社号 | 野間神社 |
読み | のま |
通称 | |
旧呼称 | 布留社 等 |
鎮座地 | 大阪府豊能郡能勢町地黄 |
旧国郡 | 摂津国能勢郡地黄村 |
御祭神 | 饒速日命、宇賀御魂神、菅原道真、草野姫命、野見宿根 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月14日 |
野間神社の概要
大阪府豊能郡能勢町地黄に鎮座する式内社です。
社伝によれば、推古天皇十三年(605年)九月に物部氏の奉斎した大和国山辺郡(現在の奈良県天理市布留町)の「石上神宮」から勾玉を奉斎したと伝えられています。また天喜二年(1054年)に石上神宮から遷座されたとも伝えられています。
当社は江戸時代以前は「布留社」と呼ばれていました。布留とは石上神宮の鎮座地であり、旧社名はこれに因むと言われています。
また当社は物部系氏族の「野間氏」が奉斎していたことが考えられます。『先代旧事本紀』に饒速日尊の十四世孫に「物部金連公」がおり、「野間連」らの祖であると記されています。この氏族が当地に居住し、石上神宮から御神体を奉り祖神を祀ったのが当社だったと考えられます。
そして現在の主祭神は物部氏の祖神である「饒速日命」であり、名実共に物部氏の神社であることがわかります。
一方で当社の鎮座地の「地黄」とは薬草の名で、石上神宮からの勧請に伴って人々がこの地にもたらし、地黄を生産したことに因むと言われています。
平安時代に摂津国にあったとされる官営の薬園「地黄御薗」は当地であるとされ、生産された地黄が典薬寮に調進されていたことが推測されています。
さらに時代が下って長暦元年(1037年)には能勢採銅所が設置され、当社は採銅所の鎮守社となり採銅所の責任者である佐伯氏が神主となっていたことが明らかになっています。この頃には物部氏の血筋は途絶えていたのかもしれません。
その後の戦乱期には何度も戦乱に巻き込まれ、社殿の焼失の憂き目にも遭いましたが、近世にはようやく落ち着き、当地を領有した能勢氏が厚く崇敬して万治年間に社殿も再建されました。
当社は複雑な歴史を経て今に至っていることが窺われますが、物部氏の神を祀るという点だけは古くから変わらず伝えてきているようです。当社のように一貫して石上神宮の神を祀ると伝え続けているのは珍しい例です。
境内の様子
当社の一の鳥居は石製の両部鳥居で、境内入口の東方約150mほどのところに東向きに建っています。一の鳥居周辺は駐車場となっているようで参拝にはやや不便です。
一の鳥居から西へ進むと右側(北側)に当社の境内があります。境内の南側に入口があり、石製の両部鳥居である二の鳥居が南向きに建っています。
二の鳥居の右側(東側)に「野間社」と刻まれた石碑があります。
これは江戸時代中期の地理学者・並河誠所が当時所在不明となっていた式内社を研究し、比定された神社に記念として建立されたもの。
摂津国ではよく見かけるもので、この石碑がある神社は式内社の比定に賛否の分かれる例が多いですが、当社の場合は概要に示した通り式内社である可能性が高いと思われます。
二の鳥居をくぐって右側(東側)に手水舎があります。
二の鳥居をくぐると広い空間となっており、正面に南向きの社殿が並んでいます。背後には杉などの巨樹も聳えており豊かな社叢を形成しています。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造の中央に銅板葺の平入切妻屋根が段違い屋根となって設けられています。
拝殿前には百日紅の木が聳えており、夏場には社殿に花を添えてくれます。
拝殿前の灯籠には「布留神社廣前」と刻まれてあり、かつての呼称の痕跡を残しています。
なお、この灯籠は延享四年(1747年)のものですが、江戸時代に「○○神社」と表記されるのはやや珍しい例です。(一般的には「○○社」「○○宮」などが多い)
本殿は銅板葺の一間社流造で大型の建築。
