社号 | 伏見稲荷大社 |
読み | ふしみいなり |
通称 | |
旧呼称 | 三之峰稲荷大明神 等 |
鎮座地 | 京都府京都市伏見区深草藪之内町 |
旧国郡 | 山城国紀伊郡稲荷村 |
御祭神 | 宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神 |
社格 | 式内社、二十二社、旧官幣大社 |
例祭 | 5月3日 |
式内社
伏見稲荷大社の概要
京都府京都市伏見区深草藪之内町に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳に名神大社に列せられたと共に、二十二社の上七社にも列せられており、古くから非常に格の高い神社でした。
当社は京都盆地の西側に鎮座する「松尾大社」と共に「秦氏」が奉斎してきた神社です。五世紀頃に本邦へ渡来した秦氏は京都盆地に定住し、彼らの持つ卓越した技術力で以て大規模に開発しました。彼らの領域は京都盆地一帯に広がり、これに伴い西側の松尾山に松尾大社、東側の稲荷山に当社を奉斎しました。
社伝では当社の創建は和銅四年(711年)二月の初午の日としています。一方、当社の創建については『山城国風土記』逸文に次のような記述があります。
『山城国風土記』逸文(大意)
伊奈利と称するのは次の通り。秦中家忌寸の祖、秦伊侶具は豊富な稲作で裕福だった。そこで餅を的にして矢を射ると白い鳥となって飛び、山の峰に降り稲が成った(※子を生んだとする写本もある)。それで社の名とした。その子孫は先祖の過ちを悔いて社の木を抜いて家に植えて祭った。今ではその木を植えて根付けば幸福となり、枯れれば幸福にならないという。
同様に餅を的にしたところ餅が鳥となったとする話は『豊後国風土記』にも見え、そちらでは鳥が飛び去った後に人々は死にゆき田畑は荒れ果てたとされています。餅が穀霊であり、鳥はその象徴、または媒介的な存在であることが示唆されています。『豊後国風土記』では鳥が飛び去った後の破滅が描かれており、『山城国風土記』逸文でも餅を的にしたことを過ちとしているので、元来は破滅的な描写があったのかもしれません。いずれにせよ、これをきっかけとして稲の実りを司る穀霊を祀ったことが示唆されています。
それより後に書かれた縁起にはこれとは全く別の由緒が描かれています。南北朝時代に書かれた『稲荷大明神流記』には次のようにあります。
『稲荷大明神流記』(大意)
弘仁七年、弘法大師が紀伊田辺の宿で異相の老翁に会った。老翁は自分は神であると言い、自分の弟子になるよう勧めると、弘法大師は東寺で待っていると答え約束を交わした。弘仁十四年、件の紀伊の神が東寺の南門に来た。稲を荷し、椙の葉を提げ、二人の女と子供を率いていた。弘法大師は喜んでもてなし周りもこれに倣った。その後一行はしばらく二階の柴守に寄宿し、その間に弘法大師は寺の杣山に勝地を定めて十七日間祈祷し、老翁を神として祀った。
また、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』には次のように描かれています。
『稲荷大明神縁起』(大意)
100年の昔、和銅年間から竜頭太という者が稲荷山の麓に庵を結んでいた。その顔は龍のようで、顔の上に光があり、夜でも昼のように明るく照らした。人はこれを竜頭太と呼び、姓は荷田という。稲を荷す故である。弘仁の頃、弘法大師がこの山で修行していると、竜頭太が現れて「我はこの山の神である。仏法を守護しようと願っているので真言の口味を受けたい。さすればこの霊地を譲り渡そう。」と言った。弘法大師は深く敬ってその顔を面に移して神体とした。この面は東寺の竈戸殿に安置している。弘法大師は山を譲り受けた後に稲荷明神をこの地に勧請した。山麓には藤尾大明神が鎮座していたが深草に遷座させた。
これは秦氏と共に当社の社家を務めた「荷田氏」(秦氏の傍流とも別の出自とも言われる/江戸時代には国学者の荷田春満を輩出)に伝わる由緒のようで、東寺との関係が非常に密接であることがわかります。東寺はかつて当社の神宮寺のような存在であり、今でも当社の氏子は東寺付近となっています。
