社号 | 大和神社 |
読み | おおやまと |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県天理市新泉町 |
旧国郡 | 大和国山辺郡新泉村 |
御祭神 | 日本大国魂大神、八千戈大神、御年大神 |
社格 | 式内社、二十二社、旧官幣大社 |
例祭 | 4月1日 |
大和神社の概要
奈良県天理市新泉町に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社に列せられると共に、二十二社の中八社の一社にも列せられ、古くから非常に有力な神社でした。
当社の創建の様子は『日本書紀』に記されています。崇神天皇六年の条に次のようにあります。
『日本書紀』(大意)
この年、百姓は流離し、あるいは背くなど徳で以て治めるのが難しい状況であった。これより先、天照大神と倭大国魂神の二神を天皇の大殿の内に祀っていたが、その神の勢いを畏れ、共に住むことに不安を抱いた。
このため天照大神は豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)に託して倭笠縫邑に祀り、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立てた。
また日本大国魂神は渟名城入姫(ヌナキイリヒメ)に託して祀らせたが、渟名城入姫は髪が落ち痩せ細り祀ることができなくなってしまった。
このように崇神天皇の御代まで天照大神と倭大国魂神は天皇と「同床共殿」で祀られていましたが、これを畏れたために宮中の外の然るべき地にそれぞれの神を祀らせました。
天照大神を豊鍬入姫命に託して祀らせたのが「倭笠縫邑」で、その地は檜原神社など様々な地が比定され、さらにその後各地を転々と遷り、豊鍬入姫命に代わって倭姫命に託され、最終的には伊勢に鎮座して伊勢神宮の内宮となります。
一方の倭大国魂神は当社の神で、渟名城入姫に祀らせたものの、髪が落ち身体は痩せ細り祀ることができなくなってしまいます。
その状況を打開すべく崇神天皇七年八月条および十一月条に次のような記事が記されています。
『日本書紀』(大意)
八月
三人が同じ夢を見た。その夢によれば、ある貴人が「大田田根子命に大物主大神を祀らせ、市磯長尾市(イチシノナガオチ)に倭大国魂神を祀らせよ。必ず天下は太平となろう」と言った。(以下略)
十一月
大田田根子命に大物主大神を祀らせ、また長尾市に倭大国魂神を祀らせたところ、疫病は治まり、国内は落ち着き、五穀は実り百姓も豊かになった。
大田田根子命に祀らせた大物主大神とは桜井市三輪に鎮座する「大神神社」の神です。その様子の詳細は当該記事をご覧ください。
一方、倭大国魂神は市磯長尾市という人物に祀らせるよう夢に告げられます。
市磯長尾市は大倭氏の祖であり、神武東征においてイワレヒコ(後の神武天皇)に瀬戸内海を案内した椎根津彦の子孫です。
椎根津彦は瀬戸内海の海峡などの要衝を掌握した海人族の首長を神格化したものと考えられ、その子孫である市磯長尾市や大倭氏が当社を奉斎していくことになったようです。
『新撰姓氏録』によれば椎根津彦(神知津彦命)の子孫として次の氏族が登載されています。
- 右京神別「倭太」(神知津彦命の後)
- 大和国神別「大和宿祢」(神知津彦命を出自とする)
- 摂津国神別「大和連」(神知津彦命の十一世孫、御物足尼の後)
この内、2.の「大和宿祢」が当社を奉斎した人々であると考えられます。
かつて天皇と「同床共殿」で祀っていた重要な神の祭祀を任されたことは大倭氏が神武東征以来の忠臣であり朝廷にとって重視された氏族だったことを示すと共に、天孫が祀るのでなく在来の氏族の祀るべき「地祇(くにつかみ)」であることをも示しているように思われます。
『日本書紀』垂仁天皇二十五年三月条にも同じ記事が記載されていますが、そこでは市磯長尾市が大倭氏の祖であることを記すと共に、当初渟名城稚(入)姫が祀っていた地が「穴磯邑」の「大市長岡岬」であることが記されています。
「穴磯」とは「穴師」のことで、現在も桜井市に穴師の地名が残っています。しかし「大市長岡岬」がどこであったかは諸説あります。
桜井氏穴師に鎮座する「穴師坐兵主神社」の地であるとも、天理市柳本町の「長岳寺」の地であるとも言われており詳らかでありませんが、ともかく当初は現在地の南東に鎮座していたようです。
当社の御祭神である「日本大国魂大神」(『日本書紀』では「倭(日本)大国魂神」)とは、文字通り大和国の「国魂」、つまり国土を神格化した霊です。
本居宣長は国魂とは「その国を経営坐(つくりまし)し功徳(いさお)ある神を国玉国御魂と云ふ」とし、その国土を形成し守護する神であるとしています。
本来は大和国一国の国魂だったと思われますが、「日本」とも表記され、後には二十二社に列せられるほど重視されたことから大和国のみでなく日本全体の国魂とも考えられていたことが推測されます。
また同じく大和国の国魂を祀ったと考えられる「大和大國魂神社」が淡路島(兵庫県南あわじ市榎列上幡多)に鎮座しており、全く不思議なように感じられますが、当社を奉斎した大倭氏が元々は瀬戸内海、特に大阪湾の海人族だったらしいことを考えれば、本拠地に近い淡路島に当社の神を勧請したことも考えられるかもしれません。
当社は平安時代の末頃から衰微し、中世には火災により大きな被害を受けたと言われています。