本社拝殿の左側(西側)に南向きに建つ境内社。社名・祭神は不明です。
先の不明の境内社の左側(西側)に石組の小さな庭園があり「陰陽石」と名付けられています。中央の円柱の石はイザナギ・イザナミの二神が出会った時の天沼矛にみたてているとの由。
本社拝殿の右側(東側)に「住吉神社」と「辨天神社」の相殿となった境内社が南向きに鎮座。
拝殿前の右側(東側)の基壇上に二社の境内社が西向きに鎮座しています。
左側(北側)は「各區祭神総社」、右側(南側)は「稲荷総社」。近隣から遷座した神社をここに併せて祀っているものと思われます。
先の二社の手前側(西側)に紙垂の吊るされた紐で囲われた区画があり、その内側に「祓戸神社」が西向きに鎮座。
祓戸神社の右側(南側)にコンクリート塀で囲われた区画があり、そこに「七郎神社」が南向きに鎮座。
野間神社は「地黄長者七郎屋敷」に石上神宮の分霊を遷したと伝えられており、これと関係あるのかもしれません。七郎とは古い時代の当地の有力者だったのでしょう。
初秋の頃は当社周辺の田圃に彼岸花がそこかしこに咲き乱れ、鮮やかな光景を楽しませてくれます。
野間の大けやき
当社の南西約900mほどの野間稲地地区に非常に大きなケヤキがあります。樹齢千年以上と推定され、幹周り14m、高さ30mにもなり、非常に貴重な樹木として国指定天然記念物となっています。
この地はかつて「蟻無宮」という神社の境内でしたが、明治四十五年(1912年)に野間神社に合祀されました。蟻無宮は承久二年(1220年)の創建と伝えられ、「紀貫之」を祭神とし、このケヤキを御神木としていました。
古くは社名にあやかって、境内の砂を持ち帰って畑や屋内に散布すれば蟻が退散すると伝えられていました。また、春先に出るケヤキの新芽の出具合でその年の豊凶を占ったとも伝えられています。
現在も注連縄が巻かれていると共に傍らに小祠もあり、御神木として守られ続けています。
案内板
国指定天然記念物
野間の大けやき
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昭和二十三年一月十四日 文化財保護法により指定
この大けやきを中心とする一画の地は、もと「蟻無宮」という神社の境内で、この樹はその神の憑り代、すなわち御神体ともいうべき神木であったと思われる。
樹齢千年以上と推定されるこの樹は、目通りの幹回り約十四メートル、高さ三十メートル、枝張り南北三十八メートル、東西約四十二メートルあり、一樹にしてよく社叢をなし、けやきとして大阪府下で一番、全国的にも第四番目を誇る巨樹である。
古来よりこの大けやきにまつわる伝承を探れば、里人らは春さきに出る新芽の出具合によって、この年の豊凶を占ってきたと伝えている。
また、社庭の砂を請い受けて持ち帰り、はたけもの(野菜)や屋内に散布すれば、蟻が退散するといい、その効験は遠くまで知れわたっていた。おそらく社名蟻無によるものであろう。
さらに一説では、有無社は紀貫之を祭神としており、貫之が同じく三十六歌仙の一人である源公忠に贈った歌により社名を付したという。すなわち
『手にむすぶ水にやとれる月影の あるかなきかの世にこそありけれ』
又経房遺書(安徳天皇ご潜幸の伝承)の一節に「…河合にいとおほきなる沢ありて水よどめり、さハの中じまに市女が笠てふものに似たるいとうるはしき木の紅葉せしあり…」(原文)、奥書きは、「建保五丑年」とあり、なにか大けやきを連想させるものがある。
当社の創祀は、承久二庚辰三月十五日とあり、遠く鎌倉時代にさか上るが、明治四十五年当社祭神は野間神社に合祀された。以後、神木の保全・境内の清浄化に蟻無会(前身は蟻無講中)をはじめ、郷民こぞって奉仕してきたところである。
とくに最近樹勢回復のため治療を施し、ようやく往来の姿によみがえろうとしている。
タマ姫
ここは物部氏の神社なの?物部氏って河内みたいな平野部にいるイメージだった!
