、拝観受付を申し込むことで本殿を拝観することができます。文久三年の造営で国宝に指定されています。
また本殿の左側に隣接して本殿と同様の造りの権殿が建てられています。式年遷宮などで本殿の御神体を一時的に遷して祭祀を行うための建築です。こちらも文久三年の造営で国宝に指定されています。
境内の西側から、賀茂別雷神の降臨したと伝えられる「神山(コウヤマ)」を望むことが出来ます。円錐形の美しい山です。
秋には境内の楓が染まり、美しい紅葉を楽しむことができます。
一方、春には境内のあちこちで桜が咲き誇り、花見を楽しむことができます。
楼門前にある桜はほんのりピンク色で、大きな個体ではないものの絶妙な立地にあり、見事な風景を楽しませてくれます。
この桜はかなりの早咲きで、ソメイヨシノが咲き出す頃に満開を迎えます。
参道途中の右側(東側)には「御所桜」と呼ばれる枝垂れ桜があります。孝明天皇が下賜したものを当社の社家が奉納したものと言われています。
こちらも大変見事なもの。両隣にもそれぞれ同時期に咲く桜が植えられており、それらと共に春を演出してくれます。
この桜も早咲きで、楼門前の桜よりは若干遅れるものの、ソメイヨシノが見頃となる前に満開を迎えます。
さらに御所桜の南側に「斎王桜」と呼ばれる紅枝垂れ桜があり、これも素晴らしい桜です。
こちらは遅咲きの桜で、ソメイヨシノよりも遅れて見頃を迎えます。未記録なので記録でき次第掲載の予定です。
お知らせ
当社は境内社が多いため、境内社については別記事にて紹介します。そちらも併せてご覧ください。
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御朱印
由緒
案内板
ようこそ、世界文化遺産・上賀茂神社へ
『都名所図会』
地図
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