また明治以降に官幣大社に列せられると社殿は一新され、境内に古社を偲べるものは社叢くらいしかありません。
しかし戦艦大和の艦内神社として当社の分霊が祀られ、明治以降は特に多くの信仰を集めたようです。
現在はかつてほどの大社としての勢いはありませんが、本国の歴史上重要な神であることから今でも全国からの崇敬があります。
境内の様子
当社の入口は社殿の約300m東方にあり、一の鳥居が東向きに建っています。
一の鳥居をくぐった様子。左右に鬱蒼とした木々が生い茂り、長い参道が続く馬場となっています。
参道を進んでいくと二の鳥居が建っています。
二の鳥居をくぐった様子。圧迫感のある参道とはうってかわってやや開けた空間となり、正面奥に社殿が見えます。
二の鳥居をくぐって左側に手水舎があります。
さらに参道を進みます。途中から石畳が敷かれ、その奥は玉垣で仕切られています。その向こうが社殿の建ち並ぶ空間となります。
玉垣前に狛犬が配置されています。砂岩製。
玉垣を抜けるとその正面に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺・平入入母屋造で軒唐破風の付いたもの。拝殿前に妻入切妻造の小さな四阿状の建物が建てられています。
本殿は瑞垣に囲われておりよく見えませんが、檜皮葺・一間社春日造の本殿が三棟横並びに建っています。
左殿に「八千戈大神」、中殿に「日本大国魂大神」、右殿に「御年大神」を祀っています。
本社社殿の左側(南側)に「高龗神社」が東向きに鎮座。御祭神は「高龗大神」。
太くて丸い柱で構成された真っ赤な鳥居が建ち、その奥に銅板葺・平入切妻造の拝殿、檜皮葺・一間社流造の朱に塗られた本殿が建っています。
室町時代の『二十二社注式』には水神を祀る大和国吉野郡の「丹生川上神社」(論社は上社、中社、下社がある)は大和神社の別宮であると記され、また丹生川上神社における祈雨神祭の奉幣使は大和神社の神主が従うのが通例でした。
このように大和神社と丹生川上神社は深い関係にあり、当社は丹生川上神社から水神を勧請したものと考えられます。(逆に当社から丹生川上神社へ勧請したとの伝承もあり)
『日本書紀』神武東征の段では賊がいるため大和平野に入れないでいたところ、椎根津彦と弟猾に天香具山の埴土を取ってこさせて土器を作り、丹生川上に神々を祀ったことが記されており、大和神社の神主の祖である椎根津彦からして丹生川上と関わりを持っていたことが示唆されます。
案内板
高龗神社
案内板
高龗神社 祈雨神祭について 全国総本社
高龗神社の左側(南側)に三社の境内社が東向きに並んで建っています。
この三社の内、左側(南側)に建つのは「厳島神社」。御祭神は「厳島大神」。
社殿は流見世棚造。例祭は4月1日と9月23日。
中央に「事代主神社」が鎮座。御祭神は「事代主大神」。
社殿は春日見世棚造。例祭は4月1日と9月23日。エビス神として信仰されています。
右側(北側)に「朝日神社」が鎮座。御祭神は「朝日豊明神」。社殿は春日見世棚造。
『三代実録』貞観十一年九月二十八日条に「朝日豊明姫田神」が見え、一説に当社であるとも言われています。
三社の境内社の側に建つ神庫。
境内の北側には「祖霊社」が南向きに鎮座。御祭神は「大国主神」「国津神珍彦命」「市磯長尾市命」「大和宿祢長岡命」「大和神道御霊之社氏子祖霊」「戦艦大和第二艦隊戦没英霊等」。
簡素な妻入切妻屋根の拝殿が設けられ、本殿は銅板葺の一間社春日造でかつての本社本殿を移築したもの。
明治七年(1874年)の創建。大和神社の社家や氏子の祖霊と、戦艦大和の戦没者の霊を祀っています。
案内板
祖霊社
祖霊社の右側(東側)に隣接して、大和神社が戦艦大和と関係の深いことを記念する石碑が建っています。
戦艦大和は艦内神社として大和神社の神が船内に勧請されました。
案内板
大和神社は戦艦大和ゆかりの神社です
道を戻ります。参道に沿って、二の鳥居の南側に「増御子神社」が西向きに鎮座。御祭神は「猿田彦大神」「天鈿女命」。
石垣の上に瑞垣に囲われて銅板葺の一間社春日造の社殿が建っています。
神社周辺の様子
当社一の鳥居から南へ700mほど進んだところに「御神幸お休所」があり、神輿台が設置されています。4月1日に行われる当社の例祭「ちゃんちゃん祭」では神輿が一時的にここに置かれます。
ここから600mほど東方に当社の御旅所があり、そこに「御旅所坐神社」が鎮座しています。
渟名城入姫神社
御神幸お休所の近くから西へ狭い路地を抜けると当社の境外摂社である「渟名城入姫神社」が鎮座しています。御祭神は「渟名城入姫命」。崇神天皇の皇女であり、大和神社の初代神主です。
入口には鳥居が南向きに建ち、一定の広さを持った敷地に社殿が建ち並び、独立した神社としての体裁を整えています。
鳥居をくぐると正面に南向きに社殿が建ち、拝殿は桟瓦葺の平入切妻造となっています。
後方の石垣上に銅板葺・一間社春日造の本殿が建っています。
本殿前に配置されている狛犬。花崗岩製です。
本殿の左側(西側)に「金毘羅大権現」、右側(東側)に「大神宮」と刻まれた石碑がそれぞれ建っています。
案内板
渟名城入姫神社
お知らせ
御朱印
由緒
案内板
大和大明神 日本最古の神社 大和神社
地図
渟名城入姫神社
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