社号 | 意賀美神社 |
読み | おがみ |
通称 | |
旧呼称 | 武塔天神社 等 |
鎮座地 | 大阪府泉佐野市上之郷 |
旧国郡 | 和泉国日根郡上之郷村 |
御祭神 | 高龗神 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月9日 |
式内社
意賀美神社の概要
大阪府泉佐野市上之郷に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
社伝によれば、かつては上之郷村の布都という字の山中にあったが、天正年間(1573年~1592年)に焼失して現在地に遷座したと伝えられます。
ただし、後述のように当社の本殿は嘉吉二年(1442年)の建立で、天正年間に焼失した伝承と矛盾しています。長い年月の間に遷座の年月に混乱が発生したか、或いは元々別の神社だったものを流用したのかもしれません。
社名から推して当社は創建当初から水神である「高龗神」を祀っていたと思われ、近くを流れる樫井川の水神として祀られたものと考えられます。
和泉国は瀬戸内海式気候で降雨が乏しい上、大きな河川も無いので水の確保は大きな課題でした。岸和田市土生滝町に鎮座する「意賀美神社」と共に、和泉国の水事情を司った神社と言えることでしょう。
しかし現状では河道に対して並行の向きに鎮座しており、あまり水神らしさは感じられません。遷座前はもっと水神らしい佇まいだったのでしょうか。
江戸時代には「武塔天神社」と呼ばれており、この時代にはもはや水神としては意識されていなかったのかもしれません。(一般に武塔神は素盞嗚尊と同一とされる)
当社の本殿は前述の通り嘉吉二年(1442年)に建立された古い建築で、国指定重要文化財となっています。
この辺りは日根神社本殿・比売神社本殿・総福寺天満宮本殿・慈眼寺多宝塔・幸神社本殿など、国宝・国重文級の貴重な建築が数多く見られる一帯です。古くからの素晴らしいものを大切にする土地柄なのでしょう。
境内の様子
境内入口は北側と東側にあります。社殿の正面は東側ですが、北側の方が貫録を感じられ、表参道の雰囲気があるのでこちらから参拝します。
樫井川に架かる赤い欄干の橋を渡った先に一の鳥居が北向きに建っています。
一の鳥居両脇に配置されている狛犬。花崗岩製です。
当社は斜面上に鎮座しているため一の鳥居をくぐると石段が延びています。
石段を上りきると二の鳥居が北向きに建っています。二の鳥居は木造の両部鳥居。
二の鳥居の前に配置されている狛犬。こちらは和泉砂岩製でしょうか。
二の鳥居をくぐると社殿の建つ空間が広がっています。左側(東側)には手水舎。
奥へ進んでいくと右側(西側)に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は桁行十二間にもなる大型のもので、銅板葺の平入入母屋造に軒唐破風の付いた割拝殿形式。
拝殿後方の崖の上に所狭しと本殿の建つ空間があります。
本殿の空間は瑞垣で囲われ、さらに正面には小規模な懸造となった割拝殿状の拝所が設けられています。
瑞垣、拝所ともに朱や青などで彩色が施されており非常に鮮やかなものとなっています。
中央の拝所の手前に朱鳥居が建ち、石段を上って拝所の奥に本社の本殿が建っています。
本殿は一間社春日造に軒唐破風の付いたもので、嘉吉二年(1442年)に建立された大変貴重な建築。国指定重要文化財となっています。屋根は檜皮葺で、身舎や組物は非常に鮮やかな彩色が施されています。
なお、案内板には「一間社春日造りでは大阪府最古」とありますが、これは誤りです。大阪府最古の一間社春日造は泉穴師神社境内社の住吉神社本殿で、文永十年(1273年)に建立されています。
本社本殿の左側(南側)には「若宮神社」が東向きに鎮座。石段下に朱鳥居が建ち、平入切妻造の四脚門の拝所が設けられています。
社殿は銅板葺の一間社春日造に軒唐破風の付いたもので、彩色が施されています。
本社本殿の右側(北側)には「弥栄神社」が東向きに鎮座。こちらも同様に石段下に朱鳥居が建ち、迎唐破風の四脚門の拝所が設けられています。
社殿も同様に銅板葺の一間社春日造に軒唐破風の付いたもの。
本社本殿と弥栄神社の間に桟瓦葺の妻入切妻造の社殿(?)が建っていますが詳細不明。
訪問時は紫陽花が綺麗に咲いていました。
なお、当社の東側の入口はこのようなもので、本社社殿手前に鳥居が東向きに建っています。
一般に社殿の正面の参道が表参道となるのですが、当社の場合は北側の参道に狛犬や灯籠等が多数配置され、手水舎もそちらの方に置かれているので、表参道は恐らく北側の方なのでしょう。
境内の北側から斜面を上ったところに「堂ヶ谷神社」が鎮座しています。御祭神は「猿田彦命」。
石段下、石段上それぞれに朱鳥居が建ち、奥の瑞垣内に銅板葺の一間社春日造の社殿が建っています。
案内板の文意がイマイチ掴みにくいですが、かつて山間に集落があり、彼らが祀ったものを大正六年頃に合祀したもので、足の神として信仰されているようです。
案内板
足の神様 堂ヶ谷神社
境内周辺の様子
当社付近の上之郷地区は古い町並みが残っており、近世以降の和泉地方の農村の様子を窺い知ることができます。
上之郷地区には「茅渟宮跡」とされるところがあります。
茅渟宮とは允恭天皇の御代に衣通姫(ソトオリヒメ)のために設けられた宮です。『日本書紀』允恭天皇七年十二月条によれば、皇后の妹である衣通姫は天皇の寵愛を受けるも皇后の嫉妬のために茅渟宮へ移されたとされています。
その後も天皇は遊猟を口実に茅渟宮の衣通姫の許へ通い続けましたが、皇后が諫めるとここへ通うことは稀になったとされています。
このことを悲しんだ衣通姫は「とこしへに君もあへやもいさな取り 海の浜藻の寄る時々を」と詠み、現在はこの歌碑が建っています。
由緒
案内板
意賀美神社本殿
『和泉名所図会』
地図