物部氏は全国各地いろんなところにいたみたいね。ここは古くから石上神宮からの勧請と伝えられて「布留社」と呼ばれてきたから、猶更物部氏の影響が強かったんじゃないかしら。
トヨ姫
由緒
案内板
野間神社
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当社は、地黄字森畑に鎮座する『延喜式』内の神社である。『延喜式』神名帳 能勢郡の条に、「野間神社」とある。当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の十三年(六〇五)九月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭したと記されている。また、「能勢郡神社仏閣由来」には、天喜二甲午年(一〇五四)に同所より遷座がなされたと記されている。つまり今の奈艮県天理市の石上神宮の分霊を布留道(布留大明神が当地へ遷座の時通った道)「大原越え」を通り、「・・・地黄長者七郎屋敷江移ス、地黄布留大明神ト号ス」とあり、古くは社号を「布留宮」、「布留社」、「布留大明神」と呼んでいた。
祭神は、「饒議速日命」、「宇賀御魂神」、「菅原道真」、「草野姫命」、「野見宿祢」となつている。「饒速日命」は物部氏の祖神で、前記の石上神宮は物部氏の氏神であること、今一つには、大化前代より当地域に蟠踞していた野間の連は、「物部金連公、野間連等の祖」とあり、この地域一帯は、物部氏の勢力下にあつて、しかもその一族の影響力の強い野間氏の氏神だった可能性がある。
野見宿祢は、士器をつくって朝廷に献上した氏族で、その宿弥を祭神としているのは、雄略天皇期、能勢より士器を献上したという日本書紀の記述に結びつき、土師氏の祖として祭祀されたと考えられる。
社記によれば、当社の鎮座する地域を「地黄」と呼ぶのは、前記石上神宮より分霊と共に、この地に同道した人々が持ち来たり、産出した薬草「地黄草」の名に因んだものだといわれている。平安時代の承和年中(八三四~四八)より、当地は調停典薬寮領の地黄御薗として、薬草の貢献が行われた。
さらに平安時代の長暦元年(一〇三七)、能勢採銅所の設置により、布留社(野間神社)は、同採銅所の鎮守社となり、採銅所権預(奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになった。
その後の戦乱期には、能勢氏の居城とあいまって、天正年間(一五七三~九二)織田信澄、また隣接の塩川氏との抗争の繰り返しで、社殿をはじめ城下は度重なる兵火に見舞われ、天正十六年(一五八八)より能勢氏伝来の領地は島津氏の領有となつた。
天正十九年(一五九一)九月領主島津義弘は、前領主能勢頼次等の願望を聞き入れ、頼次を本願人として社殿を再建した。この時の棟札を『東郷村誌』にみると、各村々の人数は合て千四百七拾九人となり、当時の人口動静また氏子数など貴重な資料といえよう。
その後能勢氏は、関ヶ原の役の功により旧領が復帰し、領主頼次の帰郷に際しては、当社の社庭に領民ことごとくが集まり、三日三晩祝杯をあげたと伝えている。
以後、領主能勢氏の尊崇は厚く、万治年間(一六五八~六一)に拝殿・大鳥居を造立、元文元年(一七三六)には社殿の改築がなされ、また同年に並河誠所によって「野間社」の社号標も鳥居の右側に建立された。明治四十年には、領内最奇りの神社九社が当社に台祀された。
祭事としては、古来より毎年十二月に行われる「御召し替え」(御霊代である玉の包み替え)をはじめ、特に十月秋の大祭には、近郷稀な「たんじり」「しし舞い」でにぎわう豪勢な祭りがとり行われている。
平成十五年三月
案内板
由緒(野間神社)
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当社は第三十五代推古天皇十三年(西暦六〇五年)即ち今より約一四〇〇年前勅命に依り大和の布留神廟(今の石上神宮)から布留道を通り奉遷したのである 故に当社を布留宮とも申 昔は官幣社の待遇を受けていた 東能勢歌垣田尻吉川の総社でもあった。大祭には国より遣幣使も派遣されていた有名神社である その証として第六十代醍醐天皇の御代(九二七)式内社として延喜格式の中に記してある ご祭神は饒速日命(布留大明神)で神霊代は命が頚に懸けされていた瓊玉である 命は神武天皇ご創業の際に子可美真手命と共に兇族長髄彦を討って大業を翼貰し給うた軍神であり又天降りの際、天神(高見産土神)より賜りし十種の神宝を以って諸病を平癒し諸難を避け給う御神徳を兼ね備へられた神でもある。
当社は天正八年(一五八〇)織田信長の命を受けた織田信澄が乱入し社殿は大破し古文書は焼失す 九月能勢頼道討死後二〇年間島津義久の領地となる 天正十九年社殿大修理せり 其の後慶長五年(一六〇〇)能勢頼次が関ヶ原合戦の功により再び能勢家の領地となるや一早く社殿を営繕したのである 今の本殿は即ち是なり 明治四十年(一九〇七)神社合併令により村内神社二〇体を此の境内に末社として奉遷す 此の側の「菅広房」の寄贈になる野間社の石碑は第百十四代中御門天皇の御代(一七二〇)八代将軍徳川吉宗の時大岡越前守の認可を得て摂津の国で式内社の中の由緒正しき神社(大阪府下(13)兵庫県下(7))へ下附されたのである(当時二〇両)
大祭は十月十四、十五の両日で神輿(1)地車(6)□々頭(1)が出て、盛大に施行されている
昭和五十六年(一九八一)十二月吉日
『摂津名所図会』
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野間神社
地黄村にあり。延喜式曰 今布留社と称す。野間地黄の生土神にして例祭九月十五日。上棟文曰 天正十九年重修。
地図
大阪府豊能郡能勢町地黄
関係する寺社等
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石上神宮 (奈良県天理市布留町)
社号 石上神宮 読み いそのかみ 通称 旧呼称 布留社 等 鎮座地 奈良県天理市布留町 旧国郡 大和国山辺郡布留村 御祭神 布都御魂大神、布留御魂大神、布都斯魂大神 社格 式内社、二十二社、旧官幣大社 ...
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