一方で『稲荷大明神縁起』にあるように、稲荷山の麓には元々は藤尾大明神が鎮座していたと伝えています。藤尾大明神は現在の「藤森神社」に合祀されている神社とされています。藤森神社の伝承も旧地は当社付近と伝えられ、また現在も当社付近の氏子は藤森神社となっています。
このように当社の由緒は『山城国風土記』逸文が伝える秦氏による白鳥伝承と、『稲荷大明神流記』や『稲荷大明神縁起』のように弘法大師との関わりの中で描かれる伝承の二通りがあることがわかります。前者は餅が白鳥となった点に穀霊が示唆され、後者は「稲を荷する」点に稲の神であることが示唆されています。それと同時に竜頭太の顔が龍の如きであったことから、稲荷山に住まう龍神であり、また農業に必要な水を司る神であったことも考えられるかもしれません。
平安時代には当社は上社・中社・下社に分かれていたようで、これが稲荷山上の一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰に対応するのか、それとも山上・山腹・麓に対応するのかは所説あるようです。ただ、藤森神社の伝承に永享十年(1438年)に山頂にあった稲荷社の社殿を麓に遷したとあり、この頃に麓に集約して祀るようになったようです。
『延喜式』神名帳は三座とあり、「宇迦之御魂大神」「佐田彦大神」「大宮能売大神」を本来の祭神としています。後に「田中大神」「四大神」が合祀されましたが、この二神がどのような神であるのかは詳らかでありません。
当社は古くから朝廷のみならず庶民からの崇敬も篤く、特に江戸時代には商売繁盛の神として非常に人気となり全国に勧請されました。
祈願が成就した礼として朱の鳥居が奉納され、稲荷山の参道はこの鳥居がずらっと並んでいます。この光景は非常によく知られており、現在では国内はおろか世界各国から非常に多くの参拝客が訪れ、日本で最も人気のある観光地とまで言われるほどです。一年を通して非常に活気のある神社と言えましょう。
境内の様子
境内入口。一の鳥居である大きな朱鳥居が西向きに建っています。なおこちらの入口はJR稲荷駅からすぐですが、京阪の伏見稲荷駅からは裏参道から入るのが一般的なので一の鳥居を迂回する形になります。
参道を進んでいくと大きな二の鳥居が建っています。
二の鳥居をくぐって左側(北側)に手水舎があります。
二の鳥居をくぐると石段の上に三間一戸の檜皮葺・平入入母屋造の楼門が建っています。楼門およびこれに接続する南北の廻廊は天正十七年(1589年)の造営で、国指定重要文化財。
楼門の前には当社の神使である狐に因み銅製の狛狐が配置されています。
楼門内には左右に随身像が安置されています。楼門は随身門の機能も兼ねています。
楼門をくぐると西向きの社殿が並んでおり、すぐ正面に檜皮葺・平入入母屋造の「外拝殿(げはいでん)」が建っています。この建物は元は四間四方だったものを天保十一年(1840年)に稲荷祭礼で五基の神輿を並べるために間口五間奥行三間に改造されたものです。
ただし、『都名所図会』の挿絵では間口三間、奥行き二間のやや小さな舞殿風拝殿として描かれています。国指定重要文化財。
外拝殿の後方、石段上に「内拝殿」が建っています。銅板葺の平入入母屋造で非常に大きな唐破風の向拝が付いているのが特徴。『都名所図会』ではこの建物は描かれておらず、かつては直接本殿に参拝する形式だったようです。
内拝殿前にも銅製の狛狐が配置されています。
内拝殿の後方に檜皮葺・五間社流造の本殿が建っています。神社建築としては非常に大規模で、前面の屋根が長いのが特徴です。明応三年(1494年)に建立された貴重な建築で、国指定重要文化財。
本殿に祀られる神は左側(北側)からそれぞれ「田中大神」(最北座/下社摂社)、「佐田彦大神」(北座/中社)、「宇迦之御魂大神 」(中央座/下社)、「大宮能売大神」(南座/上社)、「四大神」(最南座/中社摂社)。形式的には宇迦之御魂大神を中心として佐田彦大神と大宮能売大神を併せた三神を主祭神とし、残りの二神はその摂社という扱いになっています。
