社号 | 祝田神社 |
読み | はふりた |
通称 | |
旧呼称 | 天神、天満宮 等 |
鎮座地 | 奈良県天理市田部町 |
旧国郡 | 大和国山辺郡田部村 |
御祭神 | 豊受大神 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月14日 |
式内社
祝田神社の概要
奈良県天理市田部町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
江戸時代中期の地誌『大和志』は式内社「祝田神社」を当社に比定しているものの、その根拠は不明です。
当社の案内板は「祝田とは古代大和朝廷の屯倉の地(朝廷の直轄領)で屯倉の耕作に従事した農民を表す田部と関連のある名称」と記していますが、田部の説明としては的確ではあるものの、これを祝田と直ちに結びつけて良いかはやや疑問です。
江戸時代以前には当社は「天神」「天満宮」と称する天神信仰の神社でしたが、現在は「豊受大神」を御祭神としており、農耕の守護神としての神格を反映したものとなっています。
一方、享保五年(1720年)の『石上布留神宮略抄』という文書に式内社「祝田神社」についての言及があり、次のように記しています。
- 田村(石上神宮の南西20余町)に鎮座する。
- その場所は「田村旧宮」の後であり、そこに鎮座する今木神は「日本武尊」である。
- 天平宝字年中に「吉田連智首(知須)」なる人物が今木(賢木)を立てて日本武尊を祀って奉斎する。
- 平安京遷都の際に山城国葛野郡平野に勧請し、第一神殿に祀る今木神は日本武尊であり当社の神である。
ここに言う田村とは当地(田部町)でなく、当地の南方約2kmほどのところにある田町にあたります。
そしてそこに式内社「祝田神社」が鎮座し、「吉田連智首」なる人物が祀ったことを記しています。
吉田連とは、『新撰姓氏録』に左京皇別、大春日朝臣同祖、孝昭天皇の皇子である天帯彦国押人命の四世孫・彦国葺命の後裔であるという「吉田連」であり、和珥氏と同族です。
布留一帯に物部氏が勢力を拡大する以前は和珥氏が居住していた形跡がある(詳細は「石上神宮」の記事を参照)ことから、和珥氏の一族である吉田氏が件の地に居住していてもおかしくないでしょう。近隣の田井庄町に鎮座する「八劔神社」も吉田連と同族とされる都祁村公なる氏族が関係していると伝えられています。
また『新撰姓氏録』の吉田連の記事はその来歴について長々と記しており、その中に「知須」なる人物が「奈良京田村里間」に居住していたことも見えます。この人物が『石上布留神宮略抄』に天平宝字年間に「祝田神社」を奉斎したという「吉田連智首」となります。
ただ、「奈良京田村」を現在の天理市田町として良いかはやや疑問です。
『石上布留神宮略抄』は「祝田神社」の鎮座地は田村旧宮の後とあり、この「田村旧宮」とは藤原南家の邸宅である「田村宮」或いは「田村第」のあった場所としているようですが、実際にこの「田村宮」があったのは平城京左京であると推定されています。
山城国葛野郡の「平野神社」に勧請した云々も、そこに祀られる「今木神」は元々は「田村後宮」に祀られていたことが『続日本紀』延暦元年(782年)十一月十九日の条から知られ、これは「田村宮」の後身と考えられ、やはり平城京左京にあったことになります。
そして「吉田連智首」の居住していた「奈良京田村」も「奈良京」とあるからには平城京左京の田村と考えられ、天理市田町でなく「田村宮」の辺りだったとするのが自然でしょう。
また、「平野神社」の「今木神」を「日本武尊」とするのは平安時代中期~後期以降の解釈であり、「平野神社」に祀られる神々を源氏・平氏・高階氏・大江氏・中原氏・清原氏・菅原氏・秋篠氏らの氏神にそれぞれ充てたものです(日本武尊は源氏の氏神とされた)。
もし仮に「祝田神社」の神が「平野神社」の「今木神」の元だったとしても、その神を「日本武尊」とするのは本来のものではありません。
上記のように、『石上布留神宮略抄』の記す「祝田神社」については数々の付会があるものと考えられ、直ちに認めるのは非常に難しいものとなっています。
ただ、他に因るべき資料も少ない現状では田町に式内社「祝田神社」があったとする可能性は十分考慮に値するものでしょう。
とはいえ、現在の田町には「厳島神社」が鎮座するものの、「祝田神社」の鎮座していた場所はそこではないようで、「祝田神殿」と呼ばれ布留川の北側にあった(天王橋の北詰あたり?)ようですが、現在は何も無い場所となっているようです。
式内社「祝田神社」の鎮座地が当地(田部町)にしろ田町にしろ、いずれも「田」の付く地名であり、やはり田に関する神社だったことは間違いなさそうです。
境内の様子
当社は田部町の北部に鎮座しているように見えますが、これは宅地開発により相対的に北方となったもので、実は旧来の集落の南端にあたる場所です。
従って、かつては当社の南方には田圃が広がっていたようです。
当社の入口は境内の東側にあり、玉垣で道路と仕切られたところに鳥居が東向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。参道に灯籠が並んでおり、当社の旧称である「天満宮」と刻んだものも見受けられます。
参道を進むと右側(北側)に手水舎が建っています。
さらに参道を奥へ進むと右側(北側)に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造。
拝殿後方の基壇上に塀に囲われて銅板葺・平入入母屋造に千鳥破風と向拝の付いた本殿が建っています。奈良県下では入母屋造の本殿はやや珍しいもの。
本社本殿の右側(東側)に境内社の「春日神社」が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
拝殿前には土俵らしき丸い土盛りが設けられています。これも奈良県下ではやや珍しいもの。
上述のように当地の旧来の集落は当社の北方にあるため、当社から北へ進むと古い町並みが今でも見られます。
由緒
案内板
祝田神社
地図