本社内拝殿の南側には「神楽殿」が建っています。
本殿の左側(北側)には檜皮葺・五間社流造の「権殿」が建っています。本社社殿で遷宮・改修などが行われるとき、代わりに神を祀るところです。寛永十二年(1635年)の建立で国指定重要文化財。
案内板
権殿(重要文化財)
権殿横から奥社奉拝所へ
権殿の左側(北側)に鳥居が建っており、ここから石段を上った先の空間に多くの境内社があります。
石段の上の空間を左手前側(北西側)から見ていきます。
最も北西側に鎮座するのは「長者社」。「秦氏の祖神」を祀っています。
秦氏は当社を創建し、代々社家を務めた氏族です。一間社流見世棚造の江戸時代前期の建築で国指定重要文化財の附。
案内板
末社 長者社(重要文化財・附)
長者社の右側(東側)に「荷田社」が鎮座。御祭神は「荷田氏の祖神」。
荷田氏は秦氏とともに当社の社家を務めた氏族で、江戸時代には著名な国学者である荷田春満を輩出しています。
元禄七年(1694年)に建立された一間社流見世棚造で、国指定重要文化財の附。
案内板
末社 荷田社(重要文化財・附)
荷田社の右側(東側)に「五社相殿」が鎮座。それぞれ左側から次の神社の相殿となっています。
「蛭子社」(御祭神「事代主神」)
「猛尾社」(御祭神「須佐之男命」)
「若王子社」(御祭神「若王子大神」)
「日吉社」(御祭神「大山咋神」)
「八幡宮社」(御祭神「応神天皇」)
それぞれ境内の各所に祀られていた神社を元禄七年(1694年)に相殿として祀ったものです。五間社流見世棚造で国指定重要文化財の附。
案内板
五社相殿(重要文化財・附)
五社相殿の右側(東側)に「両宮社」が鎮座。御祭神は「天照皇大神」「豊受皇大神」。
当社の殆どの社殿に朱が施されるのに対し、この社殿だけ素木で異彩を放っています。元禄七年(1694年)に建立された神明造で国指定重要文化財の附。
案内板
末社 両宮社(重要文化財・附)
石段奥の東側へ。こちらの左側(北側)に「供物所」があります。妻入入母屋造の建物で、社殿のような出で立ちですが、これは稲荷山に坐す神々へ供物を奉納するための建物です。正面の開口部から供物を差し入れるもので、他にあまり例を見ない建物です。
案内板
供物所
供物所の右側(南側)に「玉山稲荷社」が鎮座。御祭神は「玉山稲荷大神」。
東山天皇が祀っていた稲荷社を、崩御の後に松尾の月読神社の社家が預かり、その後某所に遷座、明治七年(1874年)に当地に遷座されたものです。
案内板
末社 玉山稲荷社
玉山稲荷社の右側(南側)に神馬像が、さらに南側の参道突き当りにもう一つ神馬像が安置されています。
参道は升形状に続いており、その先にさらに石段があります。この石段の上の空間にも境内社が鎮座しています。
石段の上、左側(北側)に「白狐社」が鎮座。御祭神は「命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」。
当社では狐を神の使い(眷属)としていますが、その眷属を祀っています。
当社において狐を眷属とするようになった経緯は神道・仏教・その他海外の典籍等の様々の信仰や神話が結びついた結果と思われますが、『稲荷大明神流記』には次のような話が描かれています。
『稲荷大明神流記』(大意)
弘仁年間のこと、船岡山の麓に年老いた狐の夫婦がいた。オスは銀の針を立てたような毛並みで、尾は五鈷杵を巻き挟んだようであった。メスは頭は鹿、身体は狐で五匹の子狐を連れていた。この狐の夫婦は稲荷山に参り「我らは世を守り人々を助けたいと願っているが、畜生の身では成し遂げられない。どうか神の眷属となってこの願いを成し遂げたい」と言った。すると稲荷神は喜んでこれを受け入れて狐の夫婦を眷属とし、男狐に「小薄(コススキ)」、女狐に「阿古町(アコマチ)」の名を授けた。この狐は「告狐」と呼ばれ霊験あらたかなものである。
このように当社と狐は古くから結びついて信仰されていました。一説には白狐社の御祭神である「命婦専女神」とは、上に出てくる女狐である「阿古町」であるとも言われています。
白狐社の社殿は寛永年間に建立された一間社春日造の建築で国指定重要文化財。
案内板
末社 白狐社
白狐社の右側(南側)に「奥宮」が鎮座。御祭神は「稲荷大神」。
この境内社は摂社でも末社でもない別格の神社として扱われており、かつては廻廊があったようです。
天正年間に建立された三間社流造で、国指定重要文化財。
案内板
奥宮(重要文化財)
この空間もまた升形状になっています。この空間の先、奥宮の右側(南側)からは参道に非常に多くの朱鳥居が連なっており、目に飛び込んでくる鮮やかな鳥居の数々はまさに壮観です。これらは「千本鳥居」と呼ばれており、世界的に有名な光景です。
千本鳥居を抜けた先の空間に「奥社奉拝所」があります。稲荷山への遥拝所にあたりますが、拝殿と本殿を備えており、普通の神社と変わらない形態です。その立地からしても、上述の奥宮よりも“奥宮らしい”出で立ちとも言えます。
拝殿は銅板葺きの妻入切妻造、本殿は檜皮葺の平入入母屋造で、非常に長い千鳥破風の向拝が付いています。
奥社奉拝所では絵馬ならぬ「絵狐」が多数奉納されており、名物になっています。絵狐に各々が思い思いに顔を描くのが習わしになっています。
後方にある「おもかる石」も有名です。
願いを念じて灯籠の空輪を持ち上げ、その重さが軽いと感じれば願いは成就し、重いと感じれば願いは成就しないとされています。
おもかる石は各地で見られるもので、石を持ち上げられれば神に願いが通じるとする信仰です。各地で力比べに用いられた力石はこれと同様の例と言えましょう。
お知らせ
これより先、「稲荷山」については別記事にて紹介しています。こちらも併せてご覧くださいませ。
伏見稲荷大社 稲荷山 (京都府京都市伏見区深草藪之内町)
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東丸神社
ここで一旦本社側へ戻ります。
本社外拝殿の南側には「東丸神社」が北向きに鎮座しています。御祭神は江戸時代の当社の神官であり国学者でもあった「荷田東丸命(荷田春満/かだのあずままろ)」。
伏見稲荷大社の境内に接続していますが実は独立した神社です。学問に験のある神社として信仰されています。
案内板
東丸神社由緒略記
東丸神社の参道の左側(東側)に「荷田社」(左側)と「春葉殿」(右側)が鎮座。荷田社は荷田氏の祖とされる「荷田殷」「荷田嗣」「荷田早」「荷田龍」を合祀しています。荷田龍は『伏見大明神縁起』に登場する「竜頭太」と同一人物です。
案内板
荷田社
表参道の境内社
さらに戻って楼門手前側の表参道へ。参道途中の左側(北側)にちょっとした空間があり、ここに境内社が三社鎮座しています。
左側(西側)に鎮座するのは「熊野社」。御祭神は「伊邪那美大神」。
元禄七年に建立された春日見世棚造で、国指定重要文化財の附。
案内板
末社 熊野社(重要文化財・附)
中央に「藤尾社」が鎮座。御祭神は「舎人親王」。
元々伏見稲荷大社の地は藤尾大明神の地だったと言われています。藤尾大明神は現在の藤森神社に合祀されている一社ですが、それとは別に新しく藤尾社を祀っているようです。
江戸時代初期の流見世棚造で、国指定重要文化財の附。
案内板
末社 藤尾社(重要文化財・附)
右側(東側)に鎮座するのは「霊魂社」。伏見稲荷大社に関係の深い人物の霊を祀っています。
一間社春日造。朱塗りの社殿の多い当社において、両宮社とともに素木の建築で異彩を放っています。
案内板
霊魂社
当社周辺の様子
多くの参拝客を集めるだけあって、当社の周辺は土産物屋や飲食店が建ち並び、大規模な鳥居町を形成しています。
厚揚げに酢飯を詰めた「稲荷寿司」は当社の名物となっています。参道近くにある「祢ざめ家」さんの稲荷寿司は中でも有名で、麻の実の入った独特の食感で大変美味です。小腹が空いたら是非ともどうぞ。
またスズメ・ウズラの丸焼きも名物となっています。
御朱印
由緒
案内板
伏見稲荷大社
『都名所図会』
